伊藤氏貴「エチ先生と『銀の匙』の子供たち 奇跡の教室」を読む

 灘校といえば誰もが知る名門中の名門である中高一貫教育の学校である。東大合格者は長い間1位で、ほとんどの生徒が東大か京大か国立の医学部に行く。
 灘校は神戸にある私立学校である。3つのお酒の会社が共同で創立した学校である。戦前に旧制の中学校として創立された。創立から灘校は優秀な学校であったわけではない。戦前は、優秀な生徒は公立の中学校に進学し、公立の中学校にいけない生徒が私立の中学校にいった。私立の中学校はいはば落ちこぼれのいく学校であった。灘校もそのような学校であった。
 灘校は昭和43年に初めて東大合格者数のトップになった。私立高校として初めてであった。なぜ灘校はそんなにも優秀になったのか。予備校みたいな授業をスパルタ的にやっているのではないかといろいろと憶測をよんだが、実はそうではなかった。灘校の生徒が優秀になるにおいて忘れてはならない伝説の国語の教師がいたのである。

 伊藤氏貴著「奇跡の教室」は灘校の国語の教師であった橋本武(通称エチ先生)のことを書いた本である。私はこの本を読んで深く感動した。本当にエチ先生みたいな人がいたのかと疑ってしまうほど、エチ先生の授業は常識はずれのものであった。
 エチ先生は明治45(1912)年生まれで、現在98歳である(数え年でいうと白寿である)。昭和9年に東京高等師範学校を卒業すると灘校の国語の教師になった。以後定年まで灘校の国語の教師を勤めた。戦争中、神戸の空襲も経験している。
 エチ先生は戦後、画期的な授業を行った。考えに考え抜いた結果の授業であった。その授業とは教科書を一切使わずに、中勘助の「銀の匙」を3年間かけて読み通すというものである。岩波文庫1冊が3年間を通してのテキストであった。なんともすごい授業である。それよりもよくこのような授業を学校が許したものである。灘校は本当に自由な学校だったのであろう。
 エチ先生は将来に渡って役に立つ授業は何かと考えてこの授業を思いついたのである。ここで考えさせられるのはエチ先生の考えに受験に役に立つという観点がまったくなかったことである。エチ先生は国語力が生きていく上での一番基本になるものと考えていた。そして国語力を身に付けるためには、優れた小説をじっくり読むことが大切だと考えたのである。その優れた小説が「銀の匙」であった。
 授業は毎回エチ先生がプリントを配り、そのプリントの設問に生徒が答えるというものである。設問はほとんど自分で調べて自分の考えを書かせるというものである。生徒たちは自分の考えや意見を述べるという表現力を自然と身に付けていった。また、エチ先生の授業は本の内容から派生していろいろと横道にそれた。ねずみ算のことが出てくると、和算のことまで詳しく話した。明治時代の子供の遊びやお菓子のことまで調べて生徒に話した。よほど教養がないとできない授業である。生徒たちは幅広く知識を吸収した。1回の授業では1ページぐらいしか進まなかった。
 授業があまりにも遅く、そして受験に役に立ちそうもないということで、ある生徒が授業の進み方が遅いと先生に質問したことがあった。エチ先生は、スピードは関係ないといい、さらに、すぐに役に立つことはすぐ役に立たなくなるといった。私にはこのエチ先生の言葉が重く響いた。まさにその通りである。
 このようなエチ先生の授業を受けた生徒たちが続々と東大に合格していったのである。教え子たちは異口同音にエチ先生の授業は世の中に出て役に立ったといっている。その教え子たちの中には東大総長もいる。

 「奇跡の教室」を読んで、教えるとはどのようなことかと深く考えた。先生と呼ばれている人たちにはぜひとも読んでほしい本である。

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ブログ<名作を読む>には、中勘助「銀の匙」の読書感想文を掲載しています。

奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち奇跡の教室 エチ先生と『銀の匙』の子どもたち
(2010/11/29)
伊藤 氏貴

