湯川秀樹「旅人(たびびと)」を読む

 湯川秀樹は日本人としてはじめてノーベル賞を受賞した物理学者である。戦後まもなくのこの受賞に接して、敗戦に打ちひしがれた日本国民は異常なまでに歓喜したという。湯川の受賞理由は彼の唱えた中間子理論であった。
 中間子理論とは何なのであるか。「旅人」は湯川の半自叙伝めいた随筆で、幼少の頃から中間子理論を考えつくまでのことが書かれている。湯川の精神的成長の過程を綴ったものともいえる。日本が生んだ偉大な物理学者の内面的葛藤の足跡を垣間見ることのできる貴重な本である。
 20世紀は華々しい科学技術の進歩の世紀であったことは誰も否定しないだろう。科学技術の土台となるのが電磁気である。電磁気の理論を構築するのが物理学者の仕事であったともいえる。
 19世紀末から20世紀初頭にかけて物理学は激動の時代を迎えていた。ニュートンが創った古典物理学が完全に体系化されはいたが、粒子の世界では古典物理学では解明できない現象がたくさん見つかってきた。物理学は古典物理学に変わる新しい理論体系の構築の必要に迫られていた。その新しい理論体系とは量子論であり相対論であった。そしてそれら2つが研究されるに及んで量子力学なる新しい理論も登場してきた。物理学の世界はめまぐるしく変化していた。そのような状況の中で、湯川は小学校・中学・高校・大学を京都で過ごす。
 湯川は早い時期から物理学を一生の仕事にしようとしたわけではない。湯川が物理学者になろうと決心したのは高等学校を卒業する頃であった。「旅人」の一番のおもしろさは何といっても湯川が京都帝国大学に入学してから、27歳のときに中間子の存在を予言するまでの思考の軌跡を追っていることである。抑制のきいた文章ではあるが、その底には熱き情熱が迸っているのが感じられる。情熱に導かれて湯川の行き着いた結論は既成概念の否定であった。湯川は最後の最後大胆な仮説を提唱するのである。
 原子核が陽子と中性子から構成されていることはわかっていた。ところが、正の電気を帯びた陽子と電気的に中性の中性子が核を構成するためにはそれらを結合させる核力なる力が働かなければならない。多くの物理学者は核力のもとになる物質は彼らが知っている電子などであると推察した。ところが湯川は中間子という新しい粒子の存在を予想するのである。考えに考えたあげくの既成概念の否定であり大胆な予想である。これこそ世界を変えたガリレオ・ニュートンの姿勢と同じである。
 「旅人」は湯川が中間子の存在の仮説を考えだしたところで終わるが、その後、「旅人」でも何回となく登場する湯川の教え子である坂田昌一・武谷三男などを協力者にして、仮説を徹底的に論理展開して理論にまで高めていった。これが中間子理論である。戦後、この理論が正しいことが実証された。
「旅人」を読むと、新しい理論が構築されるまでに次の3つの段階を踏むことがわかる。
 1 仮説   2 理論  3 実証
この3段階ではやはり1の仮説をたてることが一番たいへんなことはいうまでもない。

 湯川は東京で生まれ、幼くして京都に移った。育ちは京都ということになる。京都という日本で最も伝統のある町で育ったからこそ世界の最先端をいく量子力学の理論を考え出したと思うとおもしろい。
 「旅人」は創造とはいかなる軌跡をたどって可能になるか我々人類に示した名著である。

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倉田百三「愛と認識との出発」を読む

 旧制高校といえばエリート集団であった。とりわけ旧制高校の中でもナンバーワンといわれた第一高等学校は超エリート集団であった。ところがエリートゆえに悩んだ一高生も多くいた。
 明治の世には藤村操という一高生が華厳の滝に飛び込んで自殺した。藤村は漱石の教え子でもあった。昭和になってからは「二十歳(はたち)のエチュード」を書いた一高生の原口統三が自殺した。藤村にしても原口にしてもこれはというはっきりした自殺の理由はなかったが、2人とも人生や生き方について真剣に悩んでいたのは事実であった。
 大正時代にも自殺するぐらい悩んだ一高生はいた。その1人が倉田百三である。倉田は「出家とその弟子」を書いた作家である。倉田は広島生まれで、第一高等学校に進む。同級生には芥川龍之介・菊池寛などがいた。倉田は一高在学中から論文をいろいろと書いた。倉田が21歳から29歳まで書いた論文をまとめたのが「愛と認識との出発」である。

