山中伸弥 益川敏英「『大発見』の思考法 iPS細胞vs.素粒子」を読む

 iPS細胞は夢のような細胞である。iPS細胞は人工多能性幹細胞といい、この細胞から人間のあらゆる器官を作りだすことができる。人の皮膚の細胞から腎臓・肝臓などができることになるのである。この細胞があれば将来、人工透析はなくなるかもしれない。まさに21世紀の、いや人類史上画期的な大発見である。一刻も早い実用化が待たれる。
 iPS細胞を考え出したのは京都大学教授の山中伸弥である。山中はノーベル医学賞に最も近い日本人だといわれている。
 日本人の世界的な科学者は大きく2つのグループに分かれるように思われる。1つのグループは戦前生まれの人たちであり、もう1つのグループは戦後生まれだが、大学卒業後、主にアメリカなど海外で研究生活を送った人たちである。戦後生まれで、日本だけで研究生活を送って、世界的な研究をしたという研究者は少ない。
 現在、日本は科学立国にするために、優れた研究者を養成すると国は声高に叫んでいるが、実際には、大学生の理工系離れは深刻である。高等学校で物理を履修する人は20パーセント以下である。はたして、日本は科学立国になれるのであろうか。
 優秀な科学者の卵はほとんどがアメリカに留学する。日本では最先端の研究ができないのであろうか。できないなら、なぜできないのであろうか。
 優れた科学者とは個性的である。逆に、個性的でない人に画期的な研究ができるはずがない。日本の大学では個性的な人が研究できないしくみになっているのだろうか。
 高等学校の教育をみても、教育指導要領などでは個性を伸ばす教育を謳っているが、本当に個性を伸ばそうとしているのか。センター試験を見ても、まさに没個性の試験で、この試験では人の個性など計れない。
 個性を伸ばすというフレコミで、国立大学に後期試験の制度ができた。この制度は数学や理科などある教科が得意な人のための試験制度であるが、現在では制度そのものがなくなりつつある。
 東京大学は日本で一番優れた大学だといわれているが、戦後生まれの東大卒業生のうちで、ノーベル賞または数学のフィールズ賞を受賞した人は1人もいない。これはどう考えてもおかしい。日本の教育は本当にだいじょうぶなのだろうか。
 世紀の大発見をするには何が必要なのか。山中伸弥と益川敏英の対談<「大発見」の思考法>の中にその答えがありそうである。

 益川敏英はクォークが6個あることを予想し、それが正しかったことによってノーベル物理学賞を受賞した物理学者である。益川は戦前生まれである。益川・山中ともに東大卒ではない。益川・山中は2人とも大発見をした人であり、2人の対談は含蓄のある内容でいろいろと示唆に富む。やはりどこか違うのである。
 山中は臨床医から基礎研究の道に進んだ人で、1度挫折を味わっている。山中はアメリカで研究するにおいて非常によかったこととして、2つのことをあげている。1つは、アメリカ人は失敗を責めないということである。逆に、優れた研究をするためには2度や3度の失敗は当たり前だと思い、大きな失敗をする人はそれだけ大きな研究をする人だとして尊敬される。2つめはアメリカの研究者は自分を主張するのがたいへんうまく、プレゼンテーション能力が