夏目漱石「私の個人主義」を読む

文京区千駄木”通称猫の家跡” border= 夏目漱石は松山中学で1年間教鞭をとったあと、熊本の第五高等学校へと赴任する。そして、第五高等学校在任中に文部省からイギリス留学を命じられる。行きたくはなかったが、断る理由がないとして行くことに決めた。
 イギリスに行った漱石ははたと困った。文部省からは特別に何をやれという命令はない。ただ勉強してこいというのみである。漱石は何を研究しようかと思い悩んだ末、英文学を研究して文学とは何かを極めようとした。夜の眼も寝ずに、食うや食わずの生活をして一心不乱に勉強した。そのため漱石は神経衰弱になってしまった。
 日本に帰国してから、漱石は第一高等学校、東京帝国大学などで英文学を教えながら、イギリス以来の研究を継続していく。そして漱石は「文学論」を書く。ただし、後に漱石はこれは失敗作だといっている。
 イギリスから帰国後、漱石は心の中に何かもやもやとしたものをもっていた。彼は生徒たちに英文学を教えることが嫌になっていた。漱石は教えること以外に活動することを模索した。結局、漱石は朝日新聞に入社し作家となった。

 漱石の「私の個人主義」を読むと、なぜ漱石が東京帝国大学の講師という超エリートの職をなげうって、作家の道に進んだかがわかる気がする。「私の個人主義」は漱石が大正3年に学習院で行った講演を筆記したものである。
 この「私の個人主義」の中で、漱石はイギリス留学中に自分の生きるべき道を決めたと語っている。それは「自己本位」とは何かをを立証することであった。そのために科学的な研究やら哲学的な思索に耽(ふけ)ようとしたのである。しかし、「自己本位」ということを追求すれば、やはり文学研究という枠の中では不可能であった。漱石にとってはそれは小説という舞台でもって初めて可能なのであった。この講演は漱石が「こころ」を書いたあとに行われたものである。「自己本位」と「こころ」の中の先生の行動が私には重なってくる思いがした。
 自己本位とは個人主義と同義であろう。漱石にいわせると個人主義とは利己主義とは全く違うものである。個人は自由にふるまってもいいが、かならずそれには義務が伴うものであると漱石は語りさらに、自由に行動するには徳が必要であることにも言及する。徳を人格者と置き換えても同じである。
 漱石の主張の要点を漱石の言葉でもっていうと次のようになる。

<第一に自己の個性の発展を仕遂げようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならないという事。第二に自己の所有している権力を使用しようと思うならば、それに付随している義務というものを心得なければならないという事。第三に自己の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重(おもん)じなければならないという事。>

 イギリスにはノーブレスオブリージ(貴族の義務)なる言葉がある。これは権力をもった人は戦争になったら最前線で戦わなければならないという意味である。要するに権力・金力をもつ人はそれに伴って義務が生ずるということだ。逆に義務感のない人は権力をもてないということでもある。
 漱石はイギリスが嫌いだといっているが、イギリスは自由の国ではあるが非常に調和のとれた国だとほめている。漱石はイギリスという国の本質を見抜いたのである。

 時は日本中が国家主義に沸きかえっている時期である。国家主義とは国のために自己を抹殺することである。漱石は公然とこれに反発しているのである。それ以上に漱石は国家的道徳よりも個人的道徳のほうがはるかに優れているともいっている。その言葉の裏には国が優れたものになるためには個人が優れたものにならなければならないという意味が隠されているようである。

 結局、個人が大事であると漱石はいう。個人の問題は漱石文学の重要なテーマである。ある意味「私の個人主義」は漱石文学の解説書ともいえる。

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 写真は、文京区にある”通称猫の家跡”です。漱石にはこんなエピソードが残っています。最後の元老だった西園寺公望公が、自分の主催する会に漱石を招待しようとしました。そこで漱石は次の俳句を葉書に書いて西園寺公に送りました。
 「時鳥(ほととぎす)厠(かわや)半ばに出たかねたり」
 現代では、この句の意味は、「時鳥」を西園寺公になぞらえ、厠は漱石が連載小説の執筆中で時間が取れないという意味に解釈されているようです。しかし、この意味は、「厠のなかで時鳥の声を聞くのは不吉である」ということを当時の漢文の知識人は理解していました。これが漱石の反骨精神だと思います。

