砂川幸雄「森村市左衛門の無欲の生涯」を読む

港区虎ノ門にあるTOTOビル 横浜市緑区長津田町に広大な敷地をもつ森村学園がある。森村学園には、幼稚園・初等部・中等部・高等部がある。
 この学園は森村市左衛門が1910年に高輪の自分の屋敷の内に創立した私立高輪幼稚園・私立高輪尋常小学校を始まりとする。森村は教育界に多大なる貢献をした人で、慶応・早稲田・東工大や北里研究所などを積極的に援助し、特に日本女子大が創立されるときには、大いに尽力した。
 森村は大成功した実業家で大金持であったが、私財のほとんどを教育を中心とした社会奉仕のために使った。森村は何よりも国の発展を最優先し、国のためになることなら万難を排しててもやり遂げた。日本が明治維新を迎えて、欧米の列強と渡り合い、なおかつ国力を高めるためには優秀な政治家ばかりでなく優秀な実業家が必要であった。森村は最も優秀な部類に入る実業家であった。
 戦前は森村財閥が存在したが、戦後財閥がなくなり、森村の名前は三井・三菱・住友・古河ほど有名ではなくなったが、現在、東証第一部に上場しているTOTO・INAX・日本ガイシ・日本特殊陶業・ノリタケカンパニーリミテドのルーツはすべて森村に行き着く。いずれも業界では超優良企業である。森村の経営哲学は脈々と現在も受け継がれているのである。

 砂川幸雄の「森村市左衛門の無欲の生涯」はタイトルが示すように森村の評伝である。森村は1829(天保10)年に江戸で、旗本屋敷などに出入りする武具商の長男として生まれた。森村が6代目であった。
 森村の母親は早くに亡くなり、父親である5代目は再婚して2人の子を生んだ。息子の豊と娘のふじである。森村は腹違いの弟妹の面倒をよく見、豊を福沢諭吉の慶応義塾に入れた。ふじは大倉孫兵衛に嫁いだ。森村財閥の礎は森村市左衛門・森村豊・大倉孫兵衛によって築かれた。
 森村の転機は幕末・明治維新の動乱期に訪れた。森村は江戸から当時開港されたばかりの横浜に行き、西洋人から商品を買い、それを江戸に持ち帰って江戸で売った。それが飛ぶように売れた。また、没落した武士から二束三文で仕入れた物品が横浜では西洋人に大変に人気があり、これらも飛ぶように売れた。当時は汽車などない時代である。森村は重い荷物を担いで江戸・横浜の間を来る日も来る日も歩いたのである。
 森村は官軍の出入りの商人になり、死地を潜り抜けて官軍に軍需品を届けた。この商いによって森村は土台を固め、外国と本格的な取引を始めようとした。弟の豊が慶応義塾を卒業すると、福沢の助けも借りて、森村は豊をニューヨークに派遣した。ニューヨークで日本の商品を売らせるためである。その商品は取るに足らない物ばかりであったが、アメリカ人はものめずらしさに買ってくれた。豊は日本の陶磁器も売ったが、アメリカ人が日常使うコーヒーカップやディナーセットの食器を日本で作って売ることを考え付き、森村に食器の制作を依頼した。豊は誠実な人間で、徐々にアメリカ人の信用を得て、商売は拡大していった。
 戦後、ソニー・トヨタ・松下が進出するまで、アメリカでは、日本の商品は質が低いとのもっぱらの評判であった。それでも、明治時代に森村の会社で作った食器は欧米で一流のものと評価され、現在では美術品になっている。森村は努力と誠実さと先見の明で巨大財閥を築いていった。
 森村は後年、人生を振り返って、自らの人生哲学を述べている。凡百の経営の本を読むより、森村の次の言葉に耳を傾けた方がはるかにためになる。

<よしややり損じても、また儲けなくても、国家のためになることならば、ドシドシやってみるがよかろう。自己を犠牲としても、国家将来のため、社会人類のために働くという覚悟は、事業を成す秘訣であると私は断言する。いやしくも自分が犠牲となる以上は、少なくとも一つの精神を後世に遺(のこ)しておかなければならぬ。尾となっても枯れてもよいから、何か一つ凛呼(りんこ)たる精神を残しておけば、その人死すとも同志の人が必ずそれを継いでくれるであろうから、いつかは成功しないことはないのである>

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 写真は、東京都港区虎ノ門で撮影したTOTOビルです。

森村市左衛門の無欲の生涯森村市左衛門の無欲の生涯
(1998/04)
砂川 幸雄

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