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小林秀雄「モオツァルト・無常という事」を読む

鎌倉天ぷら「ひろみ」
 鎌倉駅から小町通りに入って少し行った左手のビルの2階に天ぷら屋「ひろみ」がある。「ひろみ」はカウンター席と7つばかりのテーブル席のある普通の天ぷら屋であるが、知る人ぞ知る有名な天ぷら屋である。小林秀雄が定連であった店である。ただし、小林が通ったのは今の店ではなく今の店から近くにあった旧店である。小林が死んだあと、現在の店に移ったのである。現在のマスターは2代目で先代の息子である。先代の時代、小林は足繁く「ひろみ」に通ったのである。現在のマスターは子供時代、お客の小林に何度も会っている。
 私は鎌倉は何度も遊びにいったが、今回初めて「ひろみ」に行った。長い間、一度小林の行き付けの天ぷら屋へ行きたいと思っていた。私が「ひろみ」の存在に気が付いたのは江藤淳の随筆を読んだときである。江藤はアメリカの研究所に終戦直後に行われたGHQの検閲について調べに行く直前に、小林に挨拶に行った。小林は江藤の渡米の目的を聞いて江藤を元気付け、いつもの天ぷら屋に連れていった。江藤は何回もその天ぷら屋に連れて行ってもらったらしい。
 私はマスターに小林のことをきいているうちに、江藤淳のこともきいてみた。やはり江藤もよく小林に連れて来られ何回も見かけたことがあると言った。そして、小林に対する江藤はまさに校長先生に対する小学生みたいだとも言った。私はなんともいえない感動を覚えた。江藤はどんな権威にも屈しない豪腕な人だと思っていたからだ。江藤にとっては小林は師匠であり、父親みたいな人であったのかもしれない。
 「ひろみ」には小林丼という名の天丼がある。小林がよく好んで食べた天丼を小林丼と名づけたのである。小林は天丼の天ぷらを肴にしてお酒を飲んだそうである。私も天丼の天ぷらを肴にお酒を飲んだ。天ぷらはやはらかくたいへん美味であった。
 小林はたいへんな美食家であったらしい。食だけでなく小林は本業の文学以外に絵画・音楽・書・骨董などに造詣が深かった。こだわるものには徹底的にこだわったのである。特に、骨董にはこだわり、戦時中は骨董の売買で生計を立てていたとも言われた。食も小林のこだわりの1つであったに違いない。「ひろみ」は小林の眼鏡にかなった店であったのである。

 小林の文章は難解である。私は学生時代何度も小林の本は読んだが、よくわからなかった。だが、年齢を重ねていくうちに小林の作品が味わい深いものになっていった。絵画も骨董も時間を置いて何度も見ていくうちに味わい深くなるのと同じかもしれない。
 私は特に歴史に材を得た小林の文章が好きである。それらの文章は絶品である。小林の文章を読んだ後は歴史学者の書いた歴史の本を読むのが嫌になる。
 「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)には私の好きな随筆がたくさん収められている。「当麻」「徒然草」「無常といふ事」「西行」「実朝」「平家物語」は特に好きである。小林の筆になると歴史上の死んだ人間たちが生き生きと蘇ってくる。実朝・西行の孤独が直に伝わってくる。小林は死んだ人間を絶対的に信じているようだ。これは小林文学の核心をなすものかもしれない。晩年の「本居宣長」まで小林は過去の死んだ人たちのことを追いかけた。小林は次のように川端康成に語りかけている。

<生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例があったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな>(無常という事)

 私は鎌倉にある天ぷら屋「ひろみ」のテーブル席でしばし、もう死んでしまった遠い昔の小林の姿を思い浮かべた。

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 写真は、鎌倉小町通り天ぷら「ひろみ」です。

モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)モオツァルト・無常という事 (新潮文庫)
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坂野潤治「明治デモクラシー」を読む