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中村正直訳「西国立志編」(サミュエル・スマイルズ)を読む

文京区湯島「旧岩崎邸庭園」 中村正直訳の「西国立志編」はサミュエル・スマイルズの「SELF HELP」を翻訳したものである。別名「自助論」ともいう。
 私はこの本を読んで深く感動した。そして50歳を過ぎた私でも体中に力が漲(みなぎ)のを感じた。この本は間違いなく読んだ人に勇気を与える本だと思った。
 この本は明治になって間もない明治4年に出版された。大ベストセラーになった。世の中が激変し、生きる指針を求めていた人たちがこぞって読んだのであろう。たくさんの人たちがこの本を読んで、勇気をもらい刻苦勉励・艱難辛苦・臥薪嘗胆・七転八起・捲土重来・堅忍不抜・隠忍自重・獅子奮迅の四字熟語の精神で勉学・仕事に励んだに違いない。

 訳者の中村正直は、天保3年(1832年)、江戸で下級武士の子として生まれた。神童といわれ、17歳で幕府の最高学府である昌平坂学問所(聖堂)に入学する。31歳という若さで御儒者に任ぜられた。幕府は慶応2年(1866年)に旗本などから優秀な人間を12人選びだし、英国に留学させた。その1人が中村であった。
 1868年、幕府は瓦解し、中村は日本へと帰国する。英国を去るとき、イギリス人の友人から渡されたものがスマイルズの「SELF HELP」であった。中村は帰りの船の中で、この本を何度も何度も読み感動した。中村はなぜ英国があれほどまで豊かな国になったかがわかった気がした。そして、この本を翻訳して出版しようと決心した。

 「西国立志編」は文語で書かれているが、現在の人が読んでも非常に示唆に富む。というよりも現代だからこそその価値がより高いのではないかとも思わせてくれる。
 「SELF HELP」はキリスト教すなわち聖書の「天は自ら助くる者を助く」からきている。「西国立志編」の要旨を一言でいうと、「人はいかに生きるべきか」を歴史上のいろいろな分野の偉人たちを例にとって説いていることである。まさにいろいろな偉人たちがいる。よく知られているところでは、物理学のガリレオ、数学・物理学のニュートン、天文学のケプラー、蒸気のワット、政治家・理学のフランクリン、文学のスコット、ナポレオンをやぶったウエリントン、化学のファラディ、そして彫刻のミケランジェロなどである。その他にもたくさんの偉人たちが登場する。
 私がこの本を読んで、歴史に名を残す人たちがなぜ偉人になれたかを考えると大きく次のような結論を得る。すなわち、
1 決して目標を見失わない
2 決してくじけない
3 どんな苦労も厭わない
4 弱い人にやさしい
5 富のために勉強をしたのではない

 中村正直は儒学を若いときに学び、その後西洋の学問をやった人であるから、いわゆる儒教臭さがあるが、この本を読むと人が生きていく上で大事なことに関しては儒学も西洋も同じであるような気がした。おそらくスマイルズが「SELF HELP]で一番いいたかったことは、人はジェントルマンたれということだと私は感じた。
 中村もこのジェントルマンに対してはたいへん感動したらしく、ジェントルマンを扱った章では熱く語っているように見受けられた。少しそのジェントルマンの章に書かれたものを見てみよう。

第13編23 ジェントルメン(君子)の義
「真正のジェントルメン(君子)は、極善の義範をもってその身を鋳造せるものなり。古来爵位あり権勢ある人を称して、ジェントルメンといえり。ジェントルは、温厚、和平、善良、醇雅の数義を含める辞(ことば)にして、メンは、人という義なり。位ある人は、必ず徳あるべき理なるがゆえに、これを貴人(きにん)の通称のごとくに用うる辞とはなれり。」

 ジェントルマンの本質は徳である。徳とは公平で、温和でそして人を思いやることである。中村はジェントルマンを君子と訳しているが、おそらく同じ概念なのだろう。私は逆にこの本を読んで君子とは何かがわかった気がした。

