青山淳平「明治の空 至誠の人 新田長次郎」を読む

ニッタ株式会社東京支店 愛媛松山出身の有名人といえば、すぐ思い浮かぶのが「坂の上の雲」の3人の主人公である秋山好古・真之兄弟と正岡子規である。真之と子規は同級生である。
 子規は新聞「日本」の記者であったが、この新聞社の社長が陸羯南(くがかつなん)であった。陸は司法省法学校で学んだが、同窓生に加藤恒忠がいた。子規は加藤の甥であり、加藤の紹介で、日本新聞社に就職したのである。陸は子規の才能を高く評価し、子規が死ぬまで親身になって面倒をみた。
 好古と加藤は同じ年齢で幼なじみであった。2人は終生友人として固い絆で結ばれ、松山のために尽力した。2人にはもう1人、松山出身で松山のために貢献した友人がいた。新田長次郎である。新田を含めた3人は現在でも松山発展の功労者として、松山の人たちから尊敬されている。
 新田長次郎は岩崎弥太郎・安田善次郎・大倉喜八郎・松下幸之助ほど有名ではないが、明治から昭和期にかけて活躍した大実業家である。現在の東証一部上場ニッタ株式会社の創業者である。
 
 青山淳平著「明治の空 至誠の人 新田長次郎」はタイトルが示すように、新田長次郎の生涯を描いた小説である。偉人伝といってもよい。
 私は恥ずかしながらこの小説を読むまで、新田長次郎という実業家のことは知らなかったが、一読して、新田のスケールの大きさそして人間の大きさに驚いた。なぜこのような大実業家のことを知らなかったのかと悔やまれた。新田はベルト王といわれた。
 新田は伊予の松山藩領味生(みぶ)村で安政4(1857)年に生まれた。家は裕福な農家であったが、小さくして父親を亡くし、母親の女手一つで育てられた。父親が死んでから家は傾いたが、新田少年は家の手伝いをする傍ら、独学で算数の勉強をした。新田少年は向学心旺盛で、福沢諭吉の本を繰り返し読んだ。新田は学校らしきものはほとんど行かなかったが、慶応出身者以上に福沢のいわんとしていることを理解した。
 新田は21歳になると、大阪に出た。そこで、藤田組製革所、大倉製革所に勤務してなめしの技術を習得する。そして29歳のときに独立して新田組を創立し、大阪市西成郡に製革工場を建てた。新田は不断の努力と研究熱心さで、新しい技術をどんどん開発し、たくさんの顧客を持った。
 会社は順調に発展し、明治26(1893)年にはシカゴで行われた世界大博覧会に出品するために渡米し、さらにニューヨーク・ヨーロッパを回って、欧米の最新の製革の技術を吸収した。
 新田組は大きく成長し、社名も新田帯革製造所となり、益々、会社は発展した。新田帯革製造所の作るベルトは世界でも注目される優秀なもので、第一次世界大戦を通じて、会社は飛躍的に発展した。それに伴って新田の資産は膨大なものになった。
 新田は大金持になったが、驕ることなく、社会奉仕を心がけた。特筆すべきは、夜間小学校を作ったことである。西成郡には貧しい家庭がたくさんあり、小学校に行けない子どもが多数いた。新田は学校設立や運営に必要な経費をすべて負担したばかりでなく、生徒の着るもの、学用品まで面倒をみた。
 また、故郷の松山で高等商業学校(現在の松山大学)が設立されるときにも、その莫大な設立費用もすべて新田が負担した。そのときの条件は、一切新田の名前を出さないということであった。

 明治の実業家たちには強い信念があった。それは実業を通して、社会を豊かにするというものである。新田もこの信念を強く持っていた。大成功した新田は教育に多大なる貢献をした。それは、小さい頃夢中になった福沢諭吉の本が影響しているのかもしれない。新田もまた福沢の優秀な教え子の一人であった。

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 写真は、東京都中央区銀座に建っているニッタ株式会社東京支店です。

明治の空―至誠の人 新田長次郎明治の空―至誠の人 新田長次郎
(2009/06)
青山 淳平

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