磯田道史「龍馬史」を読む

品川区立会川駅前の公園に建っている坂本龍馬像


 歴史上、誰が好きかというアンケートをとると、いつであってもトップになるのは坂本龍馬である。ただ、この「いつ」というのには条件が付く。司馬遼太郎が「龍馬がゆく」を書いた以降である。
 龍馬の人気はすさまじいもので。テレビでは何度もドラマ化され、龍馬に関しての本は数え切れないぐらい出版されている。何故龍馬は人気があるのか。「龍馬がゆく」が龍馬をヒーローとして描いたからだといってしまえば、それまでだが、「龍馬がゆく」の細部はほとんどがフィクションに近い。それは当たり前のことで、小説家は人物をいかに魅力的に描くかが重要な仕事だからだ。人物の思想・行動原理を深く論理的に追求することはあまりしない。龍馬の思想・行動の原理を「龍馬がゆく」から読みとるのはかなり難しい。これは、司馬が師と仰ぐ子母沢寛の「勝海舟」にもいえる。この本では主人公勝海舟ほたいへん魅力的な人物と描かれているが、細部はほとんどフィクションである。うっかり史実として信用したらとんでもないことになる。

 もうはるか遠い昔になるが、私が大学で近代史の授業を受けたとき、教授が「最近、卒業論文に参考文献として司馬遼太郎の小説をあげる人がけっこういる。これはいかんよ。」と言った。この言葉を聞いて、私はカチンときたのだが、今になって思えば教授のいったことは正しいと思わざるを得ない。ただ、「龍馬がゆく」「勝海舟」にしろ坂本龍馬・勝海舟に興味を起こさせるにはすばらしい本である。

品川区立会川駅前の公園に建っている坂本龍馬説明文

品川区立会川駅前の公園に建っている坂本龍馬案内図


 それでは、龍馬の思想・行動原理を知るにはどうすればよいのか。専門的な研究者の本を読むことだが、その内容の論理展開が龍馬の自筆の手紙を根拠としているならば鬼に金棒である。自筆の手紙こそ、史実を知る上での最高の資料である。磯田道史の「龍馬史」はそのような意味において、龍馬の思想・行動原理を知る上で最適な本である。著者の磯田はよくテレビの歴史番組のコメンテーターとして登場するが、研究者としては一流で、私は「武士の家計簿」を読んで、すっかりファンになった。「龍馬史」は龍馬の自筆の手紙をすべて読み真の龍馬の人物像を追求したものである。

 私がこの本を読んで、深く納得したのは次の3点である。
1.龍馬が海軍と外国の貿易とを最重要視した。
2.幕末の動乱において、イギリスが深く関与している。
3.幕府見廻組が龍馬を暗殺したという説を完膚なきまでに証明した。

 1では龍馬の師である勝海舟の受け売りのように思われるが、龍馬は海舟以上に貿易の必要性を指摘した。私は龍馬は海舟の主張を行動原理として動いていたと思ったが、それは違うことがわかった。龍馬は海舟よりも国家のイメージが明確で幅も広い。三岡八郎(後の由利公正)とは何度か新国家の財政はどうあるべきかを議論している。ここまでは海舟もあまり考えていなかった。
 2については最近、新政府軍の黒幕はイギリスで、幕府軍と対峙する際、イギリスがかなりの資金援助をしたという説が出てきた。私はこの説はかなり真実に近いのではないかと思っている。磯田は黒幕とはいってないがイギリスが武器の調達にかなり便宜を計っており、その間に介在した中心人物が龍馬であったことを指摘している。幕末・維新においてイギリスと日本は想像以上に親密であったと私は思っている。そうでないとあの日英同盟が考えられないからだ。磯田には別の本で幕府・維新においてのイギリス・日本との関係を詳しく述べてほしい。
 3は、私にとって非常に残念な内容である。私はさしたる確証もなく、状況判断で龍馬を暗殺したのは薩摩藩ではないかと推測していたからだ。私は磯田の論証によって、薩摩藩説を取り下げるしかない。もうこれからは、見廻組暗殺説以外の説は語れないだろう。
 それにしても、龍馬が京都所司代の永井玄蕃守と親しかったので、幕府が殺すはずがないと思っていたのに、その永井玄蕃守に会いに行くことが龍馬の暗殺につながるとは、私は全く知らなかった。

 龍馬に関しての本はこれからも、続々と出てくるであろうが、この「龍馬史」と並行して読むことをおすすめする。

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オールコック「大君の都 幕末日本滞在記」を読む

東京都港区 旧イギリス公使館があった東禅寺


 昨今の東アジア情勢を見るに、日本が朝鮮を併合する前の状況を髣髴させる。近代以降、朝鮮半島はつねに日本そして東アジアの火薬庫なのである。
 北朝鮮の暴挙は言うに及ばず、韓国の動きも目を覆うばかりである。特に韓国の事大主義にはあきれる。中国に擦り寄り、アメリカに胡麻をすり、はたまた困ったときには日本に色目を使う。その日本には、解決済みの歴史問題をあげつらってこれでもかと貶める。朝鮮民族とは何ともやっかいなものである。
 全歴史を通じて、日本と朝鮮との決定的な違いは独立の精神があるかないかの違いである。日本はどんな状況でも独自の力で独立を守った。朝鮮は独立するために他国に頼ったのである。
 日本も幕末、独立が危うくなったときがある。あの戊辰の役の直前、幕府が本気になってフランスに頼み込んでいたらどうなっていたろうか。そうなれば官軍はイギリスを引っ張り出し、日本を舞台にしてイギリスとフランスの戦いが起こったかもしれない。どちらが勝っても日本の独立は失われていたろう。ところが実際には、イギリスもフランスも武力介入せず、江戸城は平和的に開城された。その中心的役割を果たしたのが勝海舟と西郷隆盛という二人の英傑である。
 翻って朝鮮半島を見ると、日清戦争も日露戦争もそれぞれ朝鮮半島保全のために日本と清、日本とロシアが戦ったものである。当事者の朝鮮はなすすべがなかった。これも朝鮮が、日本と清、日本とロシアを天秤にかけた結果である。
 鳥羽・伏見の戦いから、官軍が東征し、品川に入って今にも江戸城を攻め込もうとするとき、勝と西郷の会談が行われた。この幕府側と官軍側の交渉において、表にはでなかったがイギリスの公使パークスが大きな役割を果たした。イギリスは官軍と幕府の交渉に介入はしなかったが、勝はイギリスを利用したのだ。日本が、東北の諸藩と一部の幕臣の反乱だけで、明治維新を迎えられたのはイギリスの影の力があったことは否めない。これが,将来の日英同盟につながったという見方はあながち的外れではないだろう。
 1858年に日本とイギリスが通商条約を結んで日本とイギリスとの本格的な交易が始まった。イギリスは日本を有力な市場を見なしていたのである。
 イギリスの初代の公使はオールコックである。オールコックの来日をもって日本とイギリスの親密なる交渉が始まったといってもよい。

