新島襄「新島襄の手紙」を読む

新島襄先生生誕地の碑 民間においてある組織が長く存在できるかどうかはその組織を創りあげた人間の理念・哲学に大いに関係がある。特に、会社・学校などは創業者の理念・哲学が強烈であればあるほど長く世にとどまるようである。
 慶応大学が150年に渡って日本の教育を引っ張ってきたのはその創業者である福沢諭吉の理念に負う事は論を俟たないであろう。トヨタ自動車、パナソニック、ソニー、ホンダなどが今なお世界の名門企業として活躍するのもそれらの創業者である豊田喜一郎、松下幸之助、井深大・盛田昭夫、本田宗一郎らの理念がずば抜けていたからである。
 
 同志社大学も慶応大学に負けず劣らず長い間名門と言われ続けた大学である。同志社大学の創立は1875年(明治8年)で、同志社英学校がその始まりである。
 同志社大学を創立したのは新島襄である。残念ながら新島は同志社英学校を大学にしようと血を見るような思いで奔走するのだが、新島の目の黒いうちにはそれは果たされなかったが。
 新島はどのような教育理念そして人生哲学をもっていた人なのであろうか。それを知るベストな本が「新島襄の手紙」<岩波文庫>である。
 おそらくこの本を読んで感動しない人はいないであろう。と同時に教育者と言われている人たちはこの本を読むとある意味恥ずかしい思いにかられるかもしれない。
 はたして現在、教育者と言われている人たちの中に新島ほど「覚悟」をもって教育に携わっている人がいるのだろうか。かくいう私も長い間教育に身を捧げているものだが、新島の姿勢には正直畏れいった。新島は教育に命を賭け、教育のために身をぼろぼろにして死んでいった殉教者みたいな人であった。
 私はつねづね明治の世には偉大な人がたくさん存在したと思っている。教育界を見渡しても福沢諭吉、新島襄、新渡戸稲造、岡倉天心、内村鑑三、津田梅子、成瀬仁蔵、小野梓などいずれも覚悟をもって、言葉を変えて言うなら使命感をもって教育に携わってきた人たちである。その中でも新島の覚悟は際立っている。それはキリスト教の影響があるというよりも、元々もっていた新島の日本の国に対する使命感がキリスト教の教義によってさらに強く大きなものになっていったのだと思われる。新島の生き方を見ていると、武士道とキリスト教が渾然一体となったように感じる。

 「新島襄の手紙」は新島が書いた96の手紙が収められている。この手紙を読めば自然と新島の人生を追体験することができる。
 新島は開港間もない函館から見つかれば首を刎ねられるという覚悟で、アメリカの商船で日本を密出国した。その商船の船長は思いやりのある人で20歳そこそこの新島を可愛がり、水夫として使い仕事の合間に英語の勉強をさせた。彼は新島のことをジョーと呼んだ。これが新島の名前襄になる。船長は船がアメリカに着くと、新島を船のオーナーに紹介した。オーナー夫婦は敬虔なるキリスト教徒で遠い異国の地から来た貧しい身寄りのない青年を養子のようにして、教育をほどこした。新島は終生オーナー夫婦を真の親として敬愛し続ける。
 新島は何の抵抗もなくキリスト教徒になった。それはアメリカの豊かさ、新島を取り囲むアメリカ人たちの人格の高尚さにじかに接しその土台となっているのがキリスト教であると気が付いたからであろう。新島は大学を卒業し、神学校も卒業する。
 新島はキリスト教の教えを学べば学ぶほどこの教えを広く日本人に伝えたいと思うようになる。そして日本で布教のための教会と学校を設立することを決意する。新島は日本に帰ってくると京都に同志社英学校を創った。

 「新島襄の手紙」にはいっている手紙には新島の教育に対する情熱、若い人たちへの思いやり、日本の国を思う気持、そして英学校を維持しさらに大学にするためのお金集めの苦労話が述べられている。と同時に命がけで教育に携わり、命がけで人を愛したキリスト教の伝道者新島襄の生き様がつまっている。
 教育に携わる人にはぜひとも読んでほしい一書である。

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 写真は、東京都千代田区神田錦町に建っている新島襄先生生誕地の碑です。新島は、天保14(1843)年上州安中藩江戸藩邸で生まれました。1864年、21歳のときに函館よりアメリカに向けて脱国しました。新島襄の妻は、戊辰の役で賊国となった会津藩出身の八重です。戊辰の役のときに、官軍に向けて発砲した逸話が残っています。現在の言葉で表現するなら飛んでいる女でした。その性格に襄が惚れて口説きました。襄が存命中の時には、同志社の学生であった徳富蘇峰とは意見の対立がありました。襄の死後は同志社から離れて戦争で負傷した軍人の介護などいろいろな分野で活躍しました。

