吉永良正「数学・まだこんなことがわからない」を読む

 ピタゴラスの時代から数学者を惹き付けてやまなかったのが素数である。ピタゴラス派の人にとって素数は神秘的な数で非常に敬った。素数はたいへんなじみやすい数であるが、素数の世界は深くそして広い。素数については未だにわからないことがたくさんある。 素数は2、3、5、7、------のように1と自分自身以外に約数をもたない数である。素数はたくさんあるが、はたして素数の数は有限なのか無限なのか。答は無限である。これは高校生でも証明できる。素数は無限に大きくなるが、実際に知られている素数には限界がある。次から次へと素数を作りだすことは至難の技である。新しい素数の発見はコンピュータの進歩に委ねられているのかもしれない。
 オイラー・ガウスという超偉大な数学者たちも素数にはそれなりに興味を示しその研究をしているが、適当なところで打ち上げている感じがする。へたに素数の世界に足を踏み入れたら迷路に陥り出てこられないとでも思ったのかもしれない。素数とかフェルマーの大定理などに真剣に関わったら彼らの業績はかなり減ったのではなかろうか。それでもガウスは素数に関して現代でも通用する定理を提示している。素数の数に関するもので、この定理をみるとガウスの天才性が偲ばれる。
 素数は現代でもどのような順序で並んでいるかはわからない。素数だけでなく高度に発達した現代の数学をもってしてもわからない問題はたくさんある。

 吉永良正著「数学・まだこんなことがわからない」<講談社ブルーバックス>は興味深い本である。現代数学が直面している未解決な難問、そして現代数学が挑戦している超難問の代数幾何の問題などについて、それらの問題を解くことの意義そして問題そのものの意味をかなりわかりやすく解説をしてくれている。それでもかなり難解ではあるが。
 この本は1990年に出版され、その時点での有名な未解決問題を扱っているが、それから20年近くたち、その間に解決された問題もある。それはフェルマーの大定理とポアンカレ予想である。フェルマーの大定理は17世紀半ばにフェルマーによって提示された問題で、以後350年の間無数の数学者たちが証明に挑んだ。1994年ワイルズによって証明された。ポアンカレ予想は2003年にロシアの数学者ベレルマンによって証明されている。この2つの問題が証明されたことを知っていても「数学・まだこんなことがわからない」はおもしろい。
 2009年の現在でも未解決な問題は多く、その代表的なものが完全数についてのものと素数に関するものである。素数に関しての未解決な問題はいくつかあるが、中でもとりわけ有名で非常に重要な問題がリーマン予想といわれているものである。
<ゼータ関数において自明でない零点の実数部分は1/2である>
というのがリーマン予想である。ゼータ関数というのは次のような関数である。
ゼータ関数
 sを複素数にまで拡張したとき、(A)の式が0になる複素数sの実数部分がつねに1/2になるというのがリーマン予想である。この予想はたいへん重要でこの予想が証明されると素数の構造が解明され、さらには宇宙の仕組みまでわかるようになるといわれている。リーマンとはリーマン積分でおなじみのドイツの天才数学者である。リーマンがリーマン予想を提示して150年近くたつが未だに未解決のままである。リーマン予想は素数定理から導きだされたものらしい。
 「数学・まだこんなことがわからない」は3つの章からなっていて3章は森理論について解説されている。日本には数学のノーベル賞といわれているフィールズ賞を受賞した数学者が3人おり、森重文は3人目の受賞者である。森の他に、小平邦彦・広中平祐が受賞している。森は広中の後輩で広中と同じ代数幾何の専門家である。
 森は「3次元代数多様体の極小モデルの存在証明」でフィールズ賞を受賞している。たいへん難しい理論であるが、その理論の雰囲気だけはわかるようにしてくれている。天才数学者たちの住む世界を垣間見た気がする。
 
 なぜ数学者は我を忘れて問題に熱中するのか。そこに解けない難問があるからである。数多くの天才といわれている数学者たちが難問に挑み、そして問題を解く過程で新しい概念を構築し、数学はさらに進歩してきたのである。神は無秩序にこの世を作ったのではないことを数学者たちは証明しようとしているのかもしれない。
 「数学・まだこんなことがわからない」は高校生でも読めるように配慮されている。リーマン予想をいつの日か日本人数学者の手で証明されることを私は強く期待している。

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新装版 数学・まだこんなことがわからない (ブルーバックス)新装版 数学・まだこんなことがわからない (ブルーバックス)
(2004/09/22)
吉永 良正