法務省
 戦前というと条件反射的に暗黒の時代であったというイメージが浮かぶ。これはどうしようもないことである。私が小さい頃に受けた教育がそうさせるのである。私は戦前の日本はとても悪かったと教わったのである。
 私が受けた歴史教育を簡単に記すと次のようである。戦前は天皇独裁で、天皇の側に軍部と官僚がはびこり、国家主義を浸透させていった。戦争は天皇の名のもとに行われ、戦争責任は天皇に当然ある。戦前には自由も平等も存在せず、まして基本的人権などというものも存在しなかった。民主主義という概念も戦後になって日本に植えつけられた。極めつけは中国・ソ連・北朝鮮は人間を非常に大事にする国で北朝鮮は夢の国だとも言われた。多くの人たちは私と同じような体験をもっているのではないだろうか。
 私自身年齢を重ねるうちに小さい頃に受けた歴史教育に疑問をもち始めた。本当に戦前の日本は悪の国であったのか。それならなぜ夏目漱石・森鴎外みたいな大文学者がでたのか。はたして本当に天皇に戦争責任はあるのか。それならなぜ天皇は極東裁判で裁かれなかったのか。
 戦後、日本を統治したGHQ司令長官のマッカサーにアメリカのトルーマン大統領が<日本を2度とアメリカの脅威にしないように>と指示した。実際アメリカは日本との戦争で多大な犠牲を払っていたのである。アメリカは日本の復活を心底恐れていた。
 この指示を受けてGHQがやった政策は徹底的に戦前の日本を否定することであった。教育もこの政策に則って行われた。アメリカは精神的支柱を失った魂の抜け殻みたいな日本人を作ろうとしたのである。かくして多くの日本人は戦前は悪だと刷り込みされたのである。
 戦後65年もたち、日本人は日本の本当の歴史を知る必要に迫られているのではないだろうか。教条的な歴史学者によって作られた歴史を見直す時期にきているのだと思う。私たちは寄って立つイデオロギーや思想にとらわれない客観的な歴史を欲しているのである。戦前の日本が悪であったことを客観的かつ論理的に説明してもらいたい。前提ありきの歴史観はもううんざりである。本当に未来を志向するなら歴史を正しく認識する必要がある。歴史を正しく認識できる歴史書が求められる。

 坂野潤治著「明治デモクラシー」はすばらしい本である。目からウロコの歴史書である。私はこの本を読んで、日本でデモクラシーの思想が根付いたのが今からはるか120年以上も前であったことに驚いた。その思想も今のデモクラシーの考え方とほとんど同じである。「大正デモクラシー」という言葉はきいたことがあるが筆者は明治デモクラシーの継続として大正デモクラシーをとらえている。私は明治に現代と似たデモクラシーの考え方があるとは知らなかった。
 現在の日本では政権交代が行われ、2大政党制なるものも実現されるようになってきた。2大政党制なるものはつい最近に作られた考え方だと思っていたが、この考え方は自由民権運動が始まった明治14(1881)年以降頻繁に論じられた。
 福沢諭吉の門下生で組織された交詢社の私擬憲法は天皇・内閣・国会に関してはまさに現代の憲法と同じである。天皇を国家元首としてはいるがそれはあくまで象徴的なもので、実際の行政は内閣・国会の連帯責任のもとで内閣が行うのである。ルソーの影響を受けた中江兆民の弟子である植木枝盛も私擬憲法を作っている。
 1889年に発布された大日本帝国憲法は一朝一夕にできたものではないのである。それまで喧々囂々の議論をベースにできたのである。そのベースとはまぎれもなく民主主義であった。
 福沢だけでなく徳富蘇峰・大隈重信なども民主的な憲法を考えていた。もしかしたら明治において現在の憲法と似たような憲法ができたかもしれないのである。

 民主主義は何もアメリカが日本に押し付けたものではないのである。現在の民主主義の思想は明治・大正・昭和の民主主義を土台にして発展したことを「明治デモクラシー」を読んで私は認識した。

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 写真は、法務省の建物です。法務省の建物ができる以前の江戸時代には米沢藩上杉家の藩邸があったと案内板に書いてありました。下記に紹介する坂野潤治と田原総一朗の対談集「大日本帝国の民主主義」を読んでも明治デモクラシーのエッセンスを感じ取ることができます。「明治デモクラシー」と併せて読まれることをお薦めします。