東京都港区 東禅寺

東京都港区 東禅寺三重塔


 オールコックは1859年に長崎に来日し、それから1862年まで滞在して一旦イギリスに帰国した。1864年に再来日し、その年に公使を解任された。次の公使がパークスで1865年に来日した。
 オールコックは足掛け4年間日本に滞在したのであるが、後年、日本滞在記を著した。これが「大君の都」である。この滞在記は日本で見聞したものを書いたもので、内容は多岐に渡り、中にはオールコックの独自の文明論・文化論なども散りばめられている。オールコックは外交官であるが、医者でもあり、歴史・地理・文学にも造詣が深い。また、驚くべきことは、文中に出てくる絵がオールコック自身が描いたものであるということだ。村の美人・着飾った婦人・武士・商人・幼児を背負った母親・馬に乗った武士・茶屋の給仕女・仲のよい夫婦・入浴中の婦人・道ばたの休憩の風景・呉服屋の風景・江戸郊外から見た富士山・村の水道・温泉の風景などの絵は素人ばなれしている。
 大君(タイクーン)は徳川将軍のことである。オールコックは当然、日本の最高権力者は徳川将軍であり、将軍率いる幕府が日本の国の政治を司っていると思っていた。他の条約締結国の公使たちも同様に思っていたのである。事実、条約は幕府の責任のもとで締結されている。
 ところが実際に日本に赴任してみると、日本は二重権力構造であることがわかった。都の京都に天皇なる将軍の上にある存在があることを知る。オールコックは天皇のことを帝(ミカド)と呼んだ。大君の都とは京都の天皇を意識しての言葉であることは確かだ。 「大君の都」を読んでの第一印象は、知ってはいたが、幕末の日本が外国人にとって恐怖の場所であったことである。オールコックが宿泊所として使っていた品川の東禅寺で攘夷派の人間に襲われた。オールコックは九死に一生を得た。このとき、東禅寺を護衛していた幕臣たちは何もしなかったという。オールコックは幕府は本当に自分たちを守る気があるかと疑心暗鬼になった。オールコックは口を極めて幕府を責めている。
 オールコックを含めた西洋人たちはいつ殺されてもいいような状態に追い込まれていた。しかし、そんな状態にありながら、オールコックは江戸の町を出歩き、江戸からはっきり見える富士山に興味をもち、富士山に登っている。
 オールコックは日本の自然の美しさを激賞している。江戸の町はロンドン郊外に劣らず美しいといっている。当時、ロンドン郊外は世界で最も美しいと言われたことろであった。
 富士山からの帰り道、オールコックは美しい田園地帯を歩いていた時、農民の姿を見た。彼らの着ていた服、住んでいる家、そして食べているものはみすぼらしかった。それでも彼らは笑いをたやさないで、幸せそうであった。そのことにオールコックは驚いている。
 日本の外交・政治体制などは非常におそまつであると、オールコックは述べているが、日本の文明・文化の度合は高いと見ている。将来、アジアの国の中では、日本が真っ先に西洋に追いつくであろうとオールコックは予言している。

 「大君の都」は幕末の日本を知る上でたいへん貴重な本である。

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 上の写真は、東京都港区にある東禅寺の山門・本堂・三重塔です。東禅寺は、最初のイギリス公使館になった場所です。
 案内板には次のようの記されています。
<  東禅寺 は、幕末の安政六年(一八五九)、最初の英国公使館 が置かれた場所です。東禅寺は、臨済宗妙心寺派 に属し、開基の飫肥藩主伊東家の他、仙台藩主伊達家、岡山藩主池田家等の菩提寺となり、また、臨済宗妙心寺派の江戸触頭でもありました。
 幕末の開国に伴い、安政六年六月、初代英国公使(着任時は総領事)ラザフォード・オールコック が着任すると、東禅寺はその宿所として提供され、慶応元年(一八六五)六月まで七年間英国公使館として使用されました。その間、文久元年(一八六一)五月には尊皇攘夷派の水戸藩浪士に、翌二年五月に松本藩士により東禅寺襲撃事件が発生し、オールコックが着した「大君の都」には東禅寺の様子や、東禅寺襲撃事件が詳述されています。
 現在の東禅寺の寺城は往時に比べ縮小し、建物の多くも失われていますが、公使館員の宿所となっていた「僊源亭」やその前の庭園などは良好に残っています。庭園と僊源亭を含めた景観は、公使館時代にベアトが撮影した古写真の風景を今に伝えています。
 幕末期の米・仏・蘭などの各国公使館に当てられた寺院は大きく改変され、東禅寺が公使館の姿を伝えるほぼ唯一の寺院であることから国史跡に指定されました。>

◆  生麦事件の石碑と案内板

生麦事件の石碑

生麦事件の案内板


◆  神奈川 浄瀧寺 旧イギリス領事館跡の石標
 
神奈川 浄瀧寺 イギリス領事館跡


◆  田町 西郷隆盛・勝海舟会見の石碑
 
田町 西郷隆盛・勝海舟の会見場の石碑

 石碑の裏側に次のように彫られています。
<慶應四年三月十四日
 此地薩摩邸に於て 西郷 勝兩雄會見し江戸開城の圓満解決を図り百萬の民を戰火より救ひたるは其の功誠に大なり
平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す
昭和二十九年四月三日
本芝町會
本芝町會十五周年記念建之>