 私はこの本を読んで、成功とはあくまでも結果なのだとも思った。志をもって、誠心誠意徳を積みながら努力する。結果として成功しているということだ。
 この本は現在はやりの安直な生き方のマニュアル本とは全く別のものである。やはり、人はジェントルマンすなわち徳をもって鋭意努力しなければならないと訴えているのだ。
 ぜひとも現代の人に読んでほしい本である。

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ジョサイア・コンドル 写真上:文京区湯島「旧岩崎邸庭園」。三菱の創設者、岩崎弥太郎の長男久弥(ひさや)が明治29(1896)年に本邸として建築しました。設計者は日本の近代建築史に名を残すジョサイア・コンドル(写真左:東京大学構内に銅像があります)。久弥氏は慶應義塾普通部を経てアメリカペンシルベニア大学を卒業しました。明治29年三菱合資会社社長に就任し、殖産産業、重工業などの産業を発展させました。たぶん久弥氏もこの本に感銘を受けた1人だろう。

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内村鑑三「代表的日本人(だいひょうてきにほんじん)」を読む

上野の山の西郷さん 私が通った小学校には二宮金次郎こと二宮尊徳の銅像があった。あの薪をかついで歩きながら読書している銅像である。小学生の私には銅像の主が何をした人かはわからなかった。中学生になって私は偉人伝というのをよく読んだ。その偉人伝の1つが二宮尊徳についてであった。だが私には二宮尊徳の偉大性はわからなかった。私には偉人といえば織田信長であり、豊臣秀吉でありそして徳川家康であった。二宮尊徳は農業で成功したぐらいしか思わなかった。
 本当に二宮尊徳が偉い人だと気が付いたのはそれから何十年もたって明治の歴史の本を読んでからであった。
 明治4年、岩倉具視を団長とする遺米欧使節団が横浜を出発し、アメリカ・ヨーロッパを回って日本に帰ったきた。使節団は政府の要人たちで占められていた。この使節団はこれからの日本の行くべき道をさぐる使命を帯びていた。
 要人たちは欧米の文明の高さそして社会の豊かさに圧倒された。彼らは日本に帰ると、日本が目指す社会を描いた。それは資本主義をベースにした豊かな国づくりであった。そのためにはまず殖産興業であり、資本主義を発展させることであった。アメリカの豊かさが資本主義にあることを要人たちは気付いたのである。彼らは賢く、なぜアメリカで資本主義が成長・発展したかを追求した。彼らの得た結論は、アメリカ人の多くはプロテスタントで、プロテスタントの勤勉・誠実さが資本主義を成長させたということである。
 マックス・ヴェーバー(Max Weber、1864年4月21日 - 1920年6月14日、ドイツの社会学者・経済学者)の「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」に書かれていることを政府の首脳は見抜いたのである。明治政府は日本において資本主義を勃興させようと企てた。教育はその企てを全面的にバックアップした。教育の目的の1つはプロテスタントのような勤勉・誠実な人間を養成することであった。歴史上の人物から見本になる人物を探すと打って付けの人がいた。その人こそ二宮尊徳である。
 二宮尊徳のような人間を養成する。これが教育の目標になると、全国の小学校に尊徳の銅像が建てられた。

 内村鑑三は英語で「代表的日本人」という本を書いた。この本は5人の人間について書かれている。その1人が二宮尊徳である。他の4人は西郷隆盛・上杉鷹山・中江藤樹・日蓮上人である。キリスト教信者の内村はこれら5人を尊敬すべき偉大な人物として取り上げているのである。最初は少し意外な感じがしたが読みすすむうちになるほど内村が尊敬するのももっともだと納得させられる。
 これら5人に共通していることは、強力な磁石のような人を惹きつける力をもっていることだ。内村はこの「人を惹きつける力」のもとを「徳」としている。かれら5人には徳があったのである。それではその徳は何から生まれるかというと、「無私の精神」であり、「弱いものを助ける慈悲の心」であるといっている。おそらく、これはキリスト教に通づるものであろう。「すべてを投げ打って弱きを助ける」ことはキリスト教の重要な教えの1つである。
 二宮尊徳は農業を復興させる天才であって「無私」とは矛盾するようであるが、内村は尊徳を例にして無私の精神で勤勉・誠実に仕事をすれば豊かになれることを証明しているのである。
 すべてのもとは「徳」であると、内村はいっているようだ。内村にしてみれば、これら5人はキリストと同じくらいの人に見えたのかもしれない。

