高橋是清「高橋是清自伝」を読む

高橋是清公園に坐っている高橋是清像「高橋是清自伝」はたいへんおもしろい。福沢諭吉の「福翁自伝」にも匹敵するおもしろさである。「福翁自伝」と同じく口述筆記されたものである。
 だが、この「高橋是清自伝」は一風変わっている。普通自伝というと生まれ落ちて晩年までのことを扱うのだが、この自伝は明治38(1905)年の4分利付公債の募集が成功したところで終わっている。そのとき高橋は52歳である。役職は日本銀行副総裁である。
 高橋是清は2・26事件で青年将校たちの凶弾を受けて斃れるまで83年の長き人生を全うした。52歳と言えば高橋のキャリアの半分にも満たず、華麗なるキャリアは53歳以後において築かれるのである。その華麗なるキャリアを挙げてみる。1911年日銀総裁、1913年第1次山本権兵衛内閣の蔵相となり、政友会に入党。1921年原敬の暗殺後、首相兼蔵相となり、政友会総裁となる。1924年衆議院に初当選し加藤高明を首班とする護憲三派内閣の農商相となる。1925年政友会総裁を辞任したが田中義一内閣の蔵相となって金融恐慌を収拾した。そして満州事変後、犬養毅・斉藤実・岡田啓介3内閣の蔵相として積極的な財政投資政策を推進し、大恐慌に陥った日本経済を救おうとした。2・26事件の直前には軍部と対立した。
 この経歴をみてもわかる通り、53歳以降、高橋は日本の指導者として活躍する。それでも52歳までを記した「高橋是清自伝」はこれ以上ないと言うくらいおもしろい。なぜかと言うに、高橋自身自伝というものは偉くなったときのことを書いてもつまらないと思っていたからではないのか。実際、功成り名を遂げた人の成功してからの話ほどつまらないものはない。おもしろいのは苦しみ喘いで逆境を乗り越えて成功を勝ち取るまでの過程にある。高橋はこのことを十分に認識していたのであろう。
 
 高橋是清が日本の指導者の道を歩むきっかけになったのが日露戦争である。
 日露戦争と言えばすぐに日本海海戦の大勝利と、その海戦の主役連合艦隊を指揮した東郷平八郎を思い浮かべるが、戦争の勝敗というものは国の総合力が決め手になるもので、軍隊だけで戦争に勝てるものではない。まず、戦争をするためには戦費が必要である。この戦費はもちろん日本一国ではまかない切れないほど厖大である。外債を発行して外国から借金をして集めなければならない。
 高橋は欧米で外債を発行する使命を帯びて日本を旅立つ。外債を発行すればすぐに売れると言うほど日本は欧米からまだ信用されてはいなかった。だからこそ高橋が選ばれたのであるが。外債を買ってくれなければ日本は戦費を調達できず、悲惨な目にあうのは目に見えていた。高橋は慎重に事を運び、見事に外債を売ることができた。日本の勝利の一因が高橋の動きにあったことは間違いない。

 高橋是清の人生を振り返ると波乱万丈とはこの人の人生を形容するためにあるのではないかと思われてくる。生まれ落ちると里子に出されそれから高橋家の養子になった。高橋家は仙台藩の江戸定詰である。
 高橋の人生は12歳の頃から大きく動きだす。まず横浜にある英国の「バンキング・コーポレーション・オブ・ロンドン・インデア・アンド・チャイナ」という銀行の支配人シャンドのボーイをし、それからアメリカへと渡る。アメリカでは奴隷となり、アメリカ人の家で働き英語をマスターする。
 アメリカから帰ると、大学南校(東大の前身)の生徒になるが英語ができるものだからすぐに教官三等手伝になり、それから唐津英語学校の先生、駅逓寮翻訳係を経験し、乳牛と銀相場に手を出し失敗する。そして文部省御用係になって、農商務省工務局に移り、商標登録所長、専売特許局所長、特許局長、東京農林校長など歴任する。その他にいろいろな学校で教師をする。共立学校(現在の開成高校)でも教えた。
 極めつきはペルーでの銀の発掘で、高橋はペルーまで出向くのである。この事業は失敗し、責任を取る形で農商務省を追われ財産をすべて失う。それから一から出直す覚悟で実業の世界に入る。最初に勤めたのは横浜正金銀行で、それから日本銀行副総裁へと登る。
 日本の大臣または日銀総裁を勤めた人で高橋是清ほど転職を繰り返した人はいないだろう。成功した実業家の中でもいないのではないか。
 高橋はたくさん転職を繰り返したが1本筋が通っていた。それは誠実で自己本位でなかったということだ。高橋の七転び八起きの人生も誠実であったから成し得たのであろう。「高橋是清自伝」を読むと、達磨(だるま)宰相と言う愛嬌ある名を頂戴した高橋是清の人柄がよくわかる。

