瀧井一博「伊藤博文 知の政治家」を読む

小田原滄浪閣跡地に立つ伊藤博文公 伊藤博文に対して、大方の日本人はどのようなイメージをもっているのだろうか。2009年は伊藤没後100年であったが、目立った催し物は何も行われず、伊藤に関しての本が出版されたわけでもなかった。
 なにしろ伊藤の死に方がよくなかった。1909年、伊藤はハルピンで朝鮮人の放った凶弾に斃れた。その朝鮮人は現在、韓国では英雄である。さながら、悪の独裁者を国民のために殺した歴史上の国民的なヒーローの扱いである。
 だが、はたして伊藤は独裁者であったのだろうか。実際のところ、多くの日本人は伊藤のことを超国家主義者だと思っているはずだ。伊藤が日本を近代国家へするための道筋を作ったと考えている人はどれくらいいるのであろうか。何しろ、伊藤はあの悪名高い大日本帝国憲法を作成し、天皇の名において国民に押し付けた。この憲法は基本的人権は認めず、天皇独裁を確立し、結果として日本は無謀な戦争に突き進み、国を亡ぼすことになった。伊藤の評判がいいわけがない。
 高校の教科書でも、伊藤の業績を好意的に記述していない。伊藤の問題ばかりでなく、日本の歴史学界というところは、戦前の政治はすべて太平洋戦争に繋がるものとして認識しているようである。だから、多くの日本人は戦前の政治を悪いものだと思い込まされている。私は長いこと、近代の歴史について歴史学者が書くことには悪意があるように感じてきた。
 私も、大学生の頃までは明治の政治家を評価することはできなかった。ところが、年を重ね、いろいろと見聞を広めるにつれて、何となく伊藤博文を非常に優れた政治家ではないかと評価するようになった。そして今では、歴代の総理大臣の中で伊藤が一番すばらしい政治家だと思っている。

 瀧井一博著「伊藤博文 知の政治家」はたいへんすばらしい本である。私は長年、このような伊藤博文に関しての本を読みたいと望んでいた。著者の瀧井は1967年生まれの若く力のある歴史学者である。私は瀧井のような歴史学者が台頭してきたことを心からうれしく思う。なにしろ「伊藤博文 知の政治家」は偏見も先入観もなく、まっさらな状態から驚くべき量の資料と、明晰な分析でもって、伊藤の足跡を検証したものである。当たり前のようであるが、瀧井は歴史家として当然の姿勢でもって伊藤を評価しているのである。
 「伊藤博文 知の政治家」の結論を先にいうと、伊藤博文は純粋なる民主主義者であった。ただ、伊藤は早急に日本を民主主義国家にしようとはしなかった。
 幕末、イギリスに留学した伊藤は、日本を近代国家にして豊かにするには、日本にまず民主主義を導入しなければならないと考える。ただ、日本の現状を鑑みるに、漸進的にことを進めなければと思う。すなわち、スモールステップでもって国造りをしようとしたのである。国造りのためにはまず国の形を決めなければならない。それが憲法の制定である。立憲君主制が国の形であった。伊藤は制度として天皇制を位置付けようとしたのである。これに関しての瀧井の説明は説得力がある。
 伊藤は国の形を決めたところで、国民の知的レベルを上げようとした。そのために、伊藤は教育の大事さを主張する。慶応義塾や東京専門学校のような私立ではない高等教育機関の必要性を訴えた。帝国大学が創立されるにおいては伊藤の力が大きかった。
 伊藤は国民のレベルを上げて国民が自らの力で国の行く末を決めることができるようにしようとした。そのときこそ日本は民主主義国家になれるのである。伊藤は朝鮮もこのような方針で統治しようとしたのである。
 
 「伊藤博文 知の政治家」に書かれていることは歴史の教科書には書かれていない。私は本当の歴史について知りたい。偏った見方で書かれた歴史にはうんざりする。
 私は「伊藤博文 知の政治家」は本当の歴史の本だと思った。