 私は歴史がたいへん好きである。もし歴史上の人物で1人だけ会えるとしたら、私は西郷隆盛に会いたい。西郷についての本をいろいろ読むと、本当に西郷は魅力的な人だったらしい。西郷と会ったほとんどはその人格に魅せられたという。
 西郷の座右の銘は「敬天愛人」である。天を敬い人を愛すである。そして西郷の魅力の原点を探ると中江藤樹に行き着く。中江藤樹は日本の陽明学の祖として謳われている人だが、私はそれよりも中江がたくさんの人から聖人として慕われたことに興味を覚える。中江も私利私欲とは全く縁のない人であった。
 
 「豊か」になるために「無私」になる。一見矛盾するようだが真実に迫っている逆説である。二宮尊徳・上杉鷹山・中江藤樹などをみるとこの逆説がやはり正しいことがわかる。敬虔なるキリスト教信者の目から見ても、「徳」は生きる上で最も大切な資質であると「代表的日本人」は私たちに教えてくれる。

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日蓮法難の現在の「龍口寺(りゅうこうじ)」 写真上は、東京都台東区上野公園の入口に建っている西郷隆盛像。
 写真左は、神奈川県藤沢市にある龍口寺(りゅうこうじ)。この寺は鎌倉時代の執権北条時宗のとき、日蓮を処刑しようとしたが果たせなかった場所で龍口刑場です。「龍口法難」(たつのくちのほうなん)といわれています。奇跡的に死刑を免れた日蓮は、佐渡に流がされました。また、この地で元寇のときの元の使者も処刑されています。

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新渡戸稲造「武士道(ぶしどう)」を読む

盛岡(不来方)城跡に建てられた石川啄木の詩碑 1902年の日英同盟は日本にとっては画期的であった。当時の英国は世界の覇権国であり、超大国であった。その超大国がいくらロシアに対して共通の利害があるからといって、東洋の開国して間もない小国と同盟を結ぶであろうか。まして、英国はそれまでどの国とも同盟を結んでいなかった。日本にとってはたいへん名誉なことであった。
 英国が日本の後ろ盾になったおかげで、日本は世界的に信用がつき、いろいろな面で恩恵を蒙ることになった。日本が日露戦争に勝利した1つの理由が日英同盟にあったことは論を俟たないことであろう。
 私は、日露戦争に思いを致すときはいつもなぜあの英国が日本と同盟を結んだのかと考えた。私は新渡戸稲造の「武士道」を読んで、武士道があったからこそ英国は日本と同盟を結んだのではないかと思うようになった。そもそもそのときには廃れていただろうが英国も騎士道の国ではなかったではないか。

 現在、日本人は真の国際人を目指さなければならないと喧しい。国際人、国際人というが、耳をすましてよく聞いてみると、英語が話せるのを国際人というらしい。はたしてそのような国際人たちは武士道について外国人にうまく説明できるであろうか。それ以上に彼ら自身武士道とは何かを理解しているのだろうか。
 考えてみれば武士道という言葉ほど人口に膾炙していて、それに反比例するようにその意味が理解されていない言葉は他にはないと思われる。武士道には仏教におけるお経、キリスト教における聖書のようなものはない。いわゆる教義がないのである。
 武士道といえば佐賀鍋島藩士山本常朝(1659~1719)の「葉隠れ」の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」を挙げて、切腹することが武士道だと錯覚している人もいるかもしれない。「葉隠れ」の信奉者の三島由紀夫のあの腹切りがこの考えに拍車をかけているのだろうか。
 一体武士道とは何なのか。この素朴でかつ重要な疑問に答えてくれるのが新渡戸稲造の「武士道」である。
 新渡戸は少し前まで5000円札の顔になった人である。1862年、南部藩勘定奉行の子として生まれ、札幌農学校、東京大学で勉強し、そしてアメリカへと留学した。アメリカから帰国後、第一高等学校の校長、東京帝国大学の教授を歴任し、そして初代の東京女子大学の学長も勤めた。新渡戸は明治・大正・昭和を通じての偉大なる教育者であったのである。
 「武士道」は、新渡戸がアメリカにいるときに英文で書かれたものである。書いた動機は、ベルギーの法政学のある大家から宗教がない日本は道徳教育はどうしているかと尋ねられたからだ。確かに日本にはキリスト教のように、国民の行動の規範になるような宗教はなかった。だが、日本人は道徳観が強く、そして礼儀正しいと西洋人から見られていた。また、日清戦争の勝利などもあり、日本人は勇敢な民族であるとも思われていた。
 新渡戸は西洋人に対して「日本人とは何か」という意味で、武士道について書いたに違いない。

