クララ・ホイットニー「勝海舟の嫁 クララの明治日記 下」を読む

東京都墨田区アサヒビール本社前に建っている勝海舟像 考えてみれば、日本が1854年に開国してから、1889年に明治憲法を発布するまでわずか35年しかたっていない。明治維新から数えればほんの22年である。この短い期間に、日本は野蛮人の国から西洋と対等に付き合える国になったのである。
 封建社会から四民平等の近代社会に向かって歩み始めてからわずか22年で憲法ができたことを、当時の中国と較べると、日本の急速な進歩がよくわかる。日本よりも早く西洋と交流したにもかかわらず、中国が封建社会から近代社会に移行したのは20世紀になってからである。憲法は制定されなかった。
 近代国家を目指した日本が急速に、国の形を西洋から認められる形へと変えた原動力はたくさん考えられるが、その一つは勝海舟のように、日本の国益を考えた上での西洋の国との付き合い方をよく認識していた人物がいたからである。
 もう一つは、西洋、特にアメリカから来日した宣教師たちの貢献であった。すなわち、キリスト教が日本を近代国家に押し上げる大きな力になったのである。もし、日本人がキリスト教を受け入れなかったら、日本は近代国家にはならなかったろうと思われる。日本人はキリスト教を理解することによって、西洋の底に流れている思想並びに文化を肌で感じた。

 「勝海舟の嫁 クララの明治日記 下」は、1878(明治11)年7月19日から1880(明治13年)1月26日までの日記と、クララ一家がアメリカに帰りそして再来日した1882(明治15)年11月25日から1884(明治17)年11月12日までの日記と、さらに時間をおいた1887(明治20)年4月17日のみの日記が収められている。
 この日記が書かれた期間に、クララは両親を亡くし、そして、勝海舟の三男の梅太郎と結婚している。
 1887年4月17日の日記には、母親になったクララが梅太郎との間にできた男の赤ん坊を連れて母親が眠る青山墓地に墓参りをしたことが書かれている。4月17日はクララの最愛の母親の命日であった。
 クララは身近に起こったことのみを日記に書いた。政治的なことはほとんど書かれていないが、竹橋事件のことは書かれている。竹橋事件は明治11年24日に起こった。当時、永田町に住んでいたクララ一家は夜の11時頃、5発の銃声で目を覚ました。竹橋は永田町と目と鼻の先である。クララは恐怖の夜であったと記している。竹橋事件は、西南戦争に参加しても恩賞をもらえなかった近衛兵たちの反乱であった。クララの日記は歴史的資料として貴重である。

東京都銀座にある商法講習所発祥の石碑 日記全般に対していえることだが、勝海舟の一家に対して、クララは感謝と愛情を込めて記している。クララはよほど勝一家が気に入ったようである。だからこそ梅太郎と結婚したのであるが。
 実際、勝はクララ一家に対して、経済的にも至れり尽くせりの援助をしている。逆に、勝一家もクララ一家から多大なる恩恵を蒙った。クララとクララの母親は勝一家の人たちの先生で、英語やキリスト教を教えたし、何よりも勝一家のよき相談相手であった。勝一家とクララ一家は親戚以上の付き合いをしていたのである。
 勝一家の人たちのほとんどがクリスチャンになり、梅太郎は将来宣教師になるとまで言った。勝も洗礼は受けなかったがクリスチャンになる寸前であった。勝はキリスト教を深く理解していた。
 もともとクララの母親は宣教師で、日本にキリスト教を布教したくて、夫の日本行きに賛成したのである。クララ一家は日本人にキリスト教を教えたが、日本の文化・宗教を否定することなくそれらを受け入れた。

 明治時代、日本人のキリスト教徒たちも一生懸命日本にキリスト教を広めようと努力した。その代表的な人物である新島襄・内村鑑三もクララと話をしている。
 私はたいへん興味深くこの日記を読んだが、特に、印象深かったのは、勝海舟その人についての記述である。クララに言わせると勝はやさしく、紳士であった。
 勝海舟は幕末の偉人であり、幕末に何をしたかはよく知られているが、明治になって何をしたかはあまり知られていない。
 勝はつねに日本の未来を案じ、運命に翻弄されて貧しくなった幕臣たちの面倒をみた。明治政府が幕臣たちを要職に取り立てたのは勝の動きがあったからであろう。勝に面倒を見られ、政府の中心人物になった人は数知れない。

 とにかくこの日記を読んで、勝海舟という人間の大きさを再認識した。まだ、攘夷思想が残る日本で、勝は日本にいる西洋人を大事にした。それが結局は、日本を近代国家へと向かわせたのである。勝に青い目の孫がいても何ら不思議はない。