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金沢八景に建っている「憲法草創之処」の石碑 写真上は、神奈川県小田原市にある滄浪閣跡地に建つ伊藤博文公の胸像です。
 金沢八景駅から徒歩10分程度のところに、大日本帝国憲法の草案の地(写真下)があります。大日本帝国憲法は、明治22(1889)年2月11日に発布、明治23(1890)年11月29日に施行されました。案内板には次のように記してあります。
< この地は、料亭東屋(あずまや)の跡で、明治20年(1887)伊藤博文、伊東巳代治(みよじ)、金子堅太郎、井上毅(こわし)らが明治憲法制定のため草案を起草したところです。
 明治20年6月から、東屋に集まり草案の構想を練っていました。金子・伊東は東屋に泊まり、伊藤は夏島の別荘から、井上は野島旅館から通いました。8月6日夜、東屋の伊東の室に盗賊が入り機密書類の入っていた行李(こうり)が盗まれましたが、翌日書類は無事発見されました。その後、伊東・金子両名は夏島の別荘に移り、草案が完成されましたが、東屋が起草の地であるとして、昭和10年(1935)年「憲法草創之処」という記念碑が金子堅太郎書で東屋裏庭内に建てられましたが、東屋廃業後、現在ここより40m東に移されて設置されています。>

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須賀敦子「遠い朝の本たち」を読む

 思春期に読んだ本というものは特別で一生忘れられないものである。私は中学生までは本をまったく読まず、高校生になって俄然読み出した。学校まで電車通学であったので、行き帰りの電車の中で本を読んだ。そのとき、初めて文庫本というものを手にした。最初に読んだのは山本有三の「路傍の石」で、それを皮切りに、夏目漱石・森鴎外などを読み、特に松本清張は大好きで、新潮文庫の松本清張の本は片端から読んだ。外国文学ではパールバックの「大地」が印象に残っている。
 大学に入学してからは、本好きの病が膏肓(こうこう)に入り、授業にも出ないで大学の図書館で読書三昧をしていた。ドストエフスキー・太宰治の虜となり、寝ても覚めてもドストエフスキー・太宰治であった。
 大学を卒業して30年近くたつが、高校・大学時代に読んだ本のことは忘れない。郷愁を感じながら昔読んだ本を現在でも読み直している。私の思春期は本とともにあり、その後の人生に大きな影響を与えたのは確かである。
 私は大学時代、ロシア文学者の江川卓先生に質問をしたことがある。<先生、文学というものは役に立つものですか>と尋ねた。江川先生は<すぐには役には立たない。しかし、20年後、30年後には役に立つかもしれない>と答えてくれた。
 私はある時期、どうしようもなく苦しかった。そんなとき私を根底から支えてくれたのが、ラスコーリニコフであった。ラスコーリニコフは2人の人間を殺したあと、生きたいと願った。私はそのことを思い、<俺は苦しいけど、人殺しはしていない>と自分を勇気づけた。

 須賀敦子著「遠い朝の本たち」はすばらしい本である。須賀はイタリア語の翻訳家でエッセイストである。イタリア語にたいへん造詣が深く、川端康成・谷崎潤一郎の作品をイタリア語に翻訳している。あの江川卓先生も日本文学のロシア語訳は難しいと言っていた。
 「遠い朝の本たち」は須賀が小学生から大学生までの期間の読書を中心に書かれた随筆である。須賀は昭和4年の生まれであるから、太平洋戦争が始まる数年前から戦争後の数年間の思い出といってもよい。
 戦争中の4年間は日本人にとってはつらい時期であった。国だけでなく、日本人1人ひとりが方向性を失った時期ではなかったのか。そんな中でも、ミッションスクールに通う須賀は、本に夢中になり、本からその後の長い人生を生きるための血なり肉なりを与えられたのである。
 たくさんの本を須賀は読み、それらの本について感想を書いているが、特に、3人の作家の本については思い入れ深く言及している。その1人は、アン・モロウ・リンドバーグである。アンは大西洋を初めて単独飛行した<翼よ、あれがパリの灯だ>のリンドバーグの夫人である。須賀は彼女の書いた本を読んで深く感動している。
 もう1人はサン・テグジュペリである。サン・テグジュペリも飛行機乗りで、第2次世界大戦に偵察機に乗ってそのまま帰らぬ人となった。「星の王子様」がたいへん有名であるが、須賀は「夜間飛行」など他の作品も激賞している。
 最後の1人は、森鴎外である。須賀が翻訳家になるにあたって、鴎外には影響されたようだ。鴎外は作家としてだけでなく翻訳家としても優れていた。アンデルセンの鴎外訳「即興詩人」は原作よりもすばらしいといわれている。
 須賀の思い出はすべて本と結びついている。本によって須賀の人生が決定したようであり、だからこそ須賀の人生は豊かであったように思う。戦争中の暗い時代も戦後の混沌とした時代も、本を読むことで須賀は自分を見失うこともなく生き抜いた。

