柳田国男「遠野物語」を読む

上野駅 石川啄木の歌碑 柳田国男は日本の民俗学を築いた人である。
 柳田が民俗学を築くにあたってはステップがあった。柳田は青年時代は文学に傾倒していた。主に詩を書いていた。島崎藤村、田山花袋などの文学者たちと親しく交わった。
 藤村の有名な「椰子の実」は、柳田から聞いたことを詩にしたものである。遠い南の島から日本に流れついた椰子の実について柳田は藤村に熱く語ったに違いない。その頃から柳田は日本人がどこから来たのかということに関心があったのかもしれない。
 柳田の興味は文学から民俗学なるものへと移る。おそらく柳田は文学に自分の目指すべきものを見出すことができなかったのだろう。言葉を扱っていても柳田の興味の対象は土地と言葉のつながりであった。そして、土地と言葉のつながりの積み重ねが歴史であり、柳田は新しい歴史学というものも構築しようとした。やはり、柳田の関心事は日本人そのものであった。
 柳田は東京帝国大学法科大学で農政学を専攻する。卒業後は農商務省に勤務する。柳田は農業の専門家であった。農事行政に携わりながら柳田は農業の担い手である農民そのものの生活行動を研究することになる。全国を歩きまわって民間に伝承する民話・芸能・習慣など1つ1つあきらかにしていくことで巨大なる柳田民族学なるものを築きあげたのであった。

 「遠野物語」は民間伝承を記録した柳田の代表的な作品である。明治43年に刊行された。「遠野物語」に登場するのは岩手県遠野郷に残る奇奇怪怪な話である。柳田が遠野に住む青年から聞いた話を記述したものである。ただし文体は文語である。
 「遠野物語」にでてくる話はどれも怪異なものであるが、日本のいたるところで聞かれる話でもある。遠野とは縁もゆかりもない人でも一度はきいたことがある話が「遠野物語」にはのっている。
 どんな話がのっているかをあげてみると、家の神・山の神・天狗・山男・山女・姥神(うばがみ)・雪女・川童(かっぱ)・狼(おいぬ)などの話である。家の長老たちはこれらの話を孫たちに聞かせたのであろうか。
 119の話がのっている。そのうちの2つの話をピックアップして紹介してみる。

 3番目の話は山男の話である。ある老人が青年の頃、猟をするために山奥にはいった。そのときはるか向こうの岩の上に美しい女が1人いて、髪を梳(くしけず)っていた。青年は鉄砲でその女を撃った。女はたおれ、青年は証拠としてその女の髪を切って懐にいれて帰路についた。その途中、青年は睡魔に襲われ、物陰に立ち寄りまどろんだ。夢と現(うつつ)の間をさまよっていると、どこからか背の高い男が近づいてきて懐から女の髪の毛を奪って去っていった。その男は山男であった。

 69番目の話は娘と馬が愛し合う話である。私はこの話が非常に印象に残った。
 昔あるところに農民がいて、妻はなくて美しい娘がいた。また、1匹の馬を養っていた。娘はこの馬を愛して夜になると厩舎(うまや)に行って、一緒に寝た。そしてついに夫婦となった。ある夜、娘の父はこの事実を知り、次の日、馬を殺してしまった。馬が殺されたことを知った娘はたいへん悲しみ、そして馬の首にすがって泣いた。娘の父はこの娘の態度を憎み、馬の首を斧でもって切った。たちまち娘はその首に乗って天に昇っていった。オシラサマというのはこのときより成り立った神である。

 「遠野物語」にでてくる話は怪異なものであるが読むとあるなつかしさがこみ上げてくる。川童にしろ山男にしろ天狗にしろ魔物である。魔物とは一種の恐怖の象徴であろう。川や山は向こう側に行く境界である。川や山に魔物が住むというのは向こう側に行ってはいけないという村人たちの暗黙の掟を象徴しているのかもしれない。ここに日本人が村という共同体を維持してはじめて生きていける農耕民族であるということが垣間見えないであろうか。私たち日本人の祖先はかならずや「遠野物語」にあるような話を何度もきいているはずである。
 「遠野物語」は日本人の心の奥にある自然・神にたいする畏怖の念を表現したものともいえる。「遠野物語」は遠野だけでなく、日本中に存在するのであろう。
「遠野物語」は民俗学の記念碑的傑作である。

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勿来の関 源義家(八幡太郎義家)の像写真上:上野駅構内にある石川啄木の歌碑。現在は東北・上越新幹線開通で上野駅を発着する特急列車の数は減少しましたが、開通する前は東北の表玄関で賑わっていました。歌碑には次の詩が詠われています。
 「ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを 聴きにゆく」

 写真左:福島県いわき市。勿来の関の源義家の像。奥羽三関(他に念珠関(山形県)・白河関(福島県))の中の1つで、常陸・陸奥国境に設置されました。ここから北に「みちのく」がはじまります。平安時代にこの関所を詠んだ詩は数多くあります。源義家は陸奥守兼鎮守府将軍をつとめました。義家は通称 ”八幡太郎義家”として有名です。次の歌碑が詠われています。
 「吹風を なこその関 おもへども 道もせにちる 山桜かな」
 島崎藤村の「椰子の実」の一番の歌詞は、「名作を読む」の「中島敦「山月記(さんげつき)・李陵(りりょう)」を読む」に掲載しています。是非ご覧になってください。

