猪木正道「評伝吉田茂 (四) 山顚(さんてん)の巻」を読む

東京北の丸公園に建っている吉田茂像 旧憲法のもとでは、総理大臣は国会議員である必要はなかった。元老などが推薦した人を天皇が任命するのである。そのため、元老が退いてからは、総理大臣は軍人・官僚・政党人などがなった。
 吉田茂が初めて総理大臣になったのは、昭和21年5月であった。このとき、吉田は国会議員ではなかった。吉田が総理大臣になったのは鳩山一郎の強力な推薦があったからである。鳩山は自由党の総裁で、本来なら鳩山が総理大臣になるところであったが、鳩山が公職追放になったので、吉田にお鉢が回った格好になった。
 新憲法が制定され、総理大臣は国会議員でなければならなくなった。自由党総裁である吉田も総選挙に出て、衆議院議員になる必要に迫られた。吉田は選挙区をどこにしようかと迷った末、実父竹内綱の故郷の高知県から出馬することに決めた。吉田は、意外にも演説が苦手であったが、演説をするために選挙区を回った。演説をするとき、吉田は外套(がいとう)を着たままであった。そのとき、聴衆の一人が「外套を脱げ!」と怒鳴った。その言葉に対して、吉田は「これが本当の街頭(がいとう)演説です」と言ったそうである。
 歴代の総理大臣の中で、吉田ほどユーモア精神を持った人間はいない。単なる外交官である吉田が総理大臣となって、ワンマン宰相といわれるほどに、自由奔放に辣腕を振るったのは、もちろん吉田の個性がなせることであったが、ユーモア精神も大きく寄与していた。ユーモアのある人間は何となく憎めないのである。
 吉田は89歳まで長生きした。晩年、<長生きをするために、何を食べてきたのですか?>という質問に対して、<人を食ってきた>と答えている。私はこの言葉が吉田の全人生を象徴しているように思えてならない。吉田はまさに人を食って生きてきたのである。

 猪木正道の「評伝吉田茂④山顚の巻」は、吉田が初めて総理大臣に就任してから、昭和26年9月の講和条約の調印までを扱っている。この巻は「評伝吉田茂」の最終巻である。
 私はこの巻を読んで、日本は吉田茂という稀代の総理大臣を戴いて、本当に幸福だったとつくづく思った。戦後の混沌としたどさくさの状況で、吉田以外の誰が総理大臣になっても、日本は早期に復興することはできなかったであろう。
 戦後第一回の総選挙で、第一党は社会党になった。といっても、過半数に満たなかったので、社会党を首班とする連立内閣が成立した。総理大臣は社会党委員長の片山哲である。私はこの片山内閣についての記述を読んで、奇しくも、先の平成の民主党政権との大いなる類似性を感じて、興味深かった。やはり歴史は繰り返すようである。民主党も半ば社会党みたいなものである。これら二つの内閣は、国民に対して、耳に心地よい約束をしたが、何もできなかった。党利党略に走り、国民の生活はほっといて、内部闘争に明け暮れ、最後は、国民に見放された。第二回の総選挙で社会党は惨敗し、平成の民主党も総選挙で大がつくほど惨敗した。逆に、吉田率いる自由党は大勝利し、昭和22年10月に吉田第二次内閣が誕生した。
 吉田はそれこそ数え切れないくらいの政策を実行したが、最も力を入れたのは、日本の独立すなわち国家主権の回復であった。
 昭和20年8月15日に日本が連合国に降伏してから、昭和27年4月28日の国家主権の回復まで、日本は連合軍に占領された。連合軍といっても、実体はアメリカ軍である。日本は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の管理下に置かれたのである。GHQの最高司令官がマッカーサー元帥である。GHQの本来の役目はポツダム宣言の執行であるが、実際には、日本の政治・経済を含めたほとんどすべてに口を出した。何をするにも、日本の政府には裁量権はなく、最後にGHQの承認を必要とした。新憲法の制定にしても、日本側が提出した憲法案にGHQはノーを出し続け、結局は占領軍が意図した現行憲法になった。吉田は一日も早く独立することを考え、あらゆる手を打って行動した。
 首相であった吉田は、マッカーサーと個人的な関係を作り、日本の主張を通してもらった。マッカーサーと個人的な関係を構築するにあたって、吉田のユーモア精神が非常に役立った。吉田は民間人の白洲次郎をアメリカとの交渉役に抜擢するなど、手を変え品を変えてアメリカを説得し、ついに、昭和26年9月、サンフランシスコで講和条約に調印し、翌年の4月28日に日本は独立した。

