渡辺淳一「花埋(はなうず)み」を読む

東京都雑司ヶ谷霊園に眠る荻野吟子女史 渡辺淳一の「花埋み」は感動的な小説である。この小説は日本で最初の女医になった荻野吟子(ぎんこ)の生涯を描いたものである。
 現代では女性が医者になることに何の支障もないが、荻野が育った時代には女医になることは制度的そして因襲的に不可能であった。誰もが女性が医者になるとは思っていなかったのである。
 最初の女医と書いたが、国が認めた最初の女性の医者という意味である。幕末から明治にかけてオランダおいねと呼ばれたシーボルトの娘お稲は医者として活動していたが、国が認めた正式な医者ではなかった。
 実は、正式に国が医者を医者として認めたのは明治からであった。前時代の江戸時代までは誰でもが医者になれた。明治の世になっても医者は引き続き医者でいられたが、明治政府は国の体制を形作っていく中で、医者の制度も充実させていった。まず医者になるためには、西洋医学を学び、医術開業試験(今の医師国家試験みたいなもの)に合格しなければならないものとした。この試験を免除されるのは森鴎外のように官立の医学校を卒業するか、公立の医学専門学校か外国の大学の医学部を卒業することが必要であった。それ以外の人は私学の医学塾で医学の勉強をして、試験に合格しなければならなかったのである。 荻野が医者を志したときは、医術開業試験どころか、医学を勉強する教育機関すべてが女性を門前払いにしていた。女性が医者になる道はなかったといってもよい。それでも荻野は医者になろうとした。なぜ、荻野は医者を目指したのか。

 荻野吟子は1851(嘉永4)年に北埼玉で生まれた。荻野家は名主を勤める名家であった。吟子は2男5女の末っ子で、16歳のときに豪農の稲村家へと嫁ぐ。しかし、結婚してまもなくして吟子は実家へと戻ってきた。吟子は病気にかかったのである。その病気とは今でいう淋病であり、夫からうつされたものであった。
 吟子は結局離婚をして、病気の治療のために東京に行った。西洋医学の病院として名高い順天堂病院を訪れた。そこで、吟子は屈辱的な体験をした。診察台に寝かされた吟子は若い医師たちに無理やり膝を開かせられ、局部を露出して検診を受けたのである。
 当時の医学は漢方医学が主で、漢方医学では患部を直接見ることはなく薬だけで治療をしていた。西洋医学では当然直接患部を見る。
 吟子は診察されているとき、医者が女性であったらどれだけ気が楽であろうかと思い、医者になることを決心する。
 それからの吟子は想像を超えた努力と忍耐とで見事医者になった。
 吟子は女子師範学校(現在の御茶ノ水女子大)の第1期生である。吟子はこの学校を卒業すると男子禁門の私立の医学塾に入学し、そして卒業すると官僚を動かして医術開業試験の受験を可能にしてもらった。
 吟子が医者になるにおいて、吟子の行く手を阻むものはやはり世の中の偏見であった。女性は家庭にいて、子供を生み育てることに専念し、仕事を持つなどもってのほかであるというのが世の女性を見る目であった。まして医者という地位の高いものに女性がなるとはほとんどの人が思ってもみないことであった。
 荻野吟子の功績は国の制度を変え、そして世間の女性の見方を変えたことであろう。
 医者になった吟子はだんだんと社会の矛盾に悩んでいき、キリスト教の洗礼を受けた。吟子は社会運動家としても活躍する。39歳のとき13歳年下の同志社出身の青年と結婚し、2人で理想を追い求めて北海道に移住する。しかし夢破れて夫は北海道の地で死に、吟子は再び東京に舞い戻り、1913(大正2)年、養女だけに看取られて寂しく死んでいった。吟子の結婚生活は決して幸福なものとはいえなかったかもしれない。

 「花埋み」には、明治時代の医学・教育・政治・風俗の状況がよく調べられて書かれている。また、吟子の内面もうまく描かれ、吟子の怨念みたいなものが強く感じられる。人間の魂の奥底を覗く思いがする。
 「花埋み」は荻野吟子という偉大なる医者そして荻野吟子という女性を描いた名作であり、そして名著である。

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 写真は、東京都豊島区雑司ヶ谷にある荻野吟子墓所です。

花埋み (集英社文庫)花埋み (集英社文庫)
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渡辺 淳一