 「武士道」は17章からなっている。17章のタイトルは次のようになっている。

第1章 道徳体系としての武士道
第2章 武士道の淵源 
第3章 義または正義
第4章 勇気・敢為堅忍の精神
第5章 仁・惻隠(そくいん)の心
第6章 礼儀
第7章 真実および誠実
第8章 名誉
第9章 忠義
第10章 武士の教育および訓練
第11章 克己
第12章 切腹および敵討ち
第13章 刀・武士の魂
第14章 婦人の教育と地位
第15章 武士道の感化
第16章 武士道はなお生きられるか
第17章 武士道の将来

 私はこの「武士道」を読んで、「武士道とは死ぬことと見付けたり」とは全く思わなかった。逆に、「武士道とは使命をもって精一杯生き抜くための心のあり方」だと思った。「武士道」は間違いなく武士道に対しての偏見を打ち砕いてくれるはずである。
 それにしても私は新渡戸の教養の広さ・深さに畏れいった。新渡戸みたいな人を本当の教養人そして知識人というのであろう。宗教・歴史・哲学・文学など幅広く深い知識を駆使して武士道について説明するその論理は見事の一言に尽きる。
 私は「武士道」を読んで、「人を思いやる」ことも武士道の重要な要素の1つだと思った。

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 写真は、盛岡(不来方)城跡に建っている石川啄木の詩碑。詩碑には「不来方の お城の草に 寝ころびて 空に吸はれし 十五の心」が彫られている。新渡戸はこの城跡に程近いところで生まれ育った。

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福沢諭吉「学問のすゝめ」を読む

麻布山善福寺に埋葬されている福沢諭吉先生 安政6年(1860年)、福沢諭吉は木村摂津守を艦将、勝海舟を艦長とする咸臨丸に乗ってアメリカに行った。そして、その2年後福沢は幕府の遣欧使節に随行し、ヨーロッパへと行く。この2つの視察で、福沢は欧米の文明のすごさをまざまざと見せつけられた。と同時に欧米列強の怖さも知ることになる。
 とくに、ヨーロッパへの行きと帰りに福沢はシナ・インドの諸港において、その住民たちが唯々諾々とイギリス人の使役に服して恥じることのない姿を垣間見た。当時、インド・香港はイギリスの植民地であった。

 幕末から明治を通じて、日本はつねにインドや香港のような運命になる危険な状態にあった。幕末に結んだ欧米列強との条約はどれも不平等条約であった。国内では政権をとった薩長閥は急速に欧化政策へと向かっていった。
 進取の気性に富み、当時の最大の知識人であった福沢はなによりも日本の独立を考えていた。彼は一日も早く日本を完全な独立国にしようと、民間の立場で主張した。福沢にとって、日本を独立させるためには、人民にたいして蒙を啓(ひら)くことであった。福沢は日本人をイギリス人に使われて何も文句をいわないインド人そしてシナ人みたいにしたくなかったのである。民心を一新させようと書いたものが「学問のすゝめ」である。

 「学問のすゝめ」は17編からなっている。第1編は明治5年に書かれ、同9年に第17編を書き終わるまで継続的に書き継がれたものである。1編1冊として出版され、明治13年までに70万冊も売れた大ベストセラーになった。「学問のすゝめ」がかくも売れたのはなぜであろうか。やはり、日本の将来を憂いていた人が多かったからだろうか。それよりもなによりも私には「学問のすゝめ」がそれまでの常識を覆す全く新しい形の本だったからこそたくさんの読者を惹きつけたのだと思われる。

