星新一「祖父・小金井良精(こがねいよしきよ)の記」を読む

新潟県長岡市 米百俵の石碑


 東京大学医学部の歴史は神田お玉ヶ池種痘所に始まる。種痘所はシーボルトの弟子の伊東玄朴(げんぼく)が創設したものだ。種痘所は幕府時代は西洋医学所、医学所となり、明治維新後は医学校、大学東校、東京帝国大学医科大学と成長して東京大学医学部となる。
 明治になって日本の学問研究が東大を中心になって行われ、そして東大が発信基地となって新知識が日本全土へと広められたことは誰もが認める歴史的事実である。東大はあきらかに国の命運を荷った国策的研究機関であったのだ。
 明治になって間もない時期、大学の教授たちはいわゆる御雇外国人で占められた。政府は何とか自前の教授を養成するために、大学を卒業した学生をヨーロッパへと留学させた。医学を修めたものたちはドイツへと留学した。そしてそれら留学生たちの1人が小金井良精であった。
 「祖父・小金井良精の記」は良精の孫である作家の星新一が書いたものである。星新一はショート・ショートという新しい分野の小説を開拓した人気作家である。私は星新一の作品をたくさんたのしく読んだ。この作品は良精が書き残した日記をもとに、良精が生まれたときから死ぬまでのことを書き記したものである。小金井良精の一代記ともいえる。良精が残した日記は明治・大正・昭和の時代を知る上での一級資料であると私は思った。
 私はこの本を読むまでは小金井良精の名を知ってはいたが、それはあくまでも森鴎外の義理の弟、すなわち鴎外の妹喜美子の夫としての小金井良精である。小金井良精の名が文学史に登場するのは、鴎外のドイツ時代の恋人と思しきエリスが鴎外の後を追って日本に来たときである。通説では、鴎外の弟の篤次郎と良精がエリスを説得して穏便に彼女をドイツに帰し、鴎外はエリスと会うことはなかった。ところが「祖父・小金井良精の記」によると、通説に反して鴎外はエリスと2人きりで会っていたことがわかる。私には新しい発見であった。

新潟県長岡市 河井継之助記念館

新潟県長岡市 河井継之助像

新潟県長岡市 山本五十六記念館


 小金井良精は医学研究に身を捧げた人で、臨床医ではなく解剖学の研究者であった。良精は生まれ落ちたときから苦労の連続であった。良精は安政5年(1858年)、越後長岡藩士として生まれた。伯父に「米百俵」の小林虎三郎がいる。戊辰の役のとき、長岡藩は朝敵となり、官軍と戦う。そのときの長岡藩の家老が河井継之助である。長岡藩は戦局不利になり、良精は母親・兄弟たちと会津藩へと逃げる。その途中、長岡藩は降伏する。良精は九死に一生を得たのである。
 明治になって良精は伯父の虎三郎などの援助のもと、医学の道を目指す。良精は大学東校で勉強し、卒業後文部省派遣留学生としてドイツへと赴いた。鴎外もドイツに留学するが、鴎外の場合は文部省派遣ではなく、陸軍省派遣であった。
 良精の生涯を一言でいうと、解剖学研究一筋の人生である。私は、明治の研究者が新しい日本の国作りのために寝食を忘れ、無私の精神で研究に励みそして後輩たちを指導した姿に感動した。
 この本を読むと、日本の近代医学がどのような過程を経て進歩してきたかがわかる。私は正直小金井良精がこんなにもえらい人であるとは思わなかった。鴎外が一も二もなく、自分の妹が良精の嫁になることを承諾したのも頷ける。
 良精は解剖学を通して、アイノ(良精はアイヌのことをアイノと呼んでいる)の研究もした。その研究の成果から、日本人がどこからきたかという論究もしている。たいへん興味深い説を唱えている。

 「祖父・小金井良精の記」は明治の偉人を知る上で最高の部類にはいる本である。

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 写真上から、新潟県長岡市にある米百表(国漢学校の跡)の石碑、河井継之助記念館、河井継之助像、山本五十六記念館です。
 米百表の経緯は、北越戦争に敗れ、それまでの石高を三分の一に減らされ、窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなったことから始まりました。藩の大参事小林虎三郎は「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と分け前を期待していた藩士を諭し、米百表の売却金で新潟県立長岡高等学校の前身である国漢学校を開校させました。この続きは、山本有三「米百表」を読んでください。

文京区 日本医科大学の前身である済生学舎跡の石碑

お茶の水から撮影した東京医科歯科大学

 長岡市からは小金井義精以外にも、日本医科大学の前身である済生学舎(写真上)を設立した長谷川泰、東京医科歯科大学(写真上)の前身である東京高等歯科医学校の設立に尽力した島峰徹を輩出し日本の近代医学・歯学の発展に貢献しました。

本郷 東京大学附属病院の看板

上野公園から不忍池から望む東京大学医学部付属病院

森鴎外の小説に出てくる東京大学鉄門

 写真上から、東京大学医学部付属病院の看板、上野公園から不忍池と東京大学医学部付属病院、森鴎外の小説にも出てくる東京大学鉄門です。良精が教え始めた頃の東京大学は文京区湯島(不忍池)の側に、医学部、法学部、文学部、理学部がありました。その当時の赤門は廃れて原野のようになっていました。赤門は将軍家から嫁入りで建立されましたから当時としてはあまり評判がよろしくなかったのです。加賀前田藩は戊辰の役の時にはなんの活躍もできませんでした。

神田お玉が池 種痘所跡の石碑

台東区天龍院 伊東玄朴の墓所

神田 三井記念病院の由来 東京大学

小石川植物園に移設されて東京医学校の旧校舎

 写真上から、神田お玉が池にある種痘所跡の石碑、台東区天龍院にある伊東玄朴墓所の案内板、神田和泉町にある三井記念病院に掛かっている三井記念病院の由来、小石川植物園に移設されて東京大学医学部の前身である東京医学校の旧校舎です。三井記念病院は、1909年3月 に 東京帝国大学第二医院として開院しました。もともとは伊東玄朴の自邸であり、鳥羽伏見の戦いで負傷した新選組隊長の近藤勇も診療を受けています。

文京区 森鴎外の自邸である観潮楼跡に建つ森鴎外記念館

文京区 青鞜社発祥の地の案内板 小金井喜美は設立時は賛助員だった。

 写真上から、文京区にある森鴎外の自邸である観潮楼跡に建つ森鴎外記念館、森鴎外記念館から徒歩数分の所に建っている青鞜社発祥の地の案内板です。小金井良精に森鴎外の妹である喜美が嫁いでいます。良精は鴎外よりも医学部の先輩ですが、終始、良精は鴎外を義兄として立てています。鴎外の死後は、鴎外全集の編集などに中心的な役割を果たしています。また、鴎外も良精を尊敬していました。青鞜社の設立時の賛助員として小金井喜美が参加しています。

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