 「遠い朝の本たち」を読むと本とは何とすばらしいものであるかと再認識した。<文学は役に立つのですか>という質問がいかに馬鹿げているかがよくわかる。

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今泉みね 金子光晴解説「名ごりの夢 蘭医桂川家に生れて」を読む

安政5年福沢諭吉この地に学塾を開く。  1860年、咸臨丸は江戸からサンフランシスコまで自力で航海した。たいへんな快挙だった。咸臨丸に乗る使節の代表は勝海舟だと思いきや、勝は船長であり、正真正銘の代表は軍艦奉行の木村摂津守である。勝は船酔いで航海中ほとんど寝ていたという。
 咸臨丸には若き福沢諭吉が乗っていた。考えてみれば福沢が乗っているのは不思議だ。咸臨丸は幕府の使節であるから、使節は幕臣で構成されるべきで、陪臣である福沢が使節の一員になったというのはどうしてか。
 西洋文明にいたく興味をもっていた福沢はぜひとも咸臨丸に乗ってアメリカに行き、自分の目で西洋文明を見たがった。木村が福沢を従者として連れていくことを決めたのである。このとき、福沢を木村に推薦したのが、幕府の奥医師である桂川甫周であった。木村は甫周の義兄であったのである。
 桂川家は代々続く奥医師の名門である。奥医師とは将軍の主治医のことで、桂川家は蘭医であった。江戸時代の蘭医とは蘭学を修めたもので、特に桂川家は日本一の蘭学の権威であった。そのため多くの蘭学を志す人間が桂川家に出入りした。そのうちの一人が福沢であった。福沢はとにかく学問好きの青年で、甫周から蘭学の講義をきいた。甫周は福沢をたいへんに評価しており、木村に紹介したのである。
 江戸時代、奥医師とはたいへん身分が高いもので、位は法眼(ほうげん)で、旗本たちも駕籠で出会えば、脇に寄らなければならなかった。家禄はそんなに高くはなかったが、築地に広大な屋敷を構え、多くの召使や書生を抱えていた。桂川甫周は7代目であった。
 
 今泉みね著「名ごりの夢」は桂川甫周の一人娘みねが80歳になって、幼少そして娘時代のことを振り返った語り物である。その話言葉は得も言われぬ美しさである。日本語とはかくも美しい言葉であると再認識した。私はこの本を読みながら感動のしっぱなしであった。そして郷愁にも似た気持ちが湧き起こるのを禁じえなかった。本当に江戸時代の風情を堪能した。
 みねは安政2(1855)年に生まれ、昭和12(1937)年に没している。母親はみねを生むとまもなくして他界した。みねは父の甫周から溢れんばかりの愛情を注がれて育ったのである。
 「名ごりの夢」にはみねが幼い頃に見た桂川家のことや、家の回りの風景などについて語られている。多く語られているのが、桂川家に出入りしていた人たちのことである。日本で始めて新聞を創刊したといわれる柳河春三、舎蜜(せいみ)学を化学と命名した日本近代化学の祖といわれる宇都宮三郎、そして福沢諭吉や成島柳北などである。
 柳河はおもしろい人で、柳河の回りには笑いが絶えなかったという。また、福沢は本が好きで、いつも懐は本でふくれていたという。ある寒い夜、福沢は夜なきそばを食べにいった。ところが、お金がなくて襦袢をそば代としておいてきた。仲間のものたちは本を置いてこなかったのはさすが福沢であると感心した。
 桂川の家は道を隔てて大川(墨田川)と面していた。その頃の大川は本当に美しかったという。水は透きとおるくらいにきれいだった。花見の頃には屋形船が浮かび、その船から三味線の音が流れてきた。たいへんのどかな風情を漂わしていたのである。
 みねは甫周に大事にされながら育ったが、桂川家は幕府の崩壊とともに没落していった。明治になると甫周とみねは六畳一間の長屋に住んだ。みねは幕府を倒した佐賀の人間と結婚したが、その結婚は幸福といえた。

 「名ごりの夢」を読むと、現代の日本という国家が江戸時代を土台としていることを痛切に感じる。江戸時代があったからこそ、私たちは世界に誇れる文化を持つことができたのだと心から思う。

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 写真は、東京築地に建っている慶応義塾発祥の地碑です。碑文は「安政5年福沢諭吉この地に学塾を開く。昭和33年慶応義塾これを建つ」と彫られています。今泉みねはこの近辺で激動の時代を過ごしました。

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シュミット村木眞寿美編訳「クーデンホーフ光子の手記」を読む