 「評伝吉田茂」全巻を通して深く感じたことは、歴史を動かすのは組織ではなく、結局は一人の人間だということである。
 著者猪木正道は戦争と革命が独裁体制を生むことを研究した。ロシアでは革命が起こりスターリンの独裁を生み、ドイツでは戦争でヒトラーの独裁を生み、日本では戦争で軍部独裁を生んだ。
 戦後まもなく、日本も革命状態になったが、革命は起きなかった。吉田が必死にくいとめたからである。吉田は、ワンマン・独裁者と揶揄されながらも、独裁体制は作らなかった。吉田総理以後、日本は民主国家になっている。
 吉田は健全な国家のシステムとはどのようなものであるかをよく知っていた大政治家であった。

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猪木正道「評伝吉田茂 (三) 雌伏の巻」を読む

東京北の丸公園に建っている吉田茂像 政治家の資質で最も大事なものは何か。私はそれは勇気だと思う。自分の信念に忠実に死をも怖れずに、一流の政治家は行動する。この意味では、原敬も浜口雄幸も一流の政治家である。逆の意味で、近衛文麿と広田弘毅は最低の政治家である。この二人はなるべくしてA級戦犯になったのである(近衛は罰せられる前に自殺してしまったが)。
 私は城山三郎の「落日燃ゆ」を読んで幻滅したことを覚えている。城山のこの小説の主人公の広田弘毅を見る目が余りにも軽薄のように思えたからである。広田が本当に「落日燃ゆ」のような振る舞いをしたならば、なぜA級戦犯になったのであろうか。GHQの目はそれこそ節穴だったのか。
 昭和に入ってから太平洋戦争が終結するまで、日本の政府は軍部の傀儡になっていたが、軍部だけが悪いのではなく、その軍部に媚びへつらう政治家たちがいたことを決して忘れてはいけない。犬養毅や鳩山一郎はときとして美化されることがあるが、この二人がどれだけ軍部と共謀して、政治を攪乱したかわからないほどだ。犬養が5・15事件で軍人将校に殺されたのは皮肉としか言いようがない。ロンドン軍縮会議で、日本政府が海軍の軍備力の縮小を決断したときに、統帥権干犯なるもので、政府を責めたのは当時野党の政治家であった鳩山一郎であった。この統帥権干犯を錦の御旗にして、軍部がやりたいことをして、日本が亡びたのである。鳩山一郎は党利党略のために国を潰した政治家であった。この男がA級戦犯にならなかったのは不思議だ。

 猪木正道著「評伝吉田茂③雌伏の巻」は、吉田茂が昭和11年に駐英大使になったときから、終戦直後、外務大臣になり、新憲法ができるまでを扱っている。昭和11年2月に2・26事件が起こってから、太平洋戦争が終結するまでは、政府は完全に軍部に牛耳られた。そのような状態にあっても、吉田は、太平洋戦争が始まるまでは、いかに、アメリカ・イギリスとの戦争を避けるかに苦心した。
 軍部そして軍部に操られていた政治家たちはアメリカを完全に甘く見ていた。軍部は満州を根城にして、中国全土を侵略し始めた。中国ばかりでなく、仏印インドシナ(今のベトナム)まで進駐した。これに対して、アメリカ・イギリスは日本を徹底的に非難した。吉田はイギリスに対して弁明を試みた。
 日本政府はナチスドイツとイタリアとの三国同盟を急いだ。ナチスドイツと組めばアメリカは怖れをなして、日本に戦争を仕掛けないと日本政府は高をくくったのである。
 しかし、日本政府の思惑はすべてはずれ、日本はアメリカとの戦争に突入した。戦争直前のアメリカからの和平案すなわちハル・ノートはとうてい日本政府は飲めなかった。
 日本は戦争を始めたが、戦争回避の道はいくつもあった。昭和天皇が戦争をしたくなかったからだ。何とか戦争を回避しようとしたが、広田弘毅・近衛文麿のような軍部の操り人形の首相たちが、軍部を恐れて、戦争回避のことを天皇に進言できなかったのである。勇気を奮って、天皇に進言していれば戦争は起こらなかったかもしれない。