 「愛と認識との出発」は1921(大正10)年に岩波書店から刊行されるや、その年に何十版も版を重ねたちまちベストセラーになった。以後、若い人たち特に一高生に一番愛読された本である。
 「愛と認識との出発」はまさに若い知的エリートたちに読まれるべくして読まれた本といえる。この本に載っている論文の内容は宗教・文学・恋愛・哲学・生き方など多岐に渡っており、すべて倉田が悩んだ末に書かれたものだとわかる。若い知的エリートならどこかで共感するはずだ。
 現在、ある程度年をとった知識人といわれている人たちに最もよく読まれているのが西田幾多郎の「善の研究」であるらしい。この日本で初めてといわれる西洋哲学書は刊行されてもあまり人の関心を誘わなかった。この本を真っ先に評価したのが倉田である。「愛と認識の出発」の中でも倉田はかなりの量を割いて「善の研究」に言及している。倉田はよほど西田のことが好きだったのだろう。

<個人あって経験あるにあらず、経験あって個人ありうのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考から独我論を脱することが出来た。>

と記している。実際に倉田は西田を訪れた。
 若い人たちが悩むのは当たり前のことである。特に知的な若い人たちが最も悩むのは性の問題である。「愛と認識との出発」の中でも倉田は性の問題についてある意味支離滅裂な論理でもって論じている。人生を長く経験した人が読めば、滑稽さを感じる部分もあるが倉田が真摯に性について悩んでいたのがわかる。
 倉田は病弱で、それが原因で一高を中退した。その後療養生活にはいる。好きな女性から絶縁状をもらったこともある。倉田は現実的に悩みの多き生活を送ったのである。
 「愛と認識との出発」の中にはいろいろな人物の名前がでてくる。その中で繰り返しでてくるのがドストエフスキー・トルストイ・キリスト・親鸞である。倉田はこの4人を悩み抜いた末に救いの光を見出した人間とみているようだ。倉田がドストエフスキー・トルストイの作品や聖書そして「歎異抄」を繰り返し読んでいるのがよくわかる。

 「愛と認識との出発」は難解なところもあるが、倉田が真剣に人生に悩んおり、そして倉田がやさしく愛のある人であることがよくわかる。

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アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」を読む

品川宿土蔵相模 幕末から明治維新にかけての動乱をつぶさに見た外国人といえば私は躊躇なくアーネスト・サトウをあげる。アーネスト・サトウは日系人みたいな名前であるが生粋のイギリス人であり外交官である。その仕事は主に通訳であった。サトウは若くして日本に来て、必死の思いで日本語を習得し、日本との交渉の際には通訳官として席についた。サトウは歴史が大きく変わっていくのをその目で確かに見た生き証人であった。

