イ サンクム「半分のふるさと」を読む

 劇作家のつかこうへいが亡くなった。「熱海殺人事件」を読んだときの感動はいまだに忘れられない。
 つかこうへいは遺書を残した。それには葬儀一切せず、時期をみて骨は韓国と日本の間の対馬海峡に散骨してくれというものであった。私はつかこうへいが在日韓国人であったことを思いだした。
 つかこうへいのように功成り名を遂げた人でも在日韓国人としてのこだわりはあったのであろうか。私は日本で生まれ、日本で育ち、日本語を話し、日本の文化伝統を理解している人は日本人だと思っている。そのような意味において私は在日といわれる人たちは日本人だと思っていたのだが、それはあくまでも日本人の論理かもしれない。在日の人たちは日本人であると同時に、祖国はやはり朝鮮半島であるに違いない。2つの祖国をもつ人たちなのであろう。

 イ サンクム著「半分のふるさと」(福音館)を読んで、私は在日の人たちの複雑な胸の内を垣間見た気がした。
 著者のイ サンクムは昭和5年に広島県に生まれた朝鮮人を両親にもつ在日朝鮮人の女性であり、終戦直後まで日本にいて、それから祖国韓国へと帰国した。生まれてから15年間日本人として日本で過ごしたことになる。
 「半分のふるさと」は物心がついてから韓国に帰国するまでのことを綴った回想記である。当初、私はこの本を読むのに抵抗感があった。おそらく日本の悪逆非道をあげつらった内容ではないかと思ったからだ。ところが読み始めて、私の予想はいい意味で裏切られた。日本人が在日朝鮮人に対して理不尽なことをしたことは書かれているが、著者が日本のことを深く愛していることが読み取れたからである。タイトルが示すように彼女にとっては日本は半分のふるさとであった。愛情を込めて彼女は戦前の日本の生活を思い起こしている。
 著者の名前は漢字で書くと季相琴で、日本名は金村ヒロ子である。おそらく当時の朝鮮人にとって一番屈辱的だったのは創氏改名ではなかったろうか。私は強制的な創氏改名によって著者の一家が日本名をもたなければならなくなったくだりを読んだとき、ドーデの「最後の授業」を思いだした。この小説は普仏戦争でドイツに敗れたフランスのある地方で、フランス語の使用が禁じられ、代わりにドイツ語の使用が強制されたときのことを扱っている。愛する母国語を失うフランス人の悲しみが見事に描かれている。
 創氏改名は母国語を失うことと同じくらいの悲しみであろう。朝鮮人は名前を非常に大切にする。その名前を奪い取って日本名をつけさせることは、彼らから伝統ないし朝鮮そのものを奪うに等しかったに違いない。この一事をみても日本が朝鮮人に対して行った仕打ちは非道であったといわれても否定できない。
 それでも「半分のふるさと」を読むと、名前を奪われても朝鮮人としての魂は奪われていないことがわかる。特に、著者の母親はすばらしい人であった。日本人にどれだけ苛められても朝鮮人としての誇りを失うことはなかった。おそらく韓国がめざましく発展したのも著者の母親のような人がたくさんいたからであろう。

 戦前・戦後を通じて在日朝鮮人そして在日韓国人について語るには非常なデリケートな問題が含まれていることは確かである。だが、私たち日本人が朝鮮半島の人たちにこの近代において何をしてきたのかを知ることと同時に彼らがどのように日本に対し思っているかを知ることは重要なことである。
 「半分のふるさと」は日本そして韓国を強く結びつける本である。私はこの本を読んで日本と韓国は切っても切れない親戚同士のような国であると正直感じた。

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半分のふるさと―私が日本にいたときのこと半分のふるさと―私が日本にいたときのこと
(1993/05/01)
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マイケル・サンデル『これからの「正義」の話をしよう』を読む