 「学問のすゝめ」は読んで字のごとく、学問をすすめる書である。ただ、福沢のいう学問とは曲学ではなく実学である。実学とは自然科学・経済学そして読み書きそろばんなど社会が必要とする学問のことである。
 「学問のすゝめ」の底に流れる思想は民主主義である。民主主義とは人民に主権が存在する社会である。政府は本来人民から選ばれた人たちで構成されるべきもので、政府が人民の主人ではなく、人民が政府の主人であると福沢は唱える。ただし、人民は政府の主人といっても、政府と人民との間にはおのずからルールが存在する。そのルールが法律であるとも福沢はいう。法律を守ることは人民の必然であることを福沢は力説するのである。 とくに、このことは第6編「国法の貴きを論ず」、第7編「国民の職分を論ず」でくわしく述べられている。法治国家の視点から福沢は赤穂浪士の義挙や楠木正成を否定する。このことが発表されると相当な物議を醸しだし、福沢はそれに対して反駁する。
 私は明治の初頭に主権は人民にあると明快にわかりやすく唱えた福沢の見識に脱帽する。

 「学問のすゝめ」の第1編は有名な「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らずと言えり。」で始まる。福沢は終生門閥制度を憎んだ。人間は生まれながらに平等である。それではなぜ、ある人は成功し、ある人は失敗するのか。それはやはり自分の問題であると福沢は言及する。学問はその自分の問題に深く関連すると私には思える。
 福沢の思想は現在でもその新鮮さは薄れない。私には福沢の言葉は「最後は自分だぞ。自分を磨け」といっているように思える。
 自立した人間、それは自分の考えでもって事を処する人である。ただ、自分の考えは独断と偏見であってはいけないとも福沢はいう。福沢は舌鋒するどく、学者といわれる人たちを攻撃する。
「文字を読むことのみを知って物事の道理を弁えざる者は、これを学者と言うべからず。いわゆる論語よみの論語しらずとは即ちこれなり。」
 広く知識を得て、それを分析して自分の考えを主張する。これはなにも福沢の生きた時代が要求したものでなく、現在でも必要な姿勢である。これぞ自立した人間である。自立した人間が多くでれば必然的に国も自立していくと福沢は考える。

 「学問のすゝめ」を読むと、福沢がいかに見識が広く深いかがわかる。自然科学・政治学・経済学・宗教学・歴史学・商学なんでもござれである。福沢は日本を救うには学問であると真剣に考えたに違いない。私はこのことを「学問のすゝめ」を読んで痛切に感じた。

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緒方洪庵の墓 写真上:福沢諭吉先生が埋葬されている港区麻布山善福寺。この寺は最初のアメリカ公使館になった場所でもあります。その他に越路吹雪さんの墓もあります。この寺から慶應義塾大学までは目と鼻の先です。この墓は献花が絶えないとお参りの人が述べていました。
 写真左は福沢の師である緒方洪庵の墓です。文京区高林寺に埋葬されています。


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勝海舟「氷川清話(ひかわせいわ)」を読む

勝海舟生誕地の碑 勝海舟が始めてアメリカに行って帰朝したとき、勝は老中からアメリカについて眼についたところを問われた。<別にありません>と答えたが、あまりにもしつこくたずねるので以下のように返答した。
<さよう、少し眼につきましたのは、亜米利加では、政府でも民間でも、およそ人の上に立つものは、みなその地位相応に怜悧(れいり)でございます。この点ばかりは、まったくわが国と反対のように思いまする>
 さすがに老中も<この無礼もの控えおろう>といった。
 勝は誰に対しても思ったことはずばずばといった。勝の行動の原理の核をなすものは誠であった。すべて誠で事にあたった。