 私は日本の歴史においては明治時代が一番興味が湧く。明治時代とは江戸時代と近代とがせめぎ合いながら渾然一体となった時代である。古いものを壊しそして残しながら新しいものが注入されていくダイナミックな時代であったのだ。
 明治になると、日本は急激に近代化に進み、明治22(1889)年には憲法の発布、そして翌年には国会が開設され、近代国家の仲間入りをはたした。
 日本は当然のことながら、世界にも目を向け、2つの大きな戦争を経験した。日清戦争と日露戦争である。日清戦争は1894年、日露戦争は1904年に起こった。この2つの戦争において日本は大国に戦いを挑んだのである。清は当時、眠れる獅子と恐れられていたし、ロシアは世界最強の陸軍を持っているといわれた。どちらも国運を決する戦いであったが、日本は2つの戦争ともに勝利した。これらの戦争を通して、日本は表向きは、世界の大国として認められたのである。
 国レベルでは日本は世界の大国へと突き進んでいったが、国民レベルでも外国との交流はさかんになった。明治4年の岩倉使節団を皮切りに、たくさんの日本人が海外へと渡った。政治家だけでなく、商人・軍人・学者たちが海を渡った。森鴎外も夏目漱石も留学した。
 たくさんの日本人がヨーロッパに行ったのだが、さすがにヨーロッパの国の貴族と結婚してヨーロッパに渡った人というのはクーデンホーフ光子ぐらいしかいないのではなかろうか。
 クーデンホーフ光子の日本人のときの名は青山みつといった。江戸が東京と名前を変えて間もない明治7(1874年)に銀座で商人の娘として生まれた。みつは明治25(1882)年にオーストリア・ハンガリー帝国の公使館の代理公使ハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵と結婚した。商人の娘みつはクーデンホーフ光子すなわち伯爵夫人になったのである。

 シュミット村木眞寿美編訳「クーデンホーフ光子の手記」は光子が夫であるクーデンホーフ伯爵の思い出を綴った手記である。伯爵は光子が32歳のときに死んでいる。7人の子供のうち、5人の子供は幼なかったので父親のことはよく覚えていなかった。そこで母親の光子が彼らの父親について書き残したのである。
 私はこの手記を読んで感銘した。江戸情緒を残す江戸商人の娘がヨーロッパのハプスブルグ家の国の由緒ある貴族に嫁いでも、その精神性において貴族夫人として立派に振る舞ったことに私は大和撫子(なでしこ)の本性を見た思いがした。
 手記は3つの章から成り立っている。第1章は日本からヨーロッパへ帰る旅のこと、第2章は夫である伯爵のこと、第3章はヨーロッパでの生活のことである。
 この手記を読むと、ヨーロッパの貴族の生活がどのようなものであるかが大体わかって興味深い。クーデンホーフ伯爵は特別だったのかもしれないが、伯爵は気品があり、教養があり、そして慈愛に満ちた人であった。彼はカソリック教徒であり、光子もカソリック教徒になった。光子は仏教徒からカソリック教徒になったわけであるが、それに対して何ら違和感がない。人間のもつ気品・誠実さは宗教には関係ないのかもしれない。伯爵はたいへんな勉強家でヨーロッパのすべての言語、そして中国語・朝鮮語・日本語ができた。 明治25年伯爵夫妻は4年間の新婚生活を終えて、ヨーロッパへと向かった。この4年間の間に日本では日清戦争があった。日清戦争についても光子は言及している。当時の日本人の気持ちがわかっておもしろい。大きな犠牲を払って戦勝国となった日本はロシア・フランス・ドイツの3国干渉によって手に入れた中国の領土を返還した。それに対して国民は怒りまくり、東京においてはすべての西洋人が襲撃の対象になったそうである。
 伯爵は旅が大好きで、エゾ(北海道)や朝鮮も光子を伴って旅をしている。朝鮮では虎狩りをした。
 光子は自分の夫である伯爵について敬愛の気持ちを込めて綴っている。それは何があっても夫を信頼し、夫を立てる日本人の妻の姿である。

 光子がヨーロッパに渡り、夫を亡くしてから、ヨーロッパは激動の時代に突入した。ハプスブルグ家は没落し、そしてオーストリア・ハンガリー帝国もなくなった。光子は時代に翻弄されながらも、日本人の魂をもってヨーロッパの名門貴族夫人として気品に満ちた生涯を送ったのである。

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クーデンホーフ光子の手記 (河出文庫)クーデンホーフ光子の手記 (河出文庫)
(2010/08/04)
シュミット村木 眞寿美

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