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松尾龍之介「長崎蘭学の巨人─志筑忠雄とその時代」を読む

 江戸時代の数学を和算という。和算の大家としては関孝和が有名である。和算はある意味高度に発展してその計算技術はある分野において西洋の数学をはるかに超えていた。円周率の値も小数点以下50位ぐらいまで求められている。
 和算の内容は現代の数学でいうと、方程式・数列・行列・微分積分などである。また、和算は天文学にも利用され、日食が起こる日付けを正確に割り出した。幕府の天文方にはたくさんの和算家が勤務していた。
 和算の計算技術は深くなったが、時代が江戸から明治になるとともに和算は廃れていった。西洋数学に駆逐されたといってよい。
 では、なぜ和算はなくなる運命にあったのであろうか。その1つの理由が、西洋数学が原理・原則を深く追求し、その思考過程を論理的に体系化したのに対し、和算がただ計算の技術のみを追求したことである。もっというと、西洋数学にはそれを支える哲学が存在したが、和算にはなかった。あったとしてもそれは自然哲学とはほど遠い朱子学の観念的な教えである。和算は単なる芸にすぎなかった面もある。
 自然を解明するためにはそれなりの哲学が必要である。その哲学がない日本の江戸時代には当然のごとく物理学という学問も存在しなかった。窮理とか格物致知とかいわれるものがあったが、物理学とはほど遠いものである。西洋ではガリレオ・ニュートンなどによって自然哲学が構築され、それを土台として物理学が飛躍的に進歩した。
 日本の江戸時代には幕末を除いて物理学者はいなかったし、まして近代科学の精神である自然哲学を理解している人はいなかったと少なくとも私は思っていた。

 松尾龍之介著「長崎蘭学の巨人─志筑忠雄とその時代」<弦書房>は衝撃的な本である。この本を読んで、日本に志筑忠雄みたいに近代科学の精神を理解している人間がいたことに正直私は驚いた。志筑みたいな人間が志筑が生きた18世紀後半から19世紀初めにかけているはずがないと私は思っていたからだ。
 この本には第1章から衝撃的な内容がのっている。志筑は何と真空を作り出す実験をやっているのである。歴史上、真空を人工的に作り出すのはトリチェリーの実験が最初だといわれているが、志筑はこのトリチェリーの実験を行っていたのである。
 実験用の器具をそろえる困難さよりも、私は志筑が真空という概念を知っていたことに驚愕した。その少し前まで、西洋でも真空というものはよく理解されていなかった。長らく西洋の自然観はアリストテレスの自然観に支配されており、アリストテレスはこの世に真空なるものは存在しないとしていたからである。まして、日本において真空の概念があろうはずがなかった。
 この本は副タイトルが示すように志筑忠雄というオランダ通詞について書かれたものである。志筑は中野氏の出で、オランダ通詞の志筑家の養子となった。幼名を忠次郎といった。1760(宝暦10)年生まれで、1806(文化3)年に没している。
 志筑は単なるオランダ通詞ではなかった。蘭書とくに自然科学系統のものを多く訳している。志筑はそれらの蘭書を通して、西洋で湧き起こりつつある近代科学の精神を習得しはじめた。おそらく志筑は近代科学の精神を吸収した初めての日本人ではなかろうか。
 志筑は空飛ぶ船すなわち飛行船に非常なる興味をもっていた。志筑は飛行船の気球の中は真空で、そのため浮力が働いて飛行船が空を飛ぶのではないかと推論する。
 志筑は蘭書を訳すにあたって、現代でもよく使われる日本語を創った。引力・重力・浮力・求心力・速力・動力・加速などの物理学用語のほかに、地動説・天動説・真空・楕円・衛星のような天文学の用語は志筑が創った言葉である。また、志筑は自然科学関係だけでなく、歴史・オランダ語の文法関係の蘭書も訳している。鎖国・形容詞・副詞・直接法・不定法などの言葉も志筑の創作である。
 物理学・文法において、私たちは知らずしらず志筑の恩恵を蒙っていたのである。

 志筑はやはりこの本のタイトルが示すように巨人であったのだろう。志筑だからこそニュートンの万有引力にせよ、地動説にせよ深く興味をもったともいえる。
 とにかく、「長崎蘭学の巨人─志筑忠雄とその時代」は、志筑忠雄という江戸時代いや日本の歴史上稀にみる大天才の残した業績を十分に堪能させてくれる。たいへんおもしろくそして教養を深めてくれる本でもある。