 論理的に話しているのだが説得力のない議論というものが存在する。私はこれを勝手に不毛な議論と呼んでいる。特に、政治家とか経済評論家といわれる人たちがやる議論にこの不毛な議論が多い。
 なぜ論理的に話していても説得力がないのか。それは、議論の前提というか土台となる哲学が曖昧だからであろう。哲学が曖昧なのだからいかに論理的であっても議論がかみ合うことはないのである。1つの例をあげてみると、市場経済に対する見方だ。
 新自由主義者といわれている人たちは規制をできるだけ撤廃し政府の関与を極力少なくして、もっと自由にビジネスのできる環境を作るべきだと主張する。これに対して、自由が増すと格差が広がり不平等な社会になるから新自由主義者の意見はおかしいという立場の人がいる。
 新自由主義者の理論は、自由になればなるほど社会が豊かになるというものだ。その代わり富める者と貧しい者との格差がはげしくなり不平等になる。豊かさをとるのか平等をとるのか?この議論は政治においては単純化されて、小さな政府をとるか大きな政府をとるかになる。A党は小さな政府をとる、B党は大きな政府をとるというのがその党の理念みたいになっているのが現在の政治の状況ではないのか。ところが、小さな政府、大きな政府というが、はたして政府というものの尺度は大きい小さいで計られるものだろうか。 この議論が不毛なのは、豊かさとは何か、平等とは何かということが本質的に議論されていないからである。GDPの数字だけでもって豊かさを判断してはいないか。もっというと、豊かさと幸せはイコールの関係にあるといえるのか。
 平等の概念にしてもそうだ。富を平等に分配することが平等なのであろうか。努力してもしなくても同じ報酬なら努力した人に対して不平等ではないのか。
 結局、議論が議論にならないのである。

 <これからの「正義」の話をしよう>(早川書房)は画期的かつ興奮させられるたいへんおもしろい本である。著者のマイケル・サンデルは長年ハーバード大学で学部生に政治哲学の講義を行ってきた人である。その講義はハーバード大学史上で一番人気があるといわれている。この講義の内容をベースにできたのが<これからも「正義」の話をしよう>である。一読してハーバードの学生に圧倒的に支持されたのがよくわかる。はっきりいってこの本を読むと間違いなく頭がよくなると確信する。
 この本がなぜおもしろいかは、議論をする上において本質的な土台となる概念に対して深く考えを及ぼしているからである。本質的な土台となる概念とは一言でいうと正義とは何かということである。著者は正義について広くそして深く考察をめぐらせている。アリストテレス・カントなどの偉大な哲学者も登場し、彼らの考えも紹介している。また、正義を考えることから、善・道徳・宗教・平等についても考察している。
 やはり正義とは何かについての徹底的な考えなくしては人間の行動に対する議論はほとんどが不毛なものになってしまうと、私はこの本を読んで認識した。人間の行動は功利主義者がいうように効用が最大化すればいいというものではないからである。
 この本はまず最初に大きなそして意義深い問題を取り上げている。それは<1人殺せば5人が助かる状況があったとするならばあなたはその1人を殺すべきか?>という問題である。たいへん難しい問題である。イエスと答えたら非難されるであろうか。しかし、よく考えてみるとこの問題をイエスと導く論理でもって戦争は正当化されるのではないのか。イラク戦争によってかなりの人間が死ぬが、それの何千倍・何万倍もの人間が助かるという論理でアメリカは戦争を決意したのではなかったのか。
 著者のマイケル・サンデルはこの問題についていろいろな角度から論じているが答はない。この問題以外にも現代社会がかかえる矛盾をテーマにした問題がたくさん提起されている。そしてその問題を考える上で道徳・宗教など多岐に渡って考察が及ぶ。
 いずれの問題に対しても答はないし、誰もが納得するような答は存在しない。要するに著者の主張は、どのような問題にも本質的なところまで掘り下げて深く・広く考えなさいということである。考えることによって次元の高い解決法に迫るというものであろう。そのためにアリストテレス・カントの哲学が参考になるのである。

 <これからの「正義」の話をしよう>を読むと、本当に哲学が大事かつ必要であることがわかる。哲学なき議論は不毛であるということである。

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(2010/05/22)
マイケル・サンデルMichael J. Sandel

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