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山嶋哲盛「日本科学の先駆者高峰譲吉」を読む

 夏目漱石の「吾輩は猫である」の主人公の猫が住む家の主人の苦沙弥先生は胃腸の調子が悪い。そのためいつも食事の後は消化薬が欠かせない。苦沙弥先生がいつも愛用している消化薬はタカジアスターゼであった。この薬はたいへん人気があった。
 タカジアスターゼの初めの2文字のタカは高峰の高からとったものだといわれている。タカジアスターゼは高峰譲吉によって開発されたものだからである。
 高峰譲吉については名前ぐらいは知っている人はかなりいるかも知れないが、彼の経歴を知る人は少ないのではなかろうか。なぜなら高峰譲吉は教科書では教えられない人だからである。野口英世に較べるとはるかに認知度は劣る。ところが高峰は野口英世に劣らずもしかしたらそれ以上に世界そして日本に恩恵を与えた人である。なぜ私たちは高峰のことを教えられてこなかったのであろうか。不思議なことである。
 山嶋哲盛著「日本科学の先駆者高峰譲吉」<岩波ジュニア新書>は高峰の生涯とその業績を詳しく辿った名著である。私はこの本を読んで、高峰譲吉が思っていた以上に偉大な人物であることに驚きそして感動した。夢とロマンをもち、かつ崇高な使命を背負い続けそして大成功をおさめた高峰の人生はやはりサクセスストーリーであり、賞賛に値するものであったといえる。
 それにしても高峰はすごい人である。日本が生んだ科学者と実業家の才能を持ち合わせた稀有の世界的な人物であった。

 高峰譲吉は1854(安政元)年に加賀で生まれた。父親は加賀藩の御典医であった。高峰少年は父親から英才教育を受け、回りのものからは将来は父親の跡を継ぎ医者になるものと思われていた。だが、高峰は当時学問と認められ始めた舎密(せいみ、化学のこと)の研究を生涯の仕事にしようと決心する。
 明治になると、高峰は工部省管轄の工部大学校に入学する。この学校は全国から秀才を集めた。生徒の学費・生活費はすべて官費で賄われた。高峰はこの学校で本格的に化学の勉強をする。
 大学を卒業すると高峰はイギリスに留学し研究所にはいり化学をより深く研究した。イギリスから帰国すると、農商務省に勤務した。いわゆるエリート官僚になったのである。しかし、何年かエリート官僚として勤務したあと高峰は安定した道を捨てて実業の世界に飛び込んだ。
 役人をやめた高峰は渋沢栄一・益田孝などの財界の大物たちの支持を受け東京人造肥料会社を立ち上げる。忍耐と努力の結果、高峰はその会社の経営を軌道に乗せた。高峰の夢はさらに膨らみ、東京人造肥料会社の仕事に区切りをつけ、高峰はアメリカへと向かった。彼は1人ではなかった。高峰はキャロラインというアメリカの南部の娘と結婚していたのである。
 アメリカに渡った高峰は病気で死ぬような目にあうまで骨身を削って仕事に没頭した。頭をフル回転して斬新な研究成果をあげた。そして紆余曲折しながらタカジアスターゼの開発そしてアドレナリンの結晶化に成功した。アドレナリンとは副腎エキスに含まれる有効成分で止血作用があり手術に際しては必要不可欠なものである。アドレナリンによって多くの患者の命を助けることができた。
 巨万の富を得た高峰が次に目指したのは財力・人脈を使って日米関係を強固かつ友好なものにすることであった。アメリカで成功し、アメリカに30年以上も住みそしてニューヨークに豪邸を構えていても、高峰の体の中にはサムライの血が流れていた。高峰はつねに祖国日本のことに思いを馳せていた。自分の成功は日本のおかげだと心底から日本に感謝していた。
 高峰は日露戦争以後、アメリカが日本に対して冷たくなっていくのを肌で感じていた。特に対日移民法に対しては胸を痛めていた。高峰は日米友好の橋渡しになるべく粉骨砕身しそして東奔西走した。その結果心臓を悪化させた。
 高峰の残した有形・無形の資産は計り知れない。実際死んだとき残した財産が現在の価値にして6兆円もあったという。アドレナリンは現在も使用されておりこれまで数えられないくらいの病人を助けてきた。あの製薬会社の最大手の三共株式会社も高峰の残したものといってもよい。

 現在、化学が直面している問題は山のようにある。しかしどんな難問でも人類はそれを解決してきた。高峰譲吉は先頭になって問題を解決してきた人である。ぜひとも高峰のような人間が21世紀の日本に現れてほしいものである。

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日本科学の先駆者 高峰譲吉―アドレナリン発見物語 (岩波ジュニア新書)日本科学の先駆者 高峰譲吉―アドレナリン発見物語 (岩波ジュニア新書)
(2001/06)
山嶋 哲盛