◆  品川 土蔵相模跡の案内板と西麻布長谷寺にある井上馨墓所
 
品川 土蔵相模跡の案内板

西麻布 長谷寺 井上馨墓所


◆  千代田区番町にある現在のイギリス大使館とアーネスト・サトウの桜
 
千代田区番町 イギリス大使館

イギリス大使館前に建っている案内板


◆  東禅寺がある高輪近辺の写真
 
高輪大木戸

高輪大木戸の案内板

高輪海岸の案内文

 高輪大木戸の案内板には次のように記されています。
< 高輪大木戸は、江戸時代中期の宝永七年(一七一〇)に芝口門にたてられたのが起源である。享保九年(一七二四)に現在地に移された。現在地の築造年には宝永七年説・寛政四年(一七九二)など諸説がある。
 江戸の南の入口として、道幅約六間(約十メートル)の旧東海道の両側に石垣を築き夜は閉めて通行止とし、治安の維持と交通規制の機能を持っていた。
 天保二年(一八三一)には、札の辻(現在の港区芝五の二九の十六)から高札場も移された。この高札場は、日本橋南詰・常盤橋外・浅草橋内・筋違橋内・半蔵門外とともに江戸の六大高札場の一つであった。
 京登り(きょうのぼり)、東下り(あずまくだり)、伊勢参り(いせまいり)の旅人の送迎もここで行われ、付近に茶屋などもあって、当時は品川宿にいたる海岸の景色もよく月見の名所でもあった。
 江戸時代後期には木戸の設備は廃止され、現在は、海岸側に幅五・四メートル、長さ七・三メートル、高さ三・六メートルの石垣のみが残されている。
 四谷大木戸は既にその痕跡を止めていないので、東京に残された、数少ない江戸時代の産業交通土木に関する史跡として重要である。震災後「史蹟名勝天然記念物保存法」により内務省(後文部省所管)から指定された。 >

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石平「なぜ中韓はいつまでも日本のようになれないのか」を読む

聖徳太子生誕地 奈良県明日香橘寺太子堂


 「教育勅語」がマスコミ界を賑わしている。ある大手新聞の記者が文部科学大臣に対し、「教育勅語を教えるということは、戦前に戻るのですか?」と質問をした。何かあるといわれるフレーズにあきれながらも、やはり怒りを禁じ得ない。この日本の良心を代表していると自認している新聞社の記者ははなから「戦前の日本は悪」と決めつけているのだ。
 自らの国の歴史を否定する国に未来はあるのかというのはよくいわれるが、正直、この新聞社の記者のような人間が言論の最前線にいる国の未来ははたしてだいじょうぶかと不安になる。
 歴史論争といえば日本と中国・韓国との間の問題のようにとられがちだが、歴史問題の根本的な問題はすべて日本人自身にあるといわざるを得ない。
 日本の戦前を否定する人たちの決定的な間違いは、歴史と真剣に向き合わないことである。あたかも「戦前の日本は悪」が否定できない公理として、歴史を見ることである。この先入観のもとでは、歴史をどんなに学んでも無意味である。
 「戦前の日本は悪」という公理に都合のよい事実だけをあげつらって、自説が正しいことを主張するだけである。このような論法では、歴史の真実が見えてくるはずがない。
 日本が満州を侵略していたというが、そのときの満州そして中国がどのような状況にあったかを本当に調べたのか?日韓併合は悪だというが、大半の朝鮮人が望み、西洋諸国が認めたことを知っているのか?
 歴史に真剣に向き合うというのは、先入観なしに、その時代を時間的にも地理的にも相対化して見るということだ。いい換えると、現代の見方で、日本の事情だけでその時代を見てはいけないということだ。
 教育勅語が悪いという人間たちは、教育勅語がどのような過程でできたかを知っているのか、それ以上に教育勅語を本当に読みこなしたのか。少なくとも十回読んでみれば、この勅語が日本を戦争に導いたなどといえるはずがない。要は、日本人がお互いに尊重しあって日本のために協力しようということで、当たり前のことをいっているにすぎない。また、勅語は法律でないことも肝に銘じておくべきだ。
 戦前、世界で最も尊敬された日本人の一人にリベラリストの新渡戸稲造がいる。新渡戸はヨーロッパに滞在しているとき、「日本にはキリスト教のような宗教はないが、倫理・道徳教育はどうしているのか?」という質問を受けた。この西洋人は無宗教の日本人がなぜ道徳心に満ち溢れた人間かと驚嘆しているのである。新渡戸はすかさず、「日本人は武士道を学びます」と答えた。新渡戸は欧米人に武士道を理解してもらうために英語で「武士道について」という本を書いている。
 教育勅語を悪という人間は、武士道も悪というであろう。ところが、武士道は倫理・道徳のような行動規範であって、日本人に根強く植え付けられたものである。現在、日本人の道徳観念は高いと世界中から称賛されるが、実は、これも武士道のおかげなのである。武士道と戦争とはまったく関係がない。教育勅語と武士道はかなり似通っている。
 歴史を学ぶというのはたいへんな精神的な苦痛を伴うものである。とにかく、主観を排して、客観的に見なければならない。いい事も悪い事も事実として受け止め、論理的にその裏側にある真実に迫らなければならない。そのため、日本に住んだことのある外国人の方が、日本並びに日本の歴史をより客観的に記述してくれる。
 幕末から明治にかけてたくさんの西洋人が日本を訪れ、日本のことについて本を書いている。その本を読んでみると、びっくりするぐらい日本のことを称賛している(もちろん日本のことを貶していることもあるが)。それらの本を読み尽くせば、江戸時代に対する見方が劇的に変わるであろう。

多磨霊園 武士道著作者新渡戸稲造像

独協学園創立者西周像


 石平氏の「なぜ中韓はいつまでも日本のようになれないのか」はすばらしい本である。中国人から日本人になった石平氏は、日本の歴史を相対化できる人である。
 タイトルから、この本はいかにも中国・韓国を貶す本だと思われがちだが、実際に読んでみると、この本は日本人の歴史の見方に警鐘を鳴らしたものであることがわかる。石平氏は中国人・韓国人に怒っているのではなく、日本人に対して怒っているのである。日本人よ、歴史を正しく学べといっているようだ。
 日本がなぜ、世界に冠たる自由市場経済国になったかは、江戸時代という西洋型の封建時代があったからだといっている。江戸時代は暗黒時代ではないと力説しているのである。その論理的な記述には説得力がある。私はただただ頷くだけである。

