小林秀雄「考えるヒント」を読む

鎌倉文学館
 坂口安吾に「教祖の文学」という随筆がある。その冒頭、小林秀雄が酒を飲んで泥酔状態になり、水道橋駅のプラットフォームから線路に落ちたことや、上越線の列車をプラットフォーム側とは逆のドアから降りたことが書かれている。さすが安吾ならではの随筆である。
 教祖とはいうまでもなく小林のことである。小林は切れ味するどく緻密な批評をする評論家として若いながら文壇の大御所みたいな存在になっていた。そんな小林を安吾は教祖と見立てて批評しているのである。
 小林は文学を志す人なら一度は通過しなければならない大文学者である。少なくとも昭和40年代は小林の作品を読んでいないと文学を知らないように思われたものである。まさに小林は教祖様であった。私は半ば義務的に小林の作品を読んだ。
 私自身がドストエフスキーが好きだったので、小林のドストエフスキーについて書かれたものから読み始めた。だが、作品は難しく何が書かれているかまったくといってよいほどわからなかった。小林は私にとってはさしずめ難解な文章を書く思索家であった。
 その小林が酒を飲んでプラットフォームから落ちた話を読んで痛快な気持になった。やはり小林も普通の人間であったとどこか安堵した。と同時に私は小林の人となりに興味をもつようになった。
 小林は言葉について深い考察をしている割には、実際の小林はべらんめぇ調の江戸っ子弁丸出しの言葉で話したそうである。また、人の作品をけなすときにはたいへんきつい言葉を用いたらしい。あの水上勉は小林にさんざん作品をけなされたという。水上が小説家として大成したのも小林のきつい指導があったからだろう。
 石原慎太郎の随筆を読んで小林の一面を見た思いがしたことがある。小林は銀座のある鮨屋によく行った。小林さんが贔屓にしている鮨屋だからさぞ高級だろうと若き流行作家の石原がその店を突き止めた。石原はその鮨屋を見て驚いた。みすぼらしく、鮨ねたも数種類しかなかった。石原は小林に私の行く鮨屋は天ぷらもあるし何々もあると自慢した。すると小林は「それは料理屋だ」と言ったという。
 私はこれを読んではっとした。さすが石原である。小林という大文学者の本質を一つの挿話でもって見事に語ってくれている。小林が行くのは当たり前のようであるが本当の鮨屋なのである。小林の言葉に対する思いと、鮨屋に対する思いが同じように私には思われた。

 小林秀雄の「考えるヒント」は少しでも本質を究めようと思う人には最適な本である。私はこの本を読んで本質を究めるとは考えることであると再認識した。小林は考える人なのである。
 「考えるヒント」は考える人小林が歴史・政治・自然・言葉などについて書かれた随筆を集めたものである。雑誌・新聞に発表されたもので、かなり読みやすくなっている。読みやすくなってはいるが、小林の思考がどんどん深まっていくので、自然とこちらも真剣に考えざるを得ないのである。読んだあと、頭が柔らかくなったようでさわやかな気持になる。
 「考えるヒント」の中で最も感銘を受けた文は次の文である。

<考えるとは、合理的に考える事だ。どうしてそんな馬鹿げた事が言いたいかというと、現代の合理主義的風潮に乗じて、物を考える人々の考え方を観察していると、どうやら、能率的に考える事が、合理的に考える事だと思い違いしているように思われるからだ。当人は考えている積りだが、実は考える手間を省いている。そんな光景が到る処に見える。物を考えるとは、物を掴んだら離さぬという事だ。>(『良心』)

 私たちはふだん考えているようで実は小林がいうように能率的に考えているのではないだろうか。能率的に考えるということは形式的に考えるということであり、形式的に考えることはとりもなおさず何も考えないことである。現在、不毛な議論ばかり多いのは能率的に考えようとしているからではないのか。

 小林は昭和38年にソ連に招待された。そのとき、小林はドストエフスキーの墓を詣でた。その理由はまがりなりにも物を書いて生活できるのはドストエフスキーのおかげだからだという。私は小林の新しい一面を見た思いがした。

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 写真は、旧前田侯爵鎌倉別邸で、現在は鎌倉文学館です。

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小平邦彦「怠け数学者の記」を読む

 2010年の日本人ノーベル賞受賞者は鈴木章・根岸英一の両氏に決まった。たいへん喜ばしいことである。これで日本人のノーベル賞受賞者の総数は17人になった。ただ、その17人の中で戦後生まれの人は田中耕一氏だけである。
 戦後65年以上たって戦後生まれのノーベル賞受賞者が1人であることははたして少ないのか。欧米の受賞者で50代、60代前半の人が多いことを考えると、日本人の戦後生まれの受賞者が1人というのはやはり少ないのではなかろうか。
 戦後の日本の教育は戦前の教育とは変わり、量・質ともよくなっているはずであるから優秀な人が輩出しても不思議はないのである。また、高等教育を受ける人は戦前とは較べようもなく多くなった。理工系では大学院に行くのも一般的になった。それなのに世界的なレベルの人が戦後生まれの人からは出ていない。逆に、生徒の学力低下が声高に叫ばれるようになった。なぜなのだろうか。
 ノーベル賞には数学賞はない。ノーベルが数学者を嫌っていたかららしい。そこで世界の数学者の会がノーベル賞に代わるフィールズ賞なるものを創った。フィールズ賞は数学のノーベル賞みたいなもので、受賞するのは大天才である。日本人では3人が受賞している。最初に受賞したのが小平邦彦である。その他の2人は広中平祐・森重文である。この3人の中で戦後生まれは森のみである。