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Tag : 勝海舟の嫁 クララの明治日記

クララ・ホイットニー「勝海舟の嫁 クララの明治日記 上」を読む

東京都墨田区に建っている勝海舟生誕の地碑 明治維新は薩摩・長州藩が幕府を倒した構図になっているが、実際には、薩長と幕府が共同で国の形を変えたといっていいかもしれない。
 明治維新は西郷隆盛と勝海舟という2人の傑物がいなかったら間違いなく失敗に終わっていただろう。もしいなかったら、江戸で内乱が起こり、援助という名目で外国軍が乱入し、日本は外国人に食い荒らされ、独立国家としての道を歩むことはできなかったであろう。西郷と勝は日本の将来を見据えて協力したのであった。
 明治になり薩長が政権を担っても、政府は旧幕臣を重要な地位に登用した。何よりも徳川家は大事にした。勝は明治の世になっても活躍し、政府の中枢にいて伯爵を叙された。 勝は政治家として偉大であったが、また、女性関係も華やかであり、多くの妾をもち、子供もたくさんできた。
 勝が一番愛した妾は、長崎海軍伝習所時代に知り合った梶くまである。この梶くまは子母沢寛の名作「勝海舟」にお久という名で登場する。
 梶くまとの間にできた子が梅太郎である。梅太郎は勝の三男にあたる。梅太郎を生んでまもなくして梶くまは早世した。勝の正妻は度量の大きい人で、梅太郎を引き取ってわが子のように育てた。
 梅太郎は成長して結婚した。その相手は、日本人ではなく、何とアメリカ人であった。名前をクララ・ホイットニーという。2人が結婚したとき、クララが26歳、梅太郎が22歳であった。クララと梅太郎の間には1男5女が生まれている。勝には青い目をした孫がいたのであった。
 クララ・ホイットニーは明治8(1875)年に来日した。来日した理由は、クララの父が東京に開設された商法学校の教授をするためであった。商法学校は近代的な商業を本格的に教える学校で、のちに、商法講習所・東京高等商業・東京商業大学・一橋大学と成長していく。初代の文部大臣になる森有礼がアメリカに行ったときにクララの父を商法学校の教授にスカウトしたのである。
 クララは日本に来てから克明に日記をつけていた。

東京都港区赤坂六丁目に建っている勝海舟邸跡 「勝海舟の嫁 クララの明治日記 上」はクララの一家が横浜へ到着した明治8年8月3日から明治11年7月18日までの日記である。この日記は、明治初めの江戸のことがリアルに描かれているので、さしずめ民俗学の一級資料になるかと思われる。
 この日記に登場する人物たちはまことに豪華である。勝海舟・福沢諭吉・森有礼・大鳥圭介・富田鉄之助・津田仙・徳川家達がおり、また、ヘボン式ローマ字のヘボン博士などがいる。いかにクララの一家が当時の日本で重んじられていたかがわかる。
 私はこの日記を読んで、長年疑問に思っていたことが氷解した。それは徳川慶喜の「慶喜」の読み方である。教科書でもテレビドラマでもすべて「慶喜」は「ヨシノブ」と読まれているが、私は昔、ある本で、「慶喜」が「ケイキ」と読むことを知った。その本には、江戸時代まで高貴な人の本名を言うことなどありえないと書いてあった。だから、実際には「慶喜」は何て読まれるか正確なところはわからないが、読むとしたら「ケイキ」だというのである。
 クララの家に将軍ではないが、第16代徳川家達の一家が訪れてきた。その家達の一家では「慶喜」のことを「ケイキサマ」と呼んでいたのである。私は胸のつかえがとれたような気持になった。
 また、この日記を読むと江戸の町(クララがいた東京の町は江戸の町とほとんど変わらない)には本当に川が多かったことが実感させられる。江戸の町を動くのに、頻繁に船が使われている。江戸時代に関しての本などを読むと、船が交通の主な手段であることが書かれているが、クララの日記はそれを実証している。
 クララは江戸の町を美しいと褒めているが、日本人に対しては毀誉褒貶がある。特に、日本人の男性が公で女性を大事にしないことに憤っている。ファーストレディの国の女性から見たら日本は異様の国であったのだろう。
 クララは横浜にいるヘボン博士のところへよく行っている。ヘボン博士はクララを孫のように可愛がった。横浜まではすでに汽車が通っていた。
 クララは福沢諭吉の家もよく訪れている。福沢はクララが日本人の中で最も尊敬している人の1人である。福沢はクララに日本のことをいろいろとくわしく教えてくれた。当然、福沢は英語が堪能であった。
 クララの一家が最も親密に交流していたのが勝海舟の一家であった。勝の三女の逸子とクララは同い年で大の仲良しであった。

 クララの日記を読んでいると江戸時代の姿が髣髴としてくる。

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