国会議事堂 近衛大政翼賛会内閣が退陣したあと、大命は東条英機に降下された。昭和天皇は軍部に睨みのきく東条を首相にすることによって、戦争を回避しようとしたのであるが、東条は見事に期待を裏切った。
 戦争が始まる前から、吉田は浪人になっていたが、戦争が始まっても、吉田は和平の道を探るために暗躍した。その行動が軍部に嫌われ、吉田は憲兵に捕まり、監獄送りとなった。しかし、これが戦後、大いに幸いした。吉田は、和平に尽くしたという理由で、アメリカから信用され、たくさんの政治家が公職追放になる中、吉田は政府の中心人物になっていく。
 戦後、日本がアメリカを後見人として、急速に経済が発展し、豊かになったのは、吉田とアメリカとの信頼関係があったのは間違いないことである。もし、吉田がいなかったらと思うと、私はぞっとする。
 戦争直後の東久邇内閣で、吉田は外務大臣になった。吉田はまずマッカサーと信頼関係を結び、マッカサーと昭和天皇の会見も仲介した。マッカサーは昭和天皇の人格にいたく敬服した。かくして、日本は吉田茂と昭和天皇とアメリカとの信頼関係で、復興の道を歩むことになる。

 私は「評伝吉田茂③雌伏の巻」を読んで、日本が太平洋戦争終結まで、世界から無茶苦茶に嫌われていたことを認識した。時の政府はそれに気が付かなかった。それに一番気が付いていたのはやはり吉田茂であった。
 世界中を敵に回すことがいかに酷い結果を生むかを、戦争が終わって70年近くたつが、私たちは決して忘れてはいけないと痛切に私は思った。

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猪木正道「評伝吉田茂(二) 獅子の巻」を読む

東京北の丸公園に建っている吉田茂像 理想主義者は一流の政治家にはなれない。一流の政治家とは、内に向かっては、国民のことを思いながら、現実的な対応をするものであり、外に向かっては、相手国の立場を思いやりながら、国益のために現実的な対応をするものである。現実的な対応ができることが、一流の政治家かそうでない政治家の分かれ目になる。
 考えてみれば、大久保利通・伊藤博文・山県有朋など明治維新を成し遂げ、明治国家の礎を築いた維新の志士たちは、やはり、超がつくほど一流であった。彼らが、維新という革命をなした原動力は尊皇攘夷であったが、革命が達成されるや攘夷はいとも簡単に捨てられた。攘夷は現実的でなかったからだ。当時の日本は、西洋と較べて、文明ははるかに低く、国は貧しく、国力はほとんどなかった。大久保らは、西洋のすごさを目の当たりにして、西洋に追いつくことを国の目標とした。攘夷などもってのほかで、西洋から学ぶことを推進した。
 後に元老と呼ばれた維新の志士たちが元気なうちは、日本にはいろいろな問題があったが、国は立派に体を成していた。日清・日露の戦争に勝利し、第一次世界大戦も戦勝国の一つになり、大正時代には、日本は世界の大国の一つになった。元老たちが現実的な政治をしたからである。
 元老たちが政府の中枢にいるときは、陸軍も海軍もおとなしく政府に従った。統帥権干犯などという難癖をついて、軍部が政府を苛めることもなかった。ところが、元老が一人去り、二人去っていくうちに、軍部に対する箍(たが)が緩み、軍部はやりたいようにやるようになった。そして、元老がほとんどいなくなると、政治の実権を軍部が掌握することになり、日本は破滅への道を歩み始めることになる。
 国のシステムを決める憲法がしっかりしていれば、軍部がやりたいようにはできなかったのであろうが、明治憲法は元老が存在してはじめて機能するような作りになっていた。憲法はいくらでも拡大解釈できた。