 「一外交官の見た明治維新」はアーネスト・サトウが1862(文久2)年に江戸に来て、1869(明治2)年にイギリスに帰国するまでの回想録である。一読して、この回想録が超一級資料であることがわかる。
 また、この回想録を読んで、私は一つの謎が解けた思いがした。その謎とは1902年に結んだ日英同盟のことである。日英同盟はイギリスにとって初めての同盟条約である。当時の世界の超大国のイギリスが何故アジアの新興の小国と対等の同盟関係を結んだのか。歴史の教科書にはロシアの南下政策に対して2国の利害が一致したと書かれているが、それはあくまで表面的なことでその理由の淵源は意外にも幕末・明治維新のときのイギリスと日本との交友があったからではないかとこの回想録は示唆してくれる。実際、イギリスは清とは同盟関係どころか半ば植民地化している。イギリスは過去の経験から日本を同盟国にするにふさわしい国だと評価していたのであろう。イギリスのトップ層にそう評価させるに「一外交官の見た明治維新」は大きな役割を果たしたと思う。
 それにしてもこの回想録に書かれたサトウの体験談はそれが真実である故にその体験はそのまま歴史的事実になっている。
 1862年から1869年は幕末・明治維新の中心になる時期である。外交政策で見ると、狂気といえるような攘夷行動から180度転回した開国政策へと移っていく時期でもある。サトウが日本に来た当初、彼ら外国人を悩ませたのが外国人に対するテロであった。血気盛んな攘夷思想の人間が見境なく外国人を襲ったのである。たくさんの外国人が殺された。サトウも何回か災難に会いそうになった。
 この回想録には攘夷思想と外国との衝突による顕著な戦争すなわち、生麦事件から派生した薩英戦争と長州と四国連合艦隊の戦争のことが事細かく記述されている。この2つの戦争の結果は薩摩・長州の外交政策を劇的に変化せしめ、そしてその2藩を倒幕へと向かわせた。
 サトウは当時の日本を代表する指導者(すなわち歴史上有名な人たち)たちと頻繁に会見している。明治天皇を始めとした西郷隆盛・大久保利通・木戸孝允・伊藤俊輔らの薩長の要人たちだけでなく、彼らと対峙する幕府の徳川慶喜・勝海舟とも会見している。特に勝海舟との会見の記述は興味深い。勝は幕府の情報を惜しげもなくサトウに流している。それは幕府を支援しようとするフランスに対する牽制であったことがよくわかる。勝はそれぞれ外国を後ろ盾にした官軍と幕府との内乱を極度に恐れていた。イギリスはそのことを重々承知していた。イギリスは万国公法を遵守しつねに中立を守った。そして他の外国も英国に倣って中立を守ったのである。この外国の中立は勝だけでなく、他の指導者たちが何よりも望んだことである。幕末・明治維新を通して日本が独立国として世界に認知されたのは、欧米の中立政策が大きな要因であったことは疑いない。そのために勝・西郷らは獅子奮迅の働きをしたのである。

 私はこの回想録を読んで、イギリスの外交官たちが日本を遅れているが民度の高い国だと評価しているのに気付いた。イギリス人にとって日本人は礼儀正しくそして信用できる民族と写ったのであろう。イギリス人は日本人を紳士と認めたのかもしれない。
 サトウが日本にいたのは約7年であるが、サトウは日本を第二の故郷のように見ているのがわかる。この回想録の最後、サトウがイギリス本国に帰るとき、船の中で、横浜の港が遠ざかっていくのを見て涙を流す記述がある。サトウの青春はある意味日本で完全燃焼されたのかもしれない。
 「一外交官の見た明治維新」は幕末・明治維新において外国とりわけイギリスの役割がいかに大きな意味をもっていたかを再認識させてくれる最高の回想録である。歴史好きにはたまらない書でもある。

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洗足池にある勝海舟の墓所 写真上は、品川宿にあった旅籠土蔵相模跡の案内板です。1862(文久2)年品川御殿山への英国公使館建設に際して攘夷論者高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)らは、この土蔵相模で密議をこらし同年12月夜半に焼き討ち実行しました。この事件はアーネスト・サトウにとって衝撃でした。幕府と交渉を重ねた結果、この地にようやく公使館建設が認められたからです。御殿山はもともとさくらの名所でこんもりとした山でした。外国船が江戸湾に姿を見せたために御殿山を削り品川沖を埋め立てて台場にしました。
 写真下は、東京都大田区洗足池の畔にある勝海舟夫妻の墓所です。この墓所をお参りして感じたことは、公園の中に墓があり、墓の周りには囲いがなく掃除が行き届いていることでした。公園の中では幼い子供が楽しそうに遊んでいる姿が目につきました。これぞ勝海舟の真骨頂だと思いました。アーネスト・サトウも洗足池にあった茶屋に散歩で訪れていたことが作品に記されています。茶屋には若い女性がいました。
 洗足池の名前の由来は、1282(弘安5)年に日蓮に帰依していた池上宗仲(池上本門寺)を訪れる前に、千束池の畔で休息して僧の松に袈裟をかけ池の水で足を洗ったと伝えられています。

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