 小平邦彦の「怠け数学者の記」(岩波現代文庫)は数学者以外の人が読んでもたいへん興味深い本である。この本は大きく3つの内容に分かれている。数学について、教育について、そして小平がアメリカのプリンストン研究所にいたとき妻に送った手紙からなっている。
 私が特に興味を覚えたのは教育についての小平の所感である。小平はプリンストン研究所から帰国すると東大で教鞭をとった。1980年頃、小平は、たびたびそのときの大学生の学力が低下していると嘆いている。そのときの大学生というのは東大の数学科の学生である。現在では大学生の学力低下は当然のように言われているが、すでに30年前に大学生それも東大生の学力低下が言われていたのである。
 小平はなぜ学生の学力が低下したかを考察し、初等教育に問題があると結論付けている。理由は初等教育いわゆる小学校では学習する内容が多すぎて、大事な教科がないがしろにされているというものである。小平は、学習内容には適齢期があり、生徒の精神的成長を考えて学習内容をきめるべきであると言っている。小学生のときに学習しなければならないものをするべきで必要のないものはするべきでないと続け、理科・社会などわざわざ小学校の1年生からやるものではなく、中学校からやってもよいくらいで、逆に、小学校のときにぜひともやらなければならないのが国語と算数であると言っている。
 読み・書き・そろばんとはよく言ったもので、小学校のときには国語と算数だけをやっていればよいのである。国語と算数は社会で生きていく上で基礎的学力であり、大人になってからやっては遅い。実際に戦前の教育では小学校では国語と算数にほとんどの時間が割かれていた。
 小平の批判は受験数学にも向かっている。受験数学は解法パターンを覚えることに力をいれ、考える力を身につけさせていないというのである。東大の数学科の生徒のほとんどは自ら新しいことを考える力をもっていないという。戦後生まれで東大出身のフィールズ賞受賞者は皆無である。
 小平は数学は論理だということにも批判的である。数学が論理なら論理力のある人は数学ができるはずである。ところが哲学者・文学者など論理力があって数学ができない人はかなりいる。
 小平は数学には数覚が必要だと言う。数覚とは数学の感覚みたいなものである。この感覚は大人になってからでは身に付かないもので、やはり小さい頃から計算をたくさんして数に親しまなければ身に付かないものであるらしい。

 「怠け数学者の記」を読んでいると小平が本当に数学が好きなのだと思う。小平は小学生の頃は算数しかできなかったらしい。私も小学生は国語と算数だけをやっていればよいと思う。

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小平 邦彦

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石光真人編著「ある明治人の記録」を読む

姿三四郎のモデルになった西郷四郎
 1902年に日英同盟が締結された。この同盟には世界がいささか驚いた。英国という大国がアジアの小国日本と同盟したからだ。
 英国が日本と同盟を結ぶにあたって、英国が日本の軍隊に好印象をもっていたことが一役買ったと言われている。明治33(1900)年、中国で義和団事件(北清事変)が起こる。自国民を守るために欧米列強は中国に軍隊を派遣した。日本も軍隊を派遣した。そのとき、列強の軍隊は規律がなく、一般市民に対して略奪などをした。逆に日本の軍隊は規律正しかった。日本の軍隊は世界から賞賛された。このとき、日本の軍隊を指揮していたのが柴五郎中佐であった。
 柴は陸軍の幼年学校から軍事教育を受けた陸軍のエリートで大将まで上り詰めた人である。ある意味、柴の人生は成功の人生であった。だが、柴の幼少期から少年期は悲惨極まりないものであった。