 猪木正道著「評伝 吉田茂②獅子の巻」は吉田茂が大正14(1925)年に奉天総領事になってから、昭和11(1936)年の2・26事件までを扱っている。この期間に、太平洋戦争への道が完璧に準備された。
 そもそも日本が太平洋戦争に突入する根源的な原因は、日本が日露戦争に勝利して、満州鉄道の管轄権を手に入れたことである。陸軍はこの管轄権を大義名分にして、満州全土を侵食しようとした。これはあきらかにポーツマス条約違反であり、伊藤博文は警鐘を鳴らしたが、伊藤そして陸軍の大御所の山県有朋がこの世からいなくなると、陸軍は政府の意向を無視して、ついには、満州国建設まで進む。このような時に、吉田は奉天の総領事に就任するのである。
 吉田は理想主義者ではない。現実的に世界を見て、陸軍の満州国建設の企てを非難する。理由はアメリカの存在である。吉田は根っからの親英米派で、アメリカとイギリスを敵に回しては、絶対に日本はうまく立ち回れないと思っていた。この頃から、吉田は外交官というより、政治家の目でもって、外交を考えている。アメリカを怒らせるなと吉田は訴えた。事実、アメリカは日露戦争後、満州全土に食指を動かした日本の動きを見て、オレンジ計画を立てた。この計画は日本を仮想敵国とみなすもので、結局、太平洋戦争となって結実した。
 吉田は軍部に対して、何も満州を放棄しろといっているのではなく、満州に対する中国の主権を認めて、満州を委任統治しろといっているのである。当然、陸軍はこれを無視した。吉田は国際連盟で、日本の立場を理解してもらうために努力するのだが、陸軍が吉田の足を引っ張った。
 吉田の軍人嫌いは有名であった。軍部は嫌われて当然のことをしていたのである。上意下達の徹底した組織であるべき陸海軍では、規律が緩み、一部の中堅将校たちが軍を指揮していた。満州国建設は陸軍の板垣征四郎・石原莞爾という将校によって計画され、2・26事件は陸軍の青年将校たちによって起こされた。軍の上層部は将校たちの暴走を抑えることができなかった。それどころか、青年将校たちの動きを認める上層部の人間も少なからずいた。
 青年将校たちはまぎれもなく、理想主義者たちであった。論理的な思考力を持たず、自分たちの描く社会が日本人を幸福にすると狂信的に思っていた。彼らは目的のためには手段を選ばなかった。このような青年将校を抱えている軍部を吉田が好むはずもなかった。 2・26事件後、岡田啓介内閣は倒れ、広田弘毅に大命が降った。広田は吉田を外務大臣にしようとしたが、軍部は吉田の大臣就任を徹底的に反対した。結局、吉田は大臣になれなかったが、これは吉田にとっても日本にとっても幸いだった。もし、このとき、大臣に就任していれば、戦後、吉田は総理大臣になれなかったからである。
 2・26事件以降、軍部の横暴は激化し、政府は完全に軍部の傀儡になった。

 関東軍とは満州における悪名高い陸軍の軍隊の名であるが、この関東軍は中国の軍閥とも手を組んでいた。1912年の辛亥革命以後、中国は各地に軍閥が割拠し、さながら戦国時代の様相を呈していた。張作霖をリーダーとする軍閥は関東軍に助けを求めた。関東軍は中国からも必要とされたのである。満州問題は日本がただ侵略したということだけでは片付かない複雑な要素が絡みあった問題であるのだ。その渦中で吉田は大政治家としての腕を磨いていくのである。

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猪木正道「評伝吉田茂 (一) 青雲の巻」を読む

東京北の丸公園に建っている吉田茂像 国の命運を決めるのは、最後は、国のリーダーの資質である。現在、日本は豊かさを享受し、世界から認められた経済大国である。戦後の焼け野原から日本をここまで成長させる土台を築いたのは、戦後しばらくの間、首相を務めた吉田茂だと私は思っている。
 吉田は5度、内閣の総理大臣になっている。第1次吉田内閣は、1946年5月22日~1947年5月20日、第2次は、1948年10月15日~1949年2月26日、第3次は、1949年2月26日~1952年10月30日、第4次は1952年10月30日から1953年5月21日、第5次は、1953年5月21日~1954年12月7日で、合計7年近く内閣を従えたわけである。この期間に、吉田はアメリカと徹底的に交渉し、軍事を切り捨て、日本を経済国家への道に進ませ、日本をアメリカから独立させた。日本は吉田の思惑通り、アメリカの軍事力を傘にして、資源を経済に集中投資し、世界に冠たる経済大国を作り上げたのである。また、吉田は戦争をした国々と単独講和に成功し、平和国家日本を築いた。
 毀誉褒貶いろいろあるが、吉田が歴史に残る偉大なる業績を成し遂げたことは確かである。
 私は歴代の総理大臣の中では、吉田茂が一番好きである。その理由は、吉田の業績もさることながら、吉田が得も言われぬユーモア精神の持ち主だからである。学生時代、私は吉田健一の随筆が好きで、よく読んだ。吉田健一はイギリス文学者としても文芸評論家としても一流の人である。いつしか、私は吉田健一が吉田茂の息子と知るようになり、吉田健一に感心するのではなく、吉田茂に感心し、吉田茂という人間に非常に興味を持った。吉田健一もすばらしいユーモア感覚の持ち主であった。
 猪木正道の「評伝 吉田茂」は吉田茂に関しての評伝の中では、おそらく最高の評伝であるだろう。「評伝 吉田茂」は4巻から成っている。猪木は三島由紀夫が尊敬する政治学者であり、防衛大学校長にもなった人なので、どこか民族主義的な人かと勘違いしてしまうが、とんでもない。たいへんリベラルな人で、偏見なく歴史的事実に真摯に向きあう碩学の政治学者である。三島由紀夫の目は確かであった。
 猪木は、2人の先輩の学者から、「五十年後にも読める吉田茂の伝記を書いてくれ」という依頼を受けて、吉田茂の伝記を書いた。それが「評伝 吉田茂」である。2人の先輩の要望以上に、この評伝は優れたもので、100年後にも読める伝記である。
 「評伝 吉田茂① 青雲巻」を読んで、私は吉田茂のユーモア精神がどこからくるのかを知った思いがした。