 日本の歴史を知りたい人にはかならず読んでほしい。

世田谷松陰神社 吉田松陰像

浅草 吾妻橋に建っている勝海舟像

金沢八景 憲法草創ノ碑


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 写真上から、聖徳太子生誕の地である奈良県明日香橘寺の太子堂です。聖徳太子は、十七条の憲法を制定しました。十七条の憲法は「和を以て貴しと為し、」から始まります。日本人の心の中には「和を以て貴しと為し、」が刻み込まれています。
 文中の写真上は、武士道の著作者であり、国際連盟事務局長、旧制第一高等学校長など要職を歴任した新渡戸稲造の像です。
 写真下は、啓蒙家、教育者で独協学園創立者の一人で初代校長を務めた西周です。開校式の演説において「そもそも、学をなす道はまず志を立つるにあり」「志を立てて学問に従事すれば、これに次ぐものは勉強にあり」と述べています。
 1948年(昭和23年)6月19日、教育勅語などと共に失効したものに軍人勅語があります。軍人勅語は西周が起草し、教育勅語を起草した井上毅が加筆しました。
 西周は、福沢諭吉と共に多くの西洋の言葉を訳語にしています。「芸術」「理性」「科学」「技術」「心理学」「意識」「知識」「概念」「帰納」「演繹」「定義」「命題」「分解」など現在でも重用されています。
 写真下は、世田谷の松陰神社に座っている思想家吉田松陰像です。下は、幕末に西洋列強国からどのように日本を守ることを第一に考えて行動した浅草吾妻橋に建っている勝海舟像です。
 最後の写真は、金沢八景に建っている憲法草創の碑です。この地で井上毅、金子堅太郎、伊藤巳代治らによって明治憲法が草創されました。

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Tag : 石平 なぜ中韓はいつまでも日本のようになれないのか 武士道

ハインリッヒ・シュネー『「満州国」 見聞記 リットン調査団同行記』を読む

靖国神社の向かい 田安門 大山巌像


 先の大戦で、日本が本格的に戦争に突入した分岐点は、昭和8(1933)年に国際連盟を脱退したときであろう。日本は常任理事国であった。このとき、ドイツもナチスが政権をとったため脱退している。奇しくも、日本・ドイツが国際的に孤立し、結局、大戦に向かうことになる。
 日本が国際連盟を脱退した理由は、満州事変を経て建国された満州国が国際連盟から認められなかったからだ。その根拠となったのがリットン調査団の報告書である。
 満州事変とは、昭和6(1931)年に中国の満州で起こった柳条湖事件をきっかけに、満州に駐留していた関東軍が満州地域を侵略するというものである。この勢いを買って翌年、日本は満州に満州国という独立国を建国した。満州の主権を主張していた中国は当然のごとく満州国を否定した。
 当時、国際紛争を解決する機関の国際連盟はイギリス人のリットンを団長とする調査団を満州に派遣することを決めた。これがリットン調査団である。
 リットンという名前は歴史上非常に有名である。入試問題にもよく出題される。いいも悪いもリットン調査団が日本を戦争に向かわしめたと思われている。私も、学生の頃、リットン調査団のことを知って、リットンというのは恐い男だと思った。
 リットン調査団はイギリス人、フランス人、イタリア人、アメリカ人、ドイツ人の各一人ずつの五人で構成されている。国際連盟に加入していないアメリカ人がいるのが不思議である。
 ドイツ人はハインリッヒ・シュネという人である。シュネはこの調査団に参加してからの同行記を書いている。これが日本語訳されたのが<「満州国」見聞記 リットン調査団同行記>(金森誠也訳)である。

原宿 東郷神社 東郷平八郎

江の島 兒玉源太郎 兒玉神社


 この見聞記を読む前、この本はかなり辛辣に日本を批判しているのではないかと危惧していたが、実際に読んでみると、日本語訳されているからかわからないが、日本に好意的に書かれている。これには正直驚いた。
 五人の一行は、ジュネーブからアメリカ経由で行くことにした。シベリア経由で極東に行くという最短コースは満州の鉄道が寸断されているので不可能であったからだ。アメリカから日本・中国と行くのであるが、中国に行くまでは見聞記の記述はさながら物見遊山に行くようなのどかなもので、見聞記というより旅行記という感じである。
 日本に着くと、彼らは日本政府から歓待された。昭和天皇にも会見し高級料亭で芸者に接待された。芸者にかなり興味をもったのか、芸者のことをかなり詳しく描写している。 横浜からすぐに中国に向かうのかと思いきや、わざわざ関西旅行までしている。関西では、京都・奈良の観光をし、大阪に滞在し、結局、大いに日本旅行を楽しんで、中国に向かった。
 さすがに中国に入ると、雰囲気が変わってきた。やはりこれは、中国の内情が不安定であったからだろう。一行は満州に入り、張学良や溥儀に会った。
 満州の記述を読んで、私が目を疑ったのは、著者がはっきりと、満州の繁栄は間違いなく日本のおかげだということが書かれていたからである。日本が進出するまえの満州は不毛の地で匪賊とよばれる強盗団が跋扈する地域であった。そこを日本が開発したのである。そのため人が続々と押し寄せ、人口が爆発的に増えた。
 不思議なことに、満州を視察しても、日本に対する非難の言葉は一切ない。著者は中国人だけでなく日本人に対しても好意的である。

 日本の歴史家たちは判で押したように満州事変以降の日本軍の行動を侵略戦争というが、はたして、当時の満州が本当に正式の中国政府の主権が及んでいたことを証明できるのであろうか。歴史的に見て、満州は満州族などの領土であって、漢民族の領土であったかは疑わしい。この見聞記を読んでも中国の主権が満州に及んでいるとは思えない。
 固定化された歴史観で歴史は見るべきでないだろう。

新宿区 漱石山房 夏目漱石像

港区乃木坂 乃木邸 乃木希典像


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 満州国は、日露戦争(1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日)の終戦交渉において、締結されたポーツマス条約により日本の租借地となりました。各写真は、日露戦争に関係あるものを並べました。
 写真上から、靖国神社の向かいに建っている元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務めた大山巌像、連合艦隊司令長官として指揮を執った東郷平八郎を祀っている原宿に建立された東郷神社、満州軍総参謀長を務めた兒玉源太郎を祀っている江の島に建立された兒玉神社です。
 下の写真は、新宿にある漱石山房に建っている文豪夏目漱石像です。夏目漱石は司馬遼太郎の作品である「坂の上の雲」にも登場し、漱石の作品である「三四郎」には次のような一節があります。
<三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。三四郎は頭の中のどこのすみにもこういう思想を入れる余裕はないような空気のうちで生長した。>
 夏目漱石を語る評論家は常にと言っていいほど、この一節を例にとって、その後日本は、戦争に突き進んだという。
 最後の写真は、港区乃木坂にある乃木邸に建っている乃木希典像です。日露戦争では旅順攻囲戦の指揮や執りました。明治天皇の後を慕って殉死した場所は、像の後ろに建っている母屋です。また、漱石の作品「こころ」には乃木希典の殉死について描写されています。