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東京駅 写真上は、東京都港区高橋是清公園内に坐っている高橋是清像です。青山通り沿いに面していますが、この公園は緑が多く静寂としていました。隣はカナダ大使館です。
 写真中は、現在の東京駅(工事中)です。この駅を設計した人は辰野金吾博士です。是清が、肥前(佐賀県)の唐津藩で英語を教えていたときの教え子に辰野金吾博士がいます。
旧高橋是清邸 写真下は、港区赤坂に建っていた旧高橋是清邸です。現在は小金井市の江戸東京たてもの園に場所を移し邸宅と庭園の一部が見学できます。2階が是清の寝室と書斎になっており、2.26事件の現場になりました。庭園は、パンフレットによると「組井筒を水源にした流れと、雪見型灯籠などを含む景観を再現しています。>とのことです。真夏の時期に見学をしましたが、室内は庭園からの風の流れと木造なので熱が室内にこもっておらず、また水の流れる優しい音色で涼しく感じました。

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江藤淳「南洲残影(なんしゅうざんえい)」を読む

田原坂 1877年の西南戦争は哀しい戦争であった。なぜ哀しいのか。この戦争はやる前から勝敗がわかっていたからである。戦費・戦力において西郷隆盛率いる薩軍は官軍とは較べものにならないくらいに劣っていた。それでも薩軍は挙兵し、そして熊本へと向かった。それは滅亡への行軍であった。
 江藤淳の「南洲残影」は西郷隆盛への痛切なる鎮魂の書である。江藤は負けるとわかっていてもやらなければならない戦争があるといっている。日露戦争しかり太平洋戦争しかりである。西郷も負けるとわかっていても立ち上がらなければならなかったのである。西郷は自ら亡びることによって何かを訴えたかった。その何かを江藤は執拗に追い求めている。

 「南洲残影」の中で、西南戦争を通して、江藤は西郷への思いを綴っている。西郷が死へと赴く状況が哀しい調べでもって描かれている。私は何度も何度も胸を打たれた。はたして西郷は何のために死のうとしていたのかと私自身も何度も心の中で問うた。
 この書を哀愁に満ちたものにしている1つの理由はいくつかの音楽が合わせもって語られているからである。その音楽とは、勝海舟が作ったといわれる薩摩琵琶の伴奏で歌われる「城山」、落合直文作詞「孝女白菊の歌」、外山正一作詞「抜刀隊」、そして西郷隆盛を偲んだ童唄などである。これらの音楽が基調をなして薩軍の姿を哀しく髣髴とさせる。
 薩軍が鹿児島を出立するのが2月15日である。そのときの軍資金が25万円であった。対する官軍のそれは4000万円近くあった。兵士の数、軍艦の数などを考慮すると戦力はまさに段違いであった。
 「南洲残影」は『西南記伝』に則って、薩軍の挙兵から、田原坂での敗退、それからの鹿児島までの退却、そして城山での西郷の死を時系列にたどっている。
 薩軍が鹿児島にもどったときには当初の兵士3万人が300人近くまで減っていた。9月24日未明、官軍は薩軍のこもる城山に一斉攻撃をしかける。嵐のように弾が飛んできた。西郷は流れ弾が股と腹に当たったとき自らの最後を悟った。
 西郷はその場に跪坐(きざ)し、そして東天を拝した。西郷は「賊」として追討を命じた天子に、最後の衷情(ちゅうじょう)を尽くしたのである。その後、別府晋介の一刀のもと西郷の首は落ちた。

 西郷は挙兵する前に<今般政府へ尋問の廉有之(これあり)>で始まる照会書を熊本鎮台に送っている。西郷の挙兵の表向きの理由は政府に対して諫言することであった。薩軍は九州を横断し、小倉に向かいそして東京へと向かおうとした。官軍より少ない戦力で挙兵に踏み切ったのにはそれなりの勝算があったのかもしれない。西郷が立つということで、全国の不平士族が薩軍に連座することを期待したのか。
 西郷とともに江戸城無血開城を成し遂げた勝海舟は、西郷が挙兵するや旧幕臣たちに西郷に与(くみ)するなと動きまわった。勝はこの戦争の無謀さを知っていたのである。だが、勝は後年、「城山」で西郷を偲んでいる。西郷の気持は勝だけが知っていたのかもしれない。

 西郷は自ら亡ぶことで、行く末、日本も亡ぶということを暗示していると江藤は見る。実際それから68年後日本は亡びた。
 西南戦争におけるある少女を歌った「孝女白菊の歌」が愛誦された明治20・30年代の日本人は「西郷とともに何ものか大きなものが亡びた」ことを知っていた。
 江藤淳は西郷とともに亡びたものの存在を私たち日本人に知らしめようとして「南洲残影」を書いたのかもしれない。

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大久保利通哀悼碑 写真上は、西南戦争の激戦地の田原坂です。
 写真下は、東京都千代田区紀尾井町にある大久保利通哀悼碑です。大久保利通(文政13(1830)年 - 明治11(1878)年)は西南戦争のもう一方の主役です。戦争時は京都にて政府軍を指揮しました。この地で、明治11年に石川県士族島田一郎らによって暗殺(紀尾井坂の変)されました。享年数え年49歳。

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