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川端康成「美しい日本の私」を読む

 日本で最初のノーベル文学賞受賞者の川端康成が自ら命を絶ったのは1972年である。その2年前、川端を師と仰いだ三島由紀夫が自刃している。日本を代表する2人の大作家のたて続けの異常な死は社会に衝撃を与えた。
 川端がノーベル賞を受賞したのは1968年である。長年の作家活動が評価されたのであるが、東洋の神秘性を描いたことも受賞の理由の1つであった。川端がノーベル賞を受賞したこと自体は別に驚くことではなかった。川端は大正時代から名作といわれる作品を多く書いていたからである。特に「伊豆の踊子」「雪国」は国民的文学にまでなっている。
 私は川端の作品の中では「雪国」が最も好きである。「雪国」は傑作中の傑作であると思う。日本文学全体の中で考えても「雪国」は最高傑作の1つであろう。「雪国」のような作品はもう2度と現れないと思う。
 川端は文壇の大御所として存在感のある人だった。しかし、その境遇とは裏腹に非常に孤独な人であった。孤独を考えずに川端文学は語れない。実際に川端は幼い頃に両親を亡くし、15歳になる頃には身内がすべて死んで天涯孤独の身の上になった。その孤独の影は死ぬまでつきまとった。「伊豆の踊子」は孤独を抜きには語れない。
 孤独と同時に川端文学を語るのに不可欠なのがあの世のことである。「雪国」は川端本人があの世のことを書いたと言っている。<仏界入り易く、魔界入り難し>とは一休の書であるが、川端はこの言葉をよく口にした。川端にとって自然とはあの世との接点であったのかもしれない。
 川端の古典に対する造詣は相当に深いものである。古典の世界に没入することによって孤独を解消したのであろうか。それとも古典の世界を黄泉の国とでも思っていたのか。

 ノーベル賞受賞のとき、川端が行った講演のタイトルは「美しい日本の私」であった。川端はこの講演で一体何を言いたかったのであろうか。おそらく欧米の人たちには川端の講演はわからなかっただろう。それくらいこの講演の内容は日本の文化の深淵に迫っているからである。
 この講演は川端の自然に対する思いを凝縮したものである。と同時に川端文学を知る糸口になるものである。日本人の心情がいかに自然と一体になったものかを深く考察している。
 川端は日本の芸術について述べている。芸術とは和歌・茶道・華道・絵などである。冒頭、

 雲を出でて我にともなふ冬の月
  風や身にしむ雪や冷めたき 

 という明恵上人の歌が取り上げられ、明恵上人がいかに自然と合一しているかを川端は語る。和歌とは自然との合一を目指すものであると言っているようだ。和歌だけでなく、花にしろ、お茶にしろ自然との合一を目指すものであるとも言っている。
 興味深いのは死のことに言及していることだ。川端は芥川龍之介の死に関して<いかに現世を厭離するとも、自殺はさとりの姿ではない。いかに徳行高くとも、自殺者は大聖の域に遠い。>とそれ以前の随筆に自殺に対して否定的に書いているが、講演の中ではさらに一休が2度自殺を図ったことを述べている。一休が自殺を図ったことは川端には衝撃的であったらしい。自死の4年前のことと思うと感慨深い。
 さらに「源氏物語」「枕草子」などについても言及している。特に「源氏物語」は川端は小さい頃から愛読しており、「源氏物語」が和歌だけでなく美術工芸から造園にいたるまでの美の糧になると言っている。
 「美しい日本の私」は日本人の心がいかに自然と結びついたものかを語っているのである。私は自然について語るにおいて川端はつねに自然の向こうにある黄泉の国を見つめていたのではないかと思われてならない。

 「美しい日本の私」を読んで私は川端文学の神髄を認識し、そして美しい日本を見た思いがした。

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 「美しい日本の私」にはサイデンステッカーが英訳した英文が載っています。明恵上人の歌は以下のように訳されています。
 "Winter moon, coming from the clouds to keep me company, Is the wind piercing, the snow cold?"

美しい日本の私 (講談社現代新書 180)美しい日本の私 (講談社現代新書 180)
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川端 康成

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Tag : 美しい日本の私