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Tag : 新島襄の手紙

村井弦斎「食道楽(しょくどうらく)」を読む

 それにしても村井弦斎の「食道楽」はすごい小説である。前代未聞というより空前絶後の小説といってよい。何しろ小説と銘打っているが、その内容は小説というよりも完全な料理の本である。日本料理・西洋料理はいうにおよばず中華料理があり、その料理がさらに細かく別れ、結局600種類以上の料理を紹介している。レシピレシピのオンパレードである。
 一体村井弦斎とは何ものなのであろうか。村井は文久3年(1864年)に生まれ、昭和2年(1927年)まで生きた。東京外国語学校(現東京外国語大学)を中退し、アメリカに外遊した。アメリカから帰ると報知新聞の客員となって小説を書いた。いわゆる夏目漱石と同じ小説記者というもので多種多様の小説を書きまくった。「食道楽」はそのうちの1つでたいへんな反響であったらしい。
 村井はただ単に興味本位に食をテーマにした小説を書こうとしたのではない。村井は「食道楽」を書く前に「酒道楽」「女道楽」なるものを書いており、この2書では酒を飲むこと、妾を抱えることを諌めている。いわゆる啓蒙の書で、「食道楽」も正しい食のあり方を世間一般に教えるために書かれたものである。食育ということが現在よくいわれているが、村井は食育を先取りした感じである。
 ところが、実際には読者たちは「食道楽」における料理が目新しく、特に主婦たちはレシピとして料理作りに励んだ。
「食道楽」は小説の形をとっており、主人公は文学士の中川とその妹お登和嬢である。中川の職業は文学者で、料理に関する薀蓄がすさまじい。お登和は薀蓄だけでなく、実際に料理を作る人である。
 「食道楽」は新聞に1日1章連載され全部で360章からなる。文庫(岩波文庫)で約1000頁近い大部なものである。その他に巻末に「日用食品分析表」「料理法の書籍」「西洋食器類価格表」「西洋食品価格表」「米料理百種」「パン料理五十種」「病人の食物料理法」「戦地の食物衛生」「料理法索引」「台所の手帳」などが付録としてついている。料理の作り方だけでなく、材料を科学的そして医学的にも分析しているのである。
 それでは一体夥しい料理について村井はどうして知ることができたのであろうか。その1つの理由は村井の妻多嘉子が料理のうまい人であったことと、さらに多嘉子は大隈重信の親戚で、大隈から料理を知るについていろいろと便宜をはかってもらったらしい。大隈はたいへんな食通で、大隈邸には何人ものコックが常勤していて毎日何百人もの料理を作っていた。大隈はコックの1人を村井のもとへ行かせ料理についていろいろと教えさせた。また、村井は自分の家にも専属のコックをおいた。
 ここで、「食道楽」に出てくる料理の一旦を見てみると、昆布スープ・鳥スープ・鶏(とり)の雛(ひな)・梅料理・ビスケット・ライスカレー・鯵料理・チース(チーズのこと)料理・赤茄子(トマトのこと)ジャム・冷肉料理・アイスクリーム・鰯料理・茶碗鮨・牛の脳味噌・牛の臓物・ドロップス(ドロップのこと)・猪料理・兎(うさぎ)のシチュー・雉のロース・鴨のロースなどなどでここにあげた料理はほんの一部である。
 小説の最後に1人前2円の材料で作った料理のメニューが出てくる。そのメニューとは次の通りである。

1 マルボントースという牛の髄(ずい)の料理
2 仏蘭西豆(ふらんすまめ)のスープ
3 平目のパンデポーソンといって蒲鉾のようなもの
4 ポーレーシューカナペールといって鳥の肉の料理
5 ヒレビーフゴーダンといって牛肉のロース
6 アスペーキゼリーといって鳥の寄物(よせもの)
7 ポンチシャンパンといって酒を固めたもの
8 アスペラガスのクリームソース
9 七面鳥のロース
10 サラダロアイヤル
11 カビネットプデン
12 アイスクリーム
 その他にレデーケーキというお菓子と水菓子と珈琲(こーひー)がつく

 何とも豪勢な料理である。「食道楽」の舞台は明治の末である。
 「食道楽」を読むと村井弦斎とは単なる小説家ではなくどこか神がかり的な人間のように見えてくる。化け物みたいな人物である。
 不思議なことに村井は「食道楽」を書き終わったあと、それきり小説は書かなくなったそうである。村井はもっているすべてを「食道楽」に注ぎ込んだのかもしれない。
 とにかく「食道楽」はたいへんな小説である。

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早稲田大学大隈重信像 村井弦斎は矢野龍渓の門下でした。矢野は改進党の機関紙である「郵便報知」の論説記者でした。当時は新聞人から政治家になった人が多くいました。「郵便報知」からは、矢野龍渓、犬養毅、尾崎行雄、原敬らがでました。
 龍渓の政界引退後に、「郵便報知」は政党との関係を絶ち、弦斎が中心となって政治色をなくして「親子の前で読める新聞」に刷新しました。日常生活の豆知識や時代小説、冒険小説、恋愛小説などの連載小説を充実させて部数を伸ばしていきました。「食道楽」も連載小説して掲載されたものです。
 明治20年を過ぎるといわゆる「政治色の強い大新聞」から「庶民向けの連載小説を掲載した小新聞」が部数を伸ばしていました。「読売新聞」は高田早苗、坪内逍遥が、主筆、文芸主筆となり、連載小説で人気を博しました。尾崎紅葉の「金色夜叉」を連載したのも「読売新聞」でした。その後、日清・日露戦争で「正しい情報」を客観的に伝える「報道」に変化していきます。

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