 慶応4年3月、江戸は戦場になる寸前であった。もし、幕府が朝廷にたいし恭順の意を示して江戸城を明け渡さなければ、西郷隆盛率いる官軍が江戸を総攻撃する段取りになっていた。まさに一触即発の状態であった。幕府の代表者として勝は西郷と会談する。西郷は会談時間に遅れ飄々と会談に臨んだ。
 会談はきわめて短い時間であったが、すぐ合意にいたった。江戸城は無血開城と決まった。ここに、江戸は戦火からまぬがれたのである。勝海舟と西郷隆盛という2人の傑物が江戸そして日本を救ったといえる。
 それから77年後、東京そして日本の主な都市は灰燼に帰した。1945年3月の東京大空襲、8月の広島・長崎の原爆を経て日本は降伏し、そして連合国(といってもアメリカ)の占領下におかれた。日本は落ちるところまで落ちたのである。
 勝と西郷は江戸を救いそして、列強の占領下になることを阻止した。昭和の政治家・軍首脳は日本をずたずたにし、日本は独立を失った。何でこうなったのか。

 勝海舟の「氷川清話」は勝が晩年になって過去を振り返って語ったものをまとめたものである。話言葉で書かれているので非常に読みやすい。主に、勝が出会った人物を中心に書かれている。幕末・明治維新をしる上では最高の資料ともいえる。
 勝は舌鋒するどく出会った人物たちを一刀両断のもとに評する。主な人物についての評をみてみよう。

西郷隆盛<いわゆる天下大事を負担するものは、果たして西郷ではあるまいかと、またひそかに恐れたよ>
佐久間象山<佐久間象山は、物識(ものし)りだったヨ。学問も博し、見識も多少もっていたよ。しかしどうも法螺(ほら)吹きで困るよ>
藤田東湖<藤田東湖は、おれは大嫌いだ。あれは学問もあるし、議論も強く、また剣術も達者で、一廉(ひとかど)役に立ちそうな男だったが、本当に国を思うという赤心がない>
木戸孝允<木戸松菊(しょうぎく)は、西郷などに比べると、非常に小さい。しかし、綿密な男サ。使いどころによりては、随分使える奴だった。あまり用心しすぎるので、とても大きな事には向かないがノー>
島津斉彬公<斉彬公[順聖]は、えらい人だったヨ。西郷を見抜いて、庭番(にわばん)に用いたところなどは、なかなかえらい>

 勝にかかったら藤田東湖も木戸孝允もかたなしである。
 「氷川清話」は人物評の他に勝の生き方も書いている。勝は生きる上で一番大切なものは誠だといっている。誠のことを誠意正心ともいっているが、誠心誠意ということだろう。勝は西郷に対して誠心誠意国のことを思って自らの考えを述べたのである。官軍に屈服したわけではない。大人物の西郷はすぐに勝の意を汲んだのである。
 「氷川清話」を読むと勝は大きな度量だけでなく、大政治家のみがもつ戦略眼をも合わせもっていたことがわかる。勝は当時の世界情勢を熟知していて、東アジアは列強の力関係の中に埋没していることも認識していた。勝はその力関係の中で日本の独立を維持しなおかつ日本を近代国家にしようと意を尽くしたのである。現代流にいうと自分なりのゲーム理論を構築していったのである。外は列強に眼を向け、内は幕府そして日本のあるべく姿に眼を向けた。
 視野が広く、裏の裏まで読み解く眼力をもち、そして度量が大きく情にあつい。勝とはこんな人間のように見える。

 私が勝海舟に興味をもったのは江藤淳の「海舟余波」を読んでからだ。江藤の晩年の名著「南洲残影」をあげるまでもなく、江藤は勝海舟と西郷隆盛を非常に高く評価していた。終戦時江藤は12歳の少年で、終戦は鎌倉で迎えた。江藤少年は終戦直後、鎌倉の浜辺から遠く相模湾の水平線上を見た。水平線にはアメリカの軍艦が横一列びっしりと並んでいた。これが他国に占領されるということであると江藤少年は思ったに違いない。この体験がエネルギーとなって江藤淳のその後の方向性を決めたように私には思える。

 「氷川清話」は日本人が「日本を想う」とはどのようなことかと考えさせられる一書である。

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 写真は、東京都墨田区両国に建っている勝海舟生誕地の碑です。

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