テーマ : 歴史・時代小説 - ジャンル : 本・雑誌

Tag : ハインリッヒ・シュネー リットン調査団 満州国

三好徹「叛骨の人 大江卓」を読む

神奈川県庁屋上から写した大桟橋


 近頃、やたらと人権という言葉が飛び交う。何かというと人権蹂躙だとか人権無視だと言って非難する。特に、マスコミや国会議員が政府を攻撃するときに使う。中には、日本は人権国家ではないという輩もいる。
 国会議員が人権を口にするとき、私はかならずといってよいほど、大江卓のことを思い浮かべる。大江卓は歴史上有名な人ではないが、知る人ぞ知る正義の人である。
 大江が正義の人と評判をとったのは、ある事件を人権の見地から解決したことである。 大江が神奈川県権令のとき、ペルーの船が横浜の港に停泊した。そのとき、ペルーの船から一人の中国人が抜け出し、港の役所に助けを求めた。大江が聞いてみると、その中国人は奴隷として売られてペルーに連れて行かれるという。大江は早速ペルーの船の船長を呼びつけ事情を聞いた。船長は当然、中国人の言っていることを否定した。大江は中国人を船長に返した。
 ところが、それから船の中から人が虐待されているような声が聞こえるという訴えが役所にあった。大江は船に乗り込み、詳しく調べ、船には二百人以上の中国人がおり、彼らはまさに前に大江に会った中国人同様に奴隷として売られ、ペルーに連れて行かれるところであった。
 大江はすべての事情を察し、中国人を解放しようとした。船長は猛然と拒否した。それで、大江は裁判を開いて、自らが裁判長となり、日本の法律に則って中国人を解放しようとした。
 それから、大江は獅子奮迅の活躍をして、結局、裁判に勝ち、中国人を解放した。中国人は喜び、当時の清の国は国をあげて、大江に感謝した。
 この事件をマリア・ルス号事件という。この事件を解決するにあたって、大きな障害がいくつもあった。その一つが、日本政府の反対である。ペルーとは条約を結んでいないから、日本の法律は適用できないので、かかわるなと政府は大江を脅した。しかし、大江は頑としてこれに抵抗した。
 二つ目はペルー側の弁護士が、日本にも娼婦や芸者が売り買いされ、人身売買が合法的に行われているというものである。大江がさすがに困ったが、これもうまくのりきった。 裁判で買っても大江は実利を得ることにはならないが、大江はただ正義のために戦ったのである。
 この事件にはおまけがついた。事件後、日本では娼婦や芸者の人身売買が禁じられたのである。

横浜山下公園に係留されている氷川丸

横浜山下公園に建っている『赤い靴はいてた女の子の像』


 三好徹の「叛骨の人 大江卓」は大江の伝記小説である。内容の大半は、上に述べたマリア・ルス号について割かれている。
 大江は土佐出身である。土佐藩には上士・下士という藩士があり、下士は上士よりはるかに身分が低かった。坂本龍馬は下士であった。大江の家は下士どころではなく、下士の家来である。ほとんど人間扱いされなかった。
 大江は脱藩した坂本龍馬にあこがれ、海援隊に入るべく土佐を出た。この小説は、大江が龍馬の妻のお龍と馬関(下関)で会うところから始まる。この最中に、龍馬が京都で殺される。
 その後、大江は陸援隊の一員となり、幕末を過ごし、明治になって、龍馬の弟子である陸奥宗光の助けによって、神奈川県権令になり、明治五年にマリア・ルス号事件を解決することになる。
 明治十年の西南戦争では、大江は陸奥宗光などと謀って、西郷隆盛率いる薩摩軍に呼応しようとするが、それが政府に知られて、大江は十年間獄中の人となった。
 獄から出ると、代議士などをしたり、社会運動家のようなことをした。

 大江はマリア・ルス号事件と娼婦と芸者の人身売買の廃止で有名であるが、もう一つ有名なことがある。それは、穢多・非人の呼称を廃止させたことである。穢多・非人は非人道的の最たるもので、大江はこれを見逃すことができなかったのである。
 大江の人生はまさに正義で貫かれていた。

横浜関内 吉田橋関門跡の石碑

高島嘉右衛門旧邸宅跡に建っている案内板


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 上の写真は、横浜にて写したものです。上から3枚は、県庁の屋上から写した大桟橋、横浜山下公園に係留されている氷川丸と同じ公園に建っている野口雨情作詞、本居長世作曲の『赤い靴はいてた女の子』をイメージして製作した『赤い靴はいてた女の子の像』です。
 下の2枚の写真は、JR関内駅そばに建っている吉田橋関門跡と現在のJR横浜駅を埋め立てて整備した横浜の功労者のひとりである高島嘉右衛門の旧邸宅に建っている案内板です。明治時代には、旧邸宅からは、横浜港が一望できました。

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Tag : 三好徹 叛骨の人 大江卓

石平「韓民族こそ歴史の加害者である」を読む

上野公園 征韓論 西郷隆盛像


 昨今の中国・韓国の歴史問題における日本非難がすさまじい。日本は歴史を直視せよとの大合唱である。特に、韓国は慰安婦問題を取り上げ、日本・韓国両国政府での合意を無視して恥じることがなく、あろうことかさらに日本を責めている。
 韓国の国際常識無視を糾弾するのは簡単であるが、まず、考えなければならないことは、何故、慰安婦問題がこれほどまでに大きくこじれることになったかである。
 そもそも、慰安婦問題は韓国から提起されたものではない。朝日新聞の捏造記事によって、突然歴史に登場したのである。朝日新聞は三十年以上もこの記事が誤報であることを認めなかった。私が問題視するのは、日本国民が三十年以上も朝日新聞に誤報を認めさせることができなかったことである。
 これは、国民が心の底で、「日本は過去、韓国に対して非道なことをしたのではないか」と思っているからでないか。日本人は、戦後、当たり前のように、戦前の日本は諸外国に多大なる被害を与えたと教わってきた。学校の日本史の授業では日本の悪口のオンパレードであった。テレビでは現在でも戦前の日本を否定的に堂々と報じている。いわば、生まれ落ちたときから、私たちは、戦前の日本は悪だと刷り込みされて育ってきたのである。歴史問題の根本は日本人の歴史認識にあるのではないかと、私は思う。
 はたして、戦前の日本は本当に悪であったのか。ぜひとも、日本人は自ら学習して確かめなければならない。とりもなおさず、歴史問題は日本人が歴史に対して無知であるという問題でもある。中国人・韓国人の問題ではない。

