渡辺京二「逝(ゆ)きし世の面影」を読む

何も江戸時代を偲んだ作家は荷風ばかりではない。荷風が慕ってやまない森鴎外もそして夏目漱石も江戸時代を古きよき時代ととらえている。
翻ってみるに、私たちは江戸時代についていかに教わってきたのであろうか。江戸時代は封建社会で、人々は身分制度にがんじがらめにされ、農民は武士階級に支配されていた。武士が農民から税を取るのは、苛斂誅求を極め、農民は武士に絞り取られていた。農民の生活は悲惨であり、村を逃げ出すものは跡を絶たなかった。極端にいうと、江戸時代は武士以外は暗黒の時代であったのだ。
一体このような江戸時代に対する歴史観はいつできたのだろうか。明治時代になって権力を手に入れた薩長が徳川の時代を否定するために、江戸時代を暗黒な時代と規定したのも一つの理由であろうが、一番大きな理由は戦後、進歩派といわれたいわゆる左翼系の知識人たちが、アメリカ占領軍の意向にのっとって、過去の日本を全否定したことである。この全否定は、歴史学のベースになり、特に、江戸・明治に対しては悪い面だけを大々的に取り上げ、近世史・近代史を大いに歪めたのである。
この傾向は現在も続いているように思われる。果たして、これが正しい歴史学といえるのであろうか。この歴史観の上に立った場合、どれだけの人が江戸時代の日本に住みたいと思うのであろうか。
江戸時代が我々が教わった通りの時代なら、なぜあれほど、荷風も鴎外も漱石も江戸時代を懐かしむのであろうか。明治時代までは、確かに江戸時代の風情をそのまま残していた。彼ら三人は江戸時代とはどのようなものかはっきりと知っていたはずである。
渡辺京二の「逝きし世の面影」は名著の中の名著である。これだけ詳しくそしてリアルに江戸時代の姿を見せてくれる本は他にあるのだろうか。江戸時代を知ろうとしたら、かならずや読まなければならない本である。とにかく江戸時代を扱ったぴか一の本である。 タイトルにある<逝きし世>とは江戸時代のことである。渡辺がわざわざ亡び去った江戸時代の文明を<逝きし>といっていることに、渡辺自身が江戸時代に対して深い愛惜の念を持っていることが伺われる。この本のあとがきに書かれている次の文を読めば、渡辺の江戸時代に対する思いがいかようなものかが読みとれる。
<少年の頃、私は江戸時代に生まれなくてよかったと本気で思っていた。だが今では、江戸時代に生れて長唄の師匠の二階に転がりこんだり、あるいは村里の寺小屋の先生をしたりして一生を過した方が、自分は人間として今よりまともであれただろうと心底信じている。>
「逝きし世の面影」は文庫で六百頁の大部な本である。その内容のほとんどは幕末期そして明治初期に日本に来た外国人の見聞記の分析で占められている。この資料は膨大で、分析もするどく、とても説得力がある。この一冊の本を仕上げるのにとてつもない時間を費やしているのではないかと思われる。
結論からいうと、日本の江戸時代の姿を見た外国人のほとんどが、<日本は世界中で一番幸せな国である>といい、<農民はいつも笑顔を絶やさず、血色がよく、のびのびと生きている>ともいっている。
確かに江戸時代は暗い一面も持っていた。しかし、その暗い一面を差し引いても江戸時代は外国人にとっては、天国のように見えたのである。
歴史は段階的に進歩するというのが、唯物史観の根本原理である。文明が発展し、日本は豊かで便利な社会になった。だが、現代の日本人は江戸時代の日本人より幸せであると胸を張っていえるのであろうか。「逝きし世の面影」を読んでつくづく私は思った。



二代将軍徳川秀忠とお江はこの霊廟にて永眠しています。戦前までは徳川秀忠公(戒名台徳院)の霊廟は、現在の増上寺に隣接する写真下の場所にありました。第二次世界大戦の空襲で霊廟が焼かれ、秀忠公の土葬されたご遺骸は荼毘に付されて写真上の霊廟に移されました。
整地された公園までは、旧台徳院霊廟惣門をくぐり抜け、水路跡、惣門跡、勅額門跡の案内板を通り過ぎると整地された公園にたどり着きます。徳川幕府は秀忠公の力なしでは260年間は続かなかったのではないか思い、今更ですが秀忠公の偉大さを感じる道のりでした。
渡辺京二「逝きし世の面影」には、ブログ「名著を読む」の中でも紹介した下記の作品が参考文献として引用されています。
● 杉本鉞子著 大岩美代訳「武士の娘」
● 今泉みね 金子光晴解説「名ごりの夢 蘭医桂川家に生れて」
● 山川菊栄「武家の女性」
● H.シュリーマン「シュリーマン旅行記 清国・日本」
● アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」
● 宮本常一の「イザベラ・バードの『日本奥地紀行』を読む」
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