朝河貫一「日本の禍機(かき)」を読む

旧福島尋常中学校本館 あの太平洋戦争の傷跡は深い。現在でも、戦勝国アメリカと敗戦国日本との間で、沖縄の基地を巡って対立が続いている。
 日本は太平洋戦争で、アメリカを中心とする連合軍と戦った。連合軍とはいえ、最期はアメリカと日本の一騎打ちの展開で、日本は完膚なきまでにやられた。太平洋戦争は日本とアメリカとの戦いであったといっても過言ではない。
 では、なぜ、日本はアメリカと戦ったのであろうか。その根は、太平洋戦争開戦(1941年)から数えて34年前、すなわち1907年まで遡らなければわからない。1907年はポーツマス条約から2年後である。この年に何が起こったのか。アメリカの対日感情が反日に転じたのである。はっきりいって、このアメリカの反日感情が日米開戦の遠因であったことは否定できない。1907年以後、あの排日移民法がアメリカで成立している。
 それでは、なぜ、アメリカは対日感情を反日に転じたのであろうか。
 
 朝河貫一の「日本の禍機」は、ポーツマス条約からの約5年間に起こった日本とアメリカの満州・支那に対する対応についての朝河の所感を纏めた書である。所感というよりも、日本に対する諫言の書といってよいかもしれない。当時の日本の為政者・知識人がこの書を読んだら胸を痛めたに違いない。
 朝河貫一はあまり有名な人ではない。エール大学の名誉教授で、専門は比較法制史である。比較法制史の世界では知る人ぞ知る偉大な人物である。朝河は1873年に福島県に生まれ、安積中学校(現福島県立安積高等学校)、東京専門学校(現早稲田大学)を首席で卒業し、1896年にアメリカに渡った。以来、1948年(昭和23年)までほとんどアメリカに居住した。敬虔なキリスト教徒でもあった。
 この経歴が示すように、朝河は、日露戦争以後の日本の姿を熱い眼差しで見ていたのである。朝河は学者の目も教養人の目も持っていた人である。
 朝河はなぜアメリカが反日感情を持ったかについて、結論めいていうと、それは日本が満州を<独り占め>にしたからだと喝破した。
 アメリカは日露戦争のとき、日本に友好的な態度を示した。アメリカ(だけでなくその他のヨーロッパの国々も)ロシアの南下政策をおもしろく思っていなかった。支那の主権回復と欧米と日本が自由にかつ平等に支那とつきあえる機会均等をアメリカは強烈に望んでいた。日露戦争はまさに、支那の主権回復・機会均等を旗印にした戦いであった。だからこそ、アメリカは日本に友好的であったのだ。アメリカは日露両国の調停をし、ポーツマス条約を結ぶにおいては多大なる貢献をした。
 ポーツマス条約以後、日本がとった行動はいかなるものであったか。日本は我が物顔に満州を占領しようとしたのである。支那の主権は認めず、日本以外の他国の貿易に対して満州を閉鎖的にした。日本は公然とポーツマス条約の公約を反故にしたのである。これに対してアメリカは当然おもしろくなかった。
 アメリカは原則を守りながら、国益を守るために動く国である。ルーズベルトは最終的にはアメリカの国益のために日本を応援したのである。
 歴史にifは禁物であるが、もし、日露戦争後、アメリカの鉄道王ハリマンの南満州鉄道の日本との共同運営の提案を、小村寿太郎が却下しなければ、間違いなく、日本とアメリカの関係は違ったものになったであろう。
 人と人の関係もそうであるが、国と国との関係においても<独り占め>は責められる行為である。朝河は口を極めて、日本を諫言する。
 朝河はこのままでは、将来、日本とアメリカが干戈を交えることを予見する。そして、実際にその予見は見事に的中した。

 私は「日本の禍機」を読んで、歴史には原因と結果に関する明確な法則性があることを痛感した。

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二本松城と二本松少年隊 写真上は、旧福島県尋常中学校本館(福島県立安積高等学校 安積歴史博物館)です。朝河は、ここの卒業生です。また、朝河以外にも安積尋常中学校からは数多くの著名人を輩出しています。作家では高山樗牛や久米正雄らがいます。
 写真下は、二本松城と二本松少年隊の像です。二本松は朝河貫一の出身地です。

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