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長崎蘭学の巨人―志筑忠雄とその時代長崎蘭学の巨人―志筑忠雄とその時代
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松尾 龍之介
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宮田親平「『科学者の楽園』をつくった男」を読む

 横光利一に「微笑」という作品がある。天才少年が新兵器を発明して日本を救ってくれるという話で、その天才少年の笑顔が何とも優雅で可愛いというものである。この天才少年のモデルが科学者の仁科芳雄であったらしい。もちろん「微笑」が書かれたときには仁科は少年ではなかったが、仁科も温和なすばらしい笑顔の持ち主であったらしい。 仁科は優秀な物理学者で、原子の世界を追及する量子力学を専門にしていた。仁科がある意味不幸なのは、戦後仁科の名が有名になった理由が彼が戦争中原爆の研究をしていたということだからだ。原爆の研究はむろん仁科の意志で行われたものではなく、陸軍の要請によって行われた。
 太平洋戦争も敗色濃厚になった頃、日本の指導者である軍部は原爆を作ることを決定した。陸軍は理化学研究所に研究するよう命令した。その研究は仁科をトップとする仁科研究室で行われた。
 理化学研究所のイメージが暗いのはこの研究所が軍部の要請によって軍需研究を行ったからである。理化学研究所は戦後GHQに解体され、新しく組織された。それにともない、研究所は駒込から埼玉県に移された。
 もちろん理化学研究所は軍部のために存在したのではなく、純粋に物理・化学の基礎研究をする研究所であった。科学者にとっては楽園のような研究所であった。

 宮田親平著「『科学者の楽園』をつくった男」<日経ビジネス文庫>は理化学研究所について余すところなく深くかつわかりやすく書かれた名著である。
 理化学研究所は国民科学研究所として大正の中頃に創立された。創立にあたっては日本の近代科学の素地を築いた大物科学者、すなわち化学者の池田菊苗、高峰譲吉、物理学者の長岡半太郎などが運動した。また、財界では渋沢栄一・益田孝、政界では大隈重信がバックアップした。
 理化学研究所を創立するにあたっての理念は、日本の科学技術を欧米のものまねから脱却させることであった。明治の科学技術はほとんどが欧米のものまねであった。当然のごとく日本では基礎研究が行われず、新しい科学技術を創造することは不可能であった。理化学研究所は国と財界からの援助金によって運営されることになった。だが、その援助金だけでは研究所を維持していくのは困難を極めた。
 理化学研究所が大きく飛躍をするのは、大河内正敏が所長になってからである。大河内は東京帝大教授で貴族院議員でもあった。大河内は気品があり、そして繊細で大胆な人であった。根っからのリーダータイプの親分肌であったのだ。大河内は理化学研究所を研究員たちにとっての楽園にしたのである。
 研究所の研究員たちは自由に自分のしたい研究ができた。物理専門の人が化学の研究をしてもよいし、化学専門の人が物理の研究をしてもよかった。研究費は必要なだけ使えた。ただし、研究は独創的なものでなければならなかった。
 研究所を楽園にするには資金が必要であった。大河内は研究者が研究した成果を商品化し、それを市場に流すことで研究所に利益をもたらしたのである。大河内は単なる研究者でなく、研究・生産・販売・管理をトータル的にマネイジメントできるプロデューサーであったのだ。
 理化学研究所は回りにたくさんの会社を作り、理化学研究所はグループとして巨大になった。いわゆる産学複合体として急成長したのである。
 理化学研究所とは日本を代表する偉大な科学者たちが多数関係をもった。その筆頭が仁科芳雄・朝永振一郎・湯川秀樹の量子力学グループであり、他に、長岡半太郎・鈴木梅太郎・寺田寅彦などもいる。総理大臣であった田中角栄も理化学研究所とは深い関係があった。

 理化学研究所を抜きに日本の科学の進歩を鑑(かんが)みることはできないのである。

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「科学者の楽園」をつくった男―大河内正敏と理化学研究所 (日経ビジネス人文庫)「科学者の楽園」をつくった男―大河内正敏と理化学研究所 (日経ビジネス人文庫)
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