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星新一「祖父・小金井良精(こがねいよしきよ)の記」を読む

長岡市米百表の石碑 東京大学医学部の歴史は神田お玉ヶ池種痘所に始まる。種痘所はシーボルトの弟子の伊東玄朴(げんぼく)が創設したものだ。種痘所は幕府時代は西洋医学所、医学所となり、明治維新後は医学校、大学東校、東京帝国大学医科大学と成長して東京大学医学部となる。
 明治になって日本の学問研究が東大を中心になって行われ、そして東大が発信基地となって新知識が日本全土へと広められたことは誰もが認める歴史的事実である。東大はあきらかに国の命運を荷った国策的研究機関であったのだ。
 明治になって間もない時期、大学の教授たちはいわゆる御雇外国人で占められた。政府は何とか自前の教授を養成するために、大学を卒業した学生をヨーロッパへと留学させた。医学を修めたものたちはドイツへと留学した。そしてそれら留学生たちの1人が小金井良精であった。
 「祖父・小金井良精の記」は良精の孫である作家の星新一が書いたものである。星新一はショート・ショートという新しい分野の小説を開拓した人気作家である。私は星新一の作品をたくさんたのしく読んだ。この作品は良精が書き残した日記をもとに、良精が生まれたときから死ぬまでのことを書き記したものである。小金井良精の一代記ともいえる。良精が残した日記は明治・大正・昭和の時代を知る上での一級資料であると私は思った。
 私はこの本を読むまでは小金井良精の名を知ってはいたが、それはあくまでも森鴎外の義理の弟、すなわち鴎外の妹喜美子の夫としての小金井良精である。小金井良精の名が文学史に登場するのは、鴎外のドイツ時代の恋人と思しきエリスが鴎外の後を追って日本に来たときである。通説では、鴎外の弟の篤次郎と良精がエリスを説得して穏便に彼女をドイツに帰し、鴎外はエリスと会うことはなかった。ところが「祖父・小金井良精の記」によると、通説に反して鴎外はエリスと2人きりで会っていたことがわかる。私には新しい発見であった。

 小金井良精は医学研究に身を捧げた人で、臨床医ではなく解剖学の研究者であった。良精は生まれ落ちたときから苦労の連続であった。良精は安政5年(1858年)、越後長岡藩士として生まれた。伯父に「米百俵」の小林虎三郎がいる。戊辰の役のとき、長岡藩は朝敵となり、官軍と戦う。そのときの長岡藩の家老が河井継之助である。長岡藩は戦局不利になり、良精は母親・兄弟たちと会津藩へと逃げる。その途中、長岡藩は降伏する。良精は九死に一生を得たのである。
 明治になって良精は伯父の虎三郎などの援助のもと、医学の道を目指す。良精は大学東校で勉強し、卒業後文部省派遣留学生としてドイツへと赴いた。鴎外もドイツに留学するが、鴎外の場合は文部省派遣ではなく、陸軍省派遣であった。
 良精の生涯を一言でいうと、解剖学研究一筋の人生である。私は、明治の研究者が新しい日本の国作りのために寝食を忘れ、無私の精神で研究に励みそして後輩たちを指導した姿に感動した。
 この本を読むと、日本の近代医学がどのような過程を経て進歩してきたかがわかる。私は正直小金井良精がこんなにもえらい人であるとは思わなかった。鴎外が一も二もなく、自分の妹が良精の嫁になることを承諾したのも頷ける。
 良精は解剖学を通して、アイノ(良精はアイヌのことをアイノと呼んでいる)の研究もした。その研究の成果から、日本人がどこからきたかという論究もしている。たいへん興味深い説を唱えている。

 「祖父・小金井良精の記」は明治の偉人を知る上で最高の部類にはいる本である。

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東京大学医学部 写真上は、新潟県長岡市にある米百表(国漢学校の跡)の石碑です。
 米百表の経緯は、北越戦争に敗れ、それまでの石高を三分の一に減らされ、窮状を見かねた長岡藩の支藩三根山藩から百俵の米が贈られることとなったことから始まりました。藩の大参事小林虎三郎は「百俵の米も、食えばたちまちなくなるが、教育にあてれば明日の一万、百万俵となる」と分け前を期待していた藩士を諭し、米百表の売却金で新潟県立長岡高等学校の前身である国漢学校を開校させました。この続きは、山本有三「米百表」を読んでください。
 長岡市からは小金井義精以外にも、日本医科大学の前身である済生学舎を設立した長谷川泰、東京医科歯科大学の前身である東京高等歯科医学校の設立に尽力した島峰徹を輩出し日本の近代医学・歯学の発展に貢献しました。
 写真すぐ上は、東京大学医学部。良精が教え始めた頃の東京大学は文京区湯島(不忍池)の側に、医学部、法学部、文学部、理学部がありました。その当時の赤門は廃れて原野のようになっていました。赤門は将軍家から嫁入りで建立されましたから当時としてはあまり評判がよろしくなかったのです。加賀前田藩は戊辰の役の時にはなんの活躍もできませんでした。


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