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小林一三「私の行き方」を読む

帝国劇場に建っている小林一三像 世の中で大成功、それも歴史に名を残すような成功をおさめる人というのは一般の人とどこが違うのか。誰もが知りたいことである。そのため書店には成功をするためのノウハウ本がたくさん並ぶことになる。ところがほとんどの本は泡沫のように消えて長く読まれることはない。やはり成功するためのしっかりした法則なるものは存在しないのであろうか。
 しかし、例外は存在するものである。小林一三の「私の行き方」は昭和10年に出版されてから現在まで読み継がれている。この本は成功するための指南書の一面ももっている。まさに名著である。
 小林は歴史に名を残した大実業家である。阪急電鉄・阪急百貨店・宝塚歌劇・東宝映画などは小林が創ったのである。小林の残したものは有形のものだけでなく、無形のものもある。その1つが私鉄のあるべき経営形態を考え出したことであろう。
 私鉄は鉄道会社であるから鉄道を運営するのが主なる仕事である。小林は毎日乗降するお客の人数を鑑み、梅田の駅に百貨店を作った。また、小林は田舎に鉄道を敷くことで新しい町をつくり、人を移動さした。新しい町は新しい文化を育んだ。宝塚は単なる田舎であったが小林はここに鉄道を敷き、温泉を開発し、そして宝塚劇場をつくったりして宝塚を一大リゾート地にしてしまった。こうして新しい田園都市が次々と私鉄に沿って誕生していったのである。
 私鉄のターミナル駅に百貨店を作り、私鉄沿線を開発して新しく田園都市を作っていくという方式が私鉄事業の基本方式となった。関東の東急電鉄・西武鉄道もこの小林方式で戦後急拡大していくのである。
 小林が起こした事業の中で圧巻なのが宝塚歌劇であろう。小林は手ごろな価格で庶民に文化を提供するという理念で、山師しかやらないといわれた演劇事業を近代化し見事に成功さした。また、小林は東京電力の前身の会社の社長も勤めている。
 このように小林の残した有形・無形の資産は途方もなく大きく、私たち日本人のほとんどが多かれ少なかれ小林の残した資産の恩恵を蒙っているのである。
 
「私の行き方」は小林が昭和10年に自分の人生を振り返って思うことを述べた本である。発売と同時に大ベストセラーになったという。
 さぞ、成功するための奥義が書いているのであろうと期待して読むと、意外にも平凡なことが書いてある。それらの言葉をいくつかひろってみる。

<今日の社会ではなかなか成功が出来ないと聞くが、成功の道がないとは思われない。たとえ無一文でも、事業でも何でも出来る>
<世の中はよく不公平だというけれど、存外公平である。良い人はどんどん引き上げられる>
<社会生活で成功するには、その道でエキスパートになることだ>
<人より三十分早く出勤せよ>

 これらの言葉を聞いていると、平凡に聞こえるが、よくよく聞いてみるに含蓄のある言葉であると気付かされる。
 小林はサラリーマンから経営者になった人である。小林は自ら自分は運がよかったといっている。小林が阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道株式会社の社長をまかされたのも運であった。だが、小林はこの運を逃さなかった。小林は用意周到に計算し、いろいろな戦略を練ったあげく、鉄道事業を成功させ、そして百貨店事業などを次々と成功させていく。
 小林の行き方を見ているとやはり基礎研究が大事なことがよくわかる。小林は新しい事業をやるときにはそれなりの時間をかけてじっくりと研究している。短兵急に事にあたることはなかった。

 考えてみるに、小林だけ運が特別について廻ったわけではないだろう。小林のすごいところは運をうまく生かしたことだろう。畢竟(ひっきょう)成功するためのコツは運を生かせるかどうかであろう。運は小林のいうように案外平等に神様は振り分けてくれるものである。運をものにできるかどうかが肝心なので、それが可能かはやはり普段の心がけが大事と小林は力説しているのである。<人より三十分早く出勤せよ>には小林の仕事に対する思いが凝縮されているのを感じる。
 「私の行き方」は自伝めいた要素もあり、たいへんおもしろく読める。この本は今から70年以上も前に書かれたものであるが、新鮮である。本質をついたものは腐ることなく生き続けるということであろう。それはビジネスの世界も同じで小林の残した事業が現在も生き続けているのは、事業を通して人を幸せにするという商売の本質をついているからであろう。
 「私の行き方」はぜひとも若い人に読んでほしい本である。

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渋谷駅に展示している懐かしい東急車輛 NHK の番組「鉄道から見える日本」の中で、解説者の原武史氏が、小林一三が作詞した「箕面有馬電車唱歌」の一番の歌詞を紹介していました。

東風(こち)ふく春に魁(さきが)けて
開く梅田の東口
往来(いきか)ふ汽車のを下に見て
北野に渡る跨線橋(こせんきょう)

「往来(いきか)ふ汽車のを下に見て」とは国鉄の東海道本線の上を私鉄が走るという意味で、当時としては画期的でした。ここに小林一三の真髄が現れていると解説者は述べていました。
 写真上は帝国劇場に建っている小林一三像です。東京では阪急を思い浮かべるのはデパートと劇場です。写真下は渋谷駅に展示している懐かしい東急車両です。東急創業者五島慶太は自叙伝「七十年の人生」の中で「終始一貫自分が知恵を借りて自分の決心を固めたものは小林一三だ」と回想しています。筆者は半世紀に渡って東急沿線に住んでいます。その間、東急沿線はどんどん拡がり、始めは4両編成だった車両が8両、10両、12両と長くなっています。



日比谷の東宝の前に建っているゴジラ像

日比谷 東京宝塚劇場

 写真上は、東京日比谷にある東宝の前に建っているゴジラ像です。写真下はゴジラ像からすぐ傍にある東京宝塚劇場です。

私の行き方 阪急電鉄、宝塚歌劇を創った男 (PHP文庫)私の行き方 阪急電鉄、宝塚歌劇を創った男 (PHP文庫)
(2006/09/02)
小林 一三

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