品川 伊藤博文霊廟


 韓国の歴史は現在それこそ数え切れないほど出版されているが、韓国の全歴史を通じて本質的かつ論理的かつわかりやすく述べている本の一つとして石平氏の「韓民族こそ歴史の加害者である」を上げる。
 この本は非常にわかりやすくそして説得力がある。おそらく、この本一冊で、韓国という国がどのようにして諸外国(中国・日本・ロシア・アメリカ)と通じていたのかがわかる。そして、韓国という国の他の国とは全く違う性格がよくわかる。
 結論からいうと、韓国は自らがいうような、被害者であることは歴史上一度たりともなく、つねに、諸外国を自国の紛争に巻き込む加害者であったことである。中国も日本もアメリカも被害国であったのだ。
 時代を、三国(高句麗・新羅・百済)時代・高麗時代(元寇の時代)・朝鮮王朝(近代化の時代)・朝鮮戦争の時代(戦後)の四つの時代に分けて、詳しく述べている。
 たとえば、一番新しい歴史である朝鮮戦争のことである。この戦争では、五百万人以上の人が死んでいる。中国軍もアメリカ軍も多大なる戦死者をだした。しかし、本来なら、この戦争は三か月で終了し、被害もごくわずかであった。それを韓国初代の大統領である李承晩が、何の戦略も知恵もなく、ただ自らの願望のために、いたずらに戦線を拡大していった。結局、朝鮮は統一されず、五百万の死者をだしながら、三十八度線はなくならなかった。これなら、金日成の北朝鮮軍が攻めて来てから三か月でやめてもよかったのである。李承晩の野望のために三年以上も戦争を継続した。中国とアメリカは多大なる被害を蒙ったのである。
 韓国は自分の国の始末を自分の国の力で行うことができないのである。つねに外国にたよる。そして、かならずその協力してくれる外国を裏切る。これは韓国の歴史を通して一貫している。現在も同じような状況である。

常盤橋 渋沢栄一像

ホテルオークラ 大倉喜八郎像


 この本を読むと、日本人の独立の精神がいかにすばらしかったのかをしみじみと思いだす。なぜ、勝海舟が江戸城の無血開城を許したのか。大きな理由は外国が日本の内乱に介入することを防ぐためだ。韓国は同じ韓国人の政敵を排除するために、外国の力を借りた。韓国には根本的に自主独立の精神がないのである。このような国が本当に北朝鮮と統一できるのであろうか。ドイツとは全く似ても似つかない国である。
 韓国に関する本を揶揄して嫌韓本というらしいが、石平氏のこの本は韓国を卑下したものではない。まさに、歴史的事実を述べているだけである。ぜひとも、韓国を批判する前に読んでほしい。

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 上の写真は、明治時代に朝鮮半島に関係した人たちです。日本では尊敬されている偉人ばかりです。上から上野公園に建っている征韓論の西郷隆盛像、大井町にある初代朝鮮統監の伊藤博文霊廟、朝鮮人を雇用してインフラを整備し、学校を設立して人材を育てた常盤橋に建っている渋沢栄一像とホテルオークラ大倉集古館にある大倉喜八郎像です。

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Tag : 石平 韓民族こそ歴史の加害者である

シーボルト「江戸参府紀行」を読む

築地 あかつき公園 シーボルト像


 シーボルトといえばシーボルト事件である。だが、シーボルトを、国外に持ち出し厳禁の日本地図をオランダに持ち帰ろうとした事件の犯人だ、とだけ認識していたら大きな過ちである。シーボルトはとてつもなく貴重なものを日本に残してくれた。それを知ることによって、私たちは江戸時代の真の姿を垣間見ることができるのである。
 シーボルトはオランダ人ではなく、実はドイツ人である。オランダ人になりすまし、そして医者として文政六年に日本に来た。シーボルトは単なる医者ではなく、生物学・地理学・地質学・鉱物学・化学など広い分野の学問に造詣が深かった。いわゆる、学問の化け物のような人であったのだ。早くから日本に興味を持ち、日本のことを研究したいと思って日本にやって来たのである。
 シーボルトは教えることにも熱心で、多くの日本人に医学などを教える傍ら、逆に日本人の教え子から日本のことを教わったりした。
 シーボルトは日本で研究したことをヨーロッパに持ち帰り、本を著した。その本がヨーロッパ中に日本を知らしめたのである。江戸時代の生の日本を知る上で、シーボルトがたいへん重要な人物なのは、彼が、将軍家に謁見するため長崎と江戸を往復する際、日記を書いていたことである。シーボルトは道中の間、見たことそして調べたことを日記に克明に書いている。
 この日記が「江戸参府紀行」である。

日本橋 長崎屋案内板

あじさい


 少しでも江戸に興味のある人なら「江戸参府紀行」がたいへんすばらしい歴史資料であることがわかるであろう。何しろ、見たまま調べたままを書いているのだから、色のついたフィルターを通して論じた歴史書より、はるかに信憑性がある。私は「江戸参府紀行」の中に本当の江戸時代の日本の姿を見る思いがした。
 まず、この日記を読んで、たくさんの植物の名前に驚かされる。よくもまあ、こんなにたくさんの植物の名前を知っているものと感心してしまう。また、行く先々で、その土地の緯度と経度を計器を用いて計っているのには正直びっくりした。さすがに科学者である。それを日本の地図と見較べているが、日本の地図はほぼ正確であった。
 印象深かったのは、シーボルトにとって日本がたいへん美しい国に見えたことである。美しい海・美しい川・美しい山・美しい田んぼ・美しい畑など、シーボルトにとって、日本はヨーロッパより、はるかに美しい国であった。特に、田んぼの美しさには感心し、田んぼを支える感慨設備がよくできていると驚いている。
 日本の工芸品にも目を瞠っている。紙の作り方、塩の作り方など、ヨーロッパよりはるかにすぐれていることを見抜き、日本人が文章をよく書く理由を理解した。
 ただ、褒めているばかりではない。いわゆる当時の暗い部分も見ている。それは、日本人の穢多・非人に対する蔑視である。これは、シーボルトには理解できなかった。
 シーボルトにとって日本がすばらしかったのは、自然の美しさや工芸品の美しさだけでなく、やはり、日本人の性質そのものがシーボルトを感動させたのである。親切でやさしく、礼儀正しく、そして何より日本人は嘘をつかない人種として、シーボルトは理解した。日本人はヨーロッパ人よりはるかに優れた人種だとシーボルトは見てとったのである。 長い行程を経て、やっと江戸に着き、将軍家に謁見した。そのときの描写は格別で、江戸城の中がどうなっているのかなどがよくわかっておもしろい。また、江戸でのオランダ人使節の定宿である長崎屋のことも興味深く書いてある。
 とにかく、歴史好きにはたまらない日記である。