 「評伝 吉田茂① 青雲巻」は吉田が生まれてから天津の総領事館勤務の時代までを扱ったものである。私がこの巻で最も感動したのは、まだ下っ端の外交官でしかなかった吉田が首相になったばかりの寺内正毅から、首相秘書官にならないかと誘われたとき、「首相なら勤まりますが、首相秘書官は勤まりません」といって誘いを断った件である。この言葉に吉田の全人格が詰まっているように私には思われた。
 吉田は1878(明治11)年、竹内綱の五男として、東京に生まれた。竹内は土佐出身の自由民権運動家で、投獄され、その間に茂が生まれた。茂は生まれてから、竹内の友人である吉田健三の庇護のもとで育てられ、3歳のときに正式に吉田健三の養子になった。茂が吉田健三のもとに預けられるとき、茂の母親は吉田健三に「まことにつまらないものですが」と言って、茂を差し出したと、後年、吉田自身が述べ、お笑いしたという。息子もすごいけれど、母親もすごかったのである。茂の母親は芸者だったらしい。
 吉田健三は横浜の貿易商で、巨万の富を築いた。その額、今のお金にしたら、100億を軽く超えていた。吉田は若くしてその巨万の富を相続したが、すべて、きれいに使ってしまった。
 茂は小学校を卒業すると、藤沢にある耕余義塾に入学した。この耕余義塾は漢学塾で、茂は論語・史記・老子・三国志など中国の古典を徹底的に読まされた。
 耕余義塾を卒業すると、日本中学などを経て、学習院に入学した。当時、学習院には大学科もあり、茂は大学科まで進むが、勉学途中に、大学科が廃止となり、茂は東京帝国大学法科大学に移った。
 1906年、法科大学政治科を卒業すると、外交官試験に合格した。合格者は全部で11人おり、首席で合格したのが、広田弘毅だった。広田と吉田はよく対比される。広田はエリートコースを歩み、吉田は紆余曲折の道を辿った。戦前に広田は首相まで上り詰めるが、吉田は戦前は次官止まりである。ところが、広田は戦後、A級戦犯となり、死刑になった。 吉田が外交官になって初めての勤務地が奉天であった。吉田は領事館補であったが、これ以後、吉田は外交官として軍部と戦っていくことになる。吉田は、政府と軍部による二重政府を徹底的に嫌った。外交政策も軍部は独自に決めようとした。政府は軍部を動かすことができなかった。これが日本を破滅に導いた最も大きな原因である。吉田が外交官になってすぐにこの二重政府に違和感を覚えるのである。吉田は、陸軍が満州を拠点に中国を侵略しようとする時期に外交官のキャリアをスタートさせたのである。

 外交官になって間もなくして、吉田はロンドンで短い間、勤務をした。このとき、吉田はシェイクスピア・ディケンズ・テニスンなどのイギリス文学を読み漁ったという。中でも特に、吉田のお気に入りは、ウッド・ハウスのユーモア小説であったという。吉田のユーモアがイギリス仕込みであることが、これでよくわかる。そういえば、夏目漱石のユーモアもイギリス仕込みであった。

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