宮田親平「『科学者の楽園』をつくった男」を読む

 横光利一に「微笑」という作品がある。天才少年が新兵器を発明して日本を救ってくれるという話で、その天才少年の笑顔が何とも優雅で可愛いというものである。この天才少年のモデルが科学者の仁科芳雄であったらしい。もちろん「微笑」が書かれたときには仁科は少年ではなかったが、仁科も温和なすばらしい笑顔の持ち主であったらしい。 仁科は優秀な物理学者で、原子の世界を追及する量子力学を専門にしていた。仁科がある意味不幸なのは、戦後仁科の名が有名になった理由が彼が戦争中原爆の研究をしていたということだからだ。原爆の研究はむろん仁科の意志で行われたものではなく、陸軍の要請によって行われた。
 太平洋戦争も敗色濃厚になった頃、日本の指導者である軍部は原爆を作ることを決定した。陸軍は理化学研究所に研究するよう命令した。その研究は仁科をトップとする仁科研究室で行われた。
 理化学研究所のイメージが暗いのはこの研究所が軍部の要請によって軍需研究を行ったからである。理化学研究所は戦後GHQに解体され、新しく組織された。それにともない、研究所は駒込から埼玉県に移された。
 もちろん理化学研究所は軍部のために存在したのではなく、純粋に物理・化学の基礎研究をする研究所であった。科学者にとっては楽園のような研究所であった。

 宮田親平著「『科学者の楽園』をつくった男」<日経ビジネス文庫>は理化学研究所について余すところなく深くかつわかりやすく書かれた名著である。
 理化学研究所は国民科学研究所として大正の中頃に創立された。創立にあたっては日本の近代科学の素地を築いた大物科学者、すなわち化学者の池田菊苗、高峰譲吉、物理学者の長岡半太郎などが運動した。また、財界では渋沢栄一・益田孝、政界では大隈重信がバックアップした。
 理化学研究所を創立するにあたっての理念は、日本の科学技術を欧米のものまねから脱却させることであった。明治の科学技術はほとんどが欧米のものまねであった。当然のごとく日本では基礎研究が行われず、新しい科学技術を創造することは不可能であった。理化学研究所は国と財界からの援助金によって運営されることになった。だが、その援助金だけでは研究所を維持していくのは困難を極めた。
 理化学研究所が大きく飛躍をするのは、大河内正敏が所長になってからである。大河内は東京帝大教授で貴族院議員でもあった。大河内は気品があり、そして繊細で大胆な人であった。根っからのリーダータイプの親分肌であったのだ。大河内は理化学研究所を研究員たちにとっての楽園にしたのである。
 研究所の研究員たちは自由に自分のしたい研究ができた。物理専門の人が化学の研究をしてもよいし、化学専門の人が物理の研究をしてもよかった。研究費は必要なだけ使えた。ただし、研究は独創的なものでなければならなかった。
 研究所を楽園にするには資金が必要であった。大河内は研究者が研究した成果を商品化し、それを市場に流すことで研究所に利益をもたらしたのである。大河内は単なる研究者でなく、研究・生産・販売・管理をトータル的にマネイジメントできるプロデューサーであったのだ。
 理化学研究所は回りにたくさんの会社を作り、理化学研究所はグループとして巨大になった。いわゆる産学複合体として急成長したのである。
 理化学研究所とは日本を代表する偉大な科学者たちが多数関係をもった。その筆頭が仁科芳雄・朝永振一郎・湯川秀樹の量子力学グループであり、他に、長岡半太郎・鈴木梅太郎・寺田寅彦などもいる。総理大臣であった田中角栄も理化学研究所とは深い関係があった。

 理化学研究所を抜きに日本の科学の進歩を鑑(かんが)みることはできないのである。

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