 柴は会津藩士の息子として1859年に会津若松で生まれた。太平の時代なら幸せな子供時代を送ったはずである。時あたかも幕末の動乱が始まっていた。尊王攘夷が狂気のように叫ばれていた。
 1867年、将軍慶喜は大政を奉還した。それにもかかわらず薩長を中心とする官軍は朝敵として幕府そして佐幕派を撃とうとした。戊辰戦争である。佐幕派の筆頭である会津藩は官軍から一番の標的とされた。いよいよ官軍は会津藩に攻め入った。会津藩は女子供まで総出で応戦したが多勢に無勢、なすことなく鶴ヶ城(会津若松城)は陥落した。
 少年であった柴は難を逃れたが、彼の祖母・母・姉・妹は自害した。父親と兄たちが残された。
 薩長閥を中心とする明治政府は会津藩を下北半島の斗南(となみ)に移封した。いわゆる斗南藩である。斗南藩は30000石と言われたが実際には7000石ぐらいであった。66万石の会津藩とは雲泥の差であった。藩士全員は当然生活ができるはずがなかった。
 柴少年は父親と一緒に斗南に行った。そこで約2年間暮らした。そこでの暮らしは想像を絶するものであった。真冬になると氷点下15度ぐらいになり、柴少年は裸足で外を歩かなければならなかった。
 柴は寡黙な人で生前自分の半生をあまり語ることはなかったが、晩年、幼少年時代についての文章を遺書のつもりで書いている。この文章を本にしたのが石光真人編著「ある明治人の記録」(中公新書)である。
 私はこの本を読んで驚きそして近代史について深く考えさせられた。はっきり言って、会津藩を斗南に行かせたのは移封ではなく、処罰である。薩長閥は会津藩を朝敵として見せしめにしたとしか思えない。はたして会津藩は朝敵であったのだろうか。それ以上に本当に薩長は尊王であったのか。特に長州の動きをみていると勤皇だとはとても思えない。薩長は天皇を思い切り利用し、自らの行動を正当化したのではなかろうか。政治とはそのようなものであろう。ただ薩長のやり方、とくに軍隊を私物化したことが日本を滅亡に追い込んだのは確かであろう。結局、戦前は薩長対反薩長の構図で国が動いていたのではなかったか。その構図を作ったのはもちろん薩長である。

 私たちは本当の歴史を知らなければならない。そのためにはいい史料にあたることである。偏った見方をする歴史学者の本を読んでも歴史は決してわからない。
 「ある明治人の記録」は一級資料である。

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 写真は、旧会津藩家老屋敷に建っている姿三四郎のモデルになった西郷四郎像です。

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岩崎夏海「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」を読む

 日本のプロ野球やアメリカの大リーグを見てて不思議に思うことがある。選手の戦力は変わらないのに、監督が変わっただけで俄然チームが強くなることがあるからだ。前年度最下位になったチームが監督が変わって今年度優勝なんてことがザラにある。
 監督が変わって何が変わったのであろうか。これは何も野球に限ったことではない。それまで赤字で倒産寸前だった会社が社長が変わっただけで高収益の会社になることもよくある。
 組織というものはあきらかにリーダーによってよくもなれば悪くもなるのであろう。それではすぐれたリーダーとそうでないリーダーとはどこがどう違うのであろうか。もっというとすぐれたリーダーとは育成できるものであろうか。
 日本には過去においてすぐれた企業家がいた。松下幸之助・本田宗一郎・盛田昭夫などの経営者は自分の会社を世界のトップレベルの会社にした。間違いなく社員が優秀というよりも彼らが優秀であったからである。彼らが社員を優秀にしたのである。はたして彼らのような経営者を創りだせるのであろうか。
 考えてみれば日本の教育機関はリーダーになるための教育をしてこなかった。日本人はすぐれたリーダーには持って生まれた資質というものがなければならないとでも思っているのであろうか。すぐれたリーダーについての本はたくさんあるが、すぐれたリーダーになるために論理立てて詳しく説明した本というものはほとんどない。
 すぐれたリーダーを創るためにはすぐれたリーダーとはどのようなものであるかの分析が必要である。その分析を克明に行ったのがドラッカーであり、ドラッカーは組織を動かすマネジメントを科学的に分析し、名著「マネジメント」を書いた。この本はマネージャーがとるべき行動を明確に示している。アメリカではマネージャーとはリーダーのことを言う。野球では監督であり、会社では社長のことである。

 ドラッカーの「マネジメント」の理論を実践的に示したのが岩崎夏海著「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」(プレジデント社)である。この本は小説の形をとってマネジメントがいかに重要であるかを説いている。
 この小説の主人公は川島みなみという女子高生である。彼女は2年の秋に都立程久保高校の野球部のマネージャーになった。程久保高校は進学校であったが、野球部は弱く甲子園は夢のまた夢であった。
 みなみはマネージャーになるとマネージャーとは何かについて学ぼうとひょうんなことからドラッカーの「マネジメント」を買って読んだ。彼女は「マネジメント」を理解し、その理論を実践していった。彼女がまず行ったことは目標を明確にすることであった。そして目標を決めた。それは来年の夏甲子園に行くということである。
 程久保高校の野球部には規律というものがなかった。選手めいめいが勝手に行動していた。練習に出るものもいれば出ないものもいた。趣味で野球をやっているという雰囲気であった。
 みなみはドラッカーの理論を踏まえて選手の意識改革から始めた。さらに練習方法なども変えていった。みなみのマネイジメントによってバラバラになっていたチームは一つにまとまり野球も見違えるように強くなった。そして程久保高校は甲子園初出場を果たしたのである。

 私はこの本を読んで一番感銘したのは<真摯に行動する>ということである。マネジメントの対象は人間である。人間を動かすには何が必要なのか。やはり真摯さなのかもしれない。
 この本にはマネジメントの方法が書かれている。すべて頷けるものである。ドラッカーの理論でいけば成功すると思う。ただ成功するかどうかはどれだけ真摯になれるかであろう。
 リーダーである人、そしてリーダーになろうとしている人には是非とも読んでほしい本である。

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もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだらもし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら
(2009/12/04)
岩崎 夏海

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