 シーボルトは日本を永久追放になったのだが、日本とオランダが通商条約を結んでまもなく、約三十年ぶりに日本に再び来た。日本とオランダをつなげる大使になりたかったようである。このことを以ってしても、シーボルトの日本に対する思いを知ることができよう。

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 写真上から、築地の公園に建っているシーボルト像、日本橋に建っている長崎屋跡の案内板、シーボルトが日本から持ち帰って、西洋に広めたアジサイの花です。

 築地の公園のシーボルト像には、次のように記されています。
< フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、オランダの商館医員として文政六年(1823)七月、長崎に到着し、診療の傍ら長崎の鳴滝に塾を開くなどして活躍した。
 同九年正月、商館長と共に江戸へ向かい、三月四日、日本橋の長崎屋に止宿し、四月十二日出発するまでの間、江戸の蘭学者に面接指導し大きな影響を与えた。しかし、同十一年シーボルト事件が発生し、十二月に日本から追放された。後に安政六年(1859)幕府顧問として再来日したが、まもなく帰国しミュンヘンで没した。
 彼の江戸における指導は、江戸蘭学発展のために貢献するところが大きかった。この地が江戸蘭学発祥のの地であり、且つ彼が長崎でもうけた娘いねが築地に産院を開業したこともあり、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が設けられていたことから、ここに彼の胸像を建て、日本への理解と日蘭の橋渡し役としての功績に報いるものである。>

 長崎屋跡の案内板には、次のように記されています。
< 江戸時代、ここには長崎屋という薬種屋があり、長崎に駐在したオランダ商館長の江戸参府時における定宿でした。諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダは、幕府に謝意を表するために江戸へ参府し、将軍に謁見して献上品を贈りました。
 江戸参府は江戸前期から毎年行われており、商館長の他、通訳、医師などが長崎からにぎやかに行列して江戸に来ました。しかし、経費の問題もあり、江戸中期からは四年に一回となっています。
 随行したオランダ人の中には、ケンペルやツンベルク、シーボルトなどの医師がいたため、蘭学に興味を持つ青木昆陽・杉田玄白・中川淳庵・桂川甫周・平賀源内をはじめとした日本人の蘭学者、医師などが訪問し、江戸における外国文化の交流の場として、あるいは、先進的な外国の知識を吸収する場として有名になりました。
 この地は、鎖国下の日本における数少ない西洋文明との交流の場として貴重であり、区民史跡に登録されています。>

 併せて読むと、江戸時代、特に幕末がよく理解できます。江戸時代の文化文明の進歩の度合いが、その後の日本と朝鮮の差として現れます。
ヨーゼフ・クライナー編「ケンペルのみたトクガワ・ジャパン」を読む
今泉みね 金子光晴解説「名ごりの夢 蘭医桂川家に生れて」を読む
松尾龍之介「長崎蘭学の巨人─志筑忠雄とその時代」を読む
エドゥアルド・スエンソン「江戸幕末滞在記 若き海軍士官の見た日本」を読む
エメェ・アンベール「絵で見る幕末日本」を読む
藤田覚「幕末の天皇」を読む
アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」を読む
渡辺京二「逝(ゆ)きし世の面影」を読む
宮本常一の「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」を読む
佐藤雅美『大君の通貨 幕末の「円ドル」戦争』を読む
ハーバート・G・ポンティング 長岡祥三訳「英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本」を読む
杉本鉞子著 大岩美代訳 「武士の娘」を読む
エリザ・R・シドモア「シドモア 日本紀行 明治の人力車ツアー」を読む
エメェ・アンベール「絵で見る幕末日本」を読む
H.シュリーマン「シュリーマン旅行記 清国・日本」を読む
羽佐田直道「小説 三井高利」を読む
林洋海「<三越>をつくったサムライ 日比翁助」を読む



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Tag : シーボルト 江戸参府紀行

明けましておめでとうございます。今年も愛読よろしくおねがいします。

函館 石川啄木像


何となく今年はよい事があるごとし 
元旦の朝晴れて風なし

石川啄木


石川啄木墓所から函館の町を撮影


 写真は、函館に建っている石川啄木像と啄木の墓所近くから撮影した函館の町です。

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 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。

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Tag : 元旦 函館 石川啄木

中村健之介訳「ニコライの見た幕末日本」を読む

お茶の水 ニコライ堂


 神田駿河台にあるニコライ堂はロシア正教の宣教師ニコライに由来するという。
 ニコライは1836年にロシアの田舎で生まれ、首都ペテルブルグの神学大学に進み、1861(文久元)年領事館付き司祭として日本の箱館に来た。極東の異教徒に宣教することを決意したのである。1869(明治2)年に一旦ロシアに帰るが、1871(明治4)年に再び箱館に戻ってきた。その後、ロシアに帰ることなく、日本に骨を埋めた。
 特筆すべきは、1904(明治37)年に始まった日露戦争のとき、ニコライは日本に留まることに決め、日本人正教徒たちに、日本人の義務として日本が勝つように祈ることを勧めたことである。
 ニコライは箱館の地に着くや、日本に関して猛勉強した。日本語をまず学び、日本の歴史・文化そして宗教を研究した。当時、箱館にはまだアメリカに密航しない新島襄がいて、ニコライは新島から「古事記」を教わり、逆に新島に英語と世界情勢について教えた。 ニコライは、1869年にロシアに戻るが、このとき、ロシア報知という新聞に日本についての論文を発表した。ロシア報知はドストエフスキーの「罪と罰」が掲載された新聞でもある。
 この論文が、中村健之介訳「ニコライの見た幕末日本」(講談社学術文庫)である。

函館 高田屋嘉兵衛像


 「ニコライの見た幕末日本」はニコライが自ら見た日本についての感想と、研究した日本の歴史・宗教などについて言及したものである。
 まず、ニコライが驚いたのが日本人の民度の高さである。極東の未開の野蛮人だと思っていた日本人が予想に反して、聡明で礼儀正しいことに正直驚いている。国自身も平和であった。
 ロシア正教を布教するニコライとしては当然、日本人の宗教に多大なる関心をもち、歴史的にそれを研究している。この論文の大半は日本の宗教に関するものである。
 ニコライは日本には、大きく四つの宗教があることを発見する。一つは、日本古来の神道であり、二つ目はインドから来た仏教であり、三つ目は中国から来た儒教であり、四つ目は西洋から来たキリスト教である。
 調べていくうちに最もニコライを悩ませたのは仏教である。まず、日本古来の神道の核心の存在である日本の神々と仏教の神々が融合していることが、ニコライにはわからなかったというか不思議そのものであった。また、仏教はたくさんの宗派に分かれており、教えも行動規範もまったく違うことに驚いた。僧侶は妻帯しないものだが、妻帯してもよい宗派もある。
 ニコライが驚きそして感動したのは、日本にキリスト教信者がいたことである。ニコライが来日したときはまだ江戸時代で、キリスト教は邪教として、信じてはいけないことになっていた。過去、日本で隠れキリシタンが迫害されたことをニコライは知っていたが、長崎にその隠れキリシタンが多数いることにニコライは感激した。
 ニコライは幕末から明治維新を経験し、そして明治という時代を生き抜いた。ニコライは明治45年、すなわち明治の最終年まで日本を見続けて没したのである。明治になって、日本は急速に過去の日本を捨て、西洋文明を貪欲に吸収した。ニコライはこの日本の姿に疑問をもちつつも、日本をこよなく愛した。ニコライにとって、日本はおそらく、母国ロシア以上のものだったに違いない。

 訳者の中村健之介は宗教家ではなく、比較文学者であり、ドストエフスキーの研究家でもある。中村がニコライに興味をもったのは、ニコライがロシア正教の宣教師であるからだ。ロシア正教とは、ドストエフスキーの世界を解明する上で重要なキーポイントである。実際、ドストエフスキーはニコライの書いた論文に興味をもったという。
 世界で一番ドストエフスキーが読まれるのは日本であるという。日本人とロシアはロシア正教でも繋がっているのである。



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Tag : 中村健之介 ニコライの見た幕末日本

ヨーゼフ・クライナー編「ケンペルのみたトクガワ・ジャパン」を読む

東京都中央区 日本橋


 鎖国という概念は日本が独自に作ったものではない。鎖国という言葉は、1801(享和元)年、志筑忠雄が西洋の本を翻訳する際に使った訳語である。原語は、<shut up the country>である。
 西洋の本というのは、ケンペルの書いた「廻国奇観」である。ケンペルはオランダの医師で長崎に三年間滞在した。オランダの医師ではあるが、オランダ人ではない。シーボルトと同じドイツ人である。
 ケンペルは表向きは医師であったが、本質は大博物学者といってよいほどの、いろいろなことに興味を示す探究家であった。日本の地理・歴史・風俗・植物・動物などを調べるだけ調べた。ケンペルは二度ほど江戸に行き、徳川将軍に謁見している。
 ケンペルは故郷のドイツに帰ると、日本のことについて詳細な著述をした。それが「廻国奇観」であり「日本誌」である。「日本誌」は題名の通り、日本について書かれた本である。
 「日本誌」は日本ではあまり有名ではないが、欧米では、日本を研究する上で欠かせないものである。18世紀以降、西洋人が日本を研究しようとすれば、かならず「日本誌」に目を通すといわれている。それにもまして、元禄期の日本を知る貴重な資料である。
 江戸時代の研究はかなり進んでいるが、庶民の生活など今でもわからないことがある。「日本誌」がたいへん参考になる。
 さて、「日本誌」には一体何が書かれているのであろうか。さぞや、日本のことを西洋の国に遅れた野蛮な国と書かれていると思いきや、意外なことが書かれている。次の「日本誌」の中の『鎖国論』を御一読あれ。

「この民は習俗、道徳、技芸、立ち居振舞の点で世界のどの国民にもたちまさり、国内交易は繁盛し、肥沃な田畑に恵まれ、頑健強壮な肉体と豪胆な気象を持ち、生活必需品はありあまるほどに豊富であり、国内には不断の平和が続き、かくて世界でも稀に見るほどの幸福な国民である。もし日本国民の一人が、彼の現在の境遇と昔の自由な時代とを比較してみた場合、あるいは祖国の歴史の太古の昔を顧みた場合、彼は、一人の君主の至高の意志によって統御され、海外の全世界との交通を一切断ち切られて完全な閉鎖状態に置かれている現在ほどに、国民の幸福がより良く実現している時代をば、ついに見出すことは出来ないであろう」(小堀圭一郎訳)

 これが当時の日本の本当の姿とは断定できないが、ケンペルの目には、日本は世界一の豊かで幸福な国と写ったようである。鎖国というものを、現代の私たちは否定的に見てしまうが、ケンペルは鎖国を礼賛し、そして、その政策を推進する君主(徳川将軍)を称賛している。
 実は、江戸時代の日本を誉めるのはケンペルだけではない。日本に来た西洋人のほとんど日本のことを激賞している。特に、日本人の徳を誉めている。日本人は正直であり、約束を守り、礼儀正しいとして、世界一の徳のある民族だとしている。
 ところが、この事実を無視して、日本史の教科書には日本人礼賛のことの記述はない。江戸時代を暗黒な封建社会として見る歴史学者がいることが問題なのである。

日本橋 長崎屋案内板

築地 あかつき公園 シーボルト像


 ヨーゼフ・クライナー編「ケンペルのみたトクガワ・ジャパン」は西洋と日本の研究者たちのケンペルに対する評価をまとめた論文集である。
 この本を一読するに、ケンペルの著作がいかに18世紀以降の知識人に影響を与えたかを知ることができる。あのニュートンまで読んでいたという。
 このことを逆に考えれば、日本という極東のはずれの国がいかに西洋の国から興味をもって見られていたかである。決して、自惚れてはいけないが、日本は西洋よりはるかに優れた国という見方もあったのである。
 この本を読むと、日本人学者による日本史研究に、その時代、世界が日本をどう見ていたかの視点が欠けているかがよくわかる。内向きの志向で日本の歴史は論じられない。世界から日本を見る視点を加えることによって、日本の歴史は相対化されるのである。
 まさに、歴史を見るというのは、現代の日本をどう見るかにも繋がるのである。

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Tag : ヨーゼフ・クライナー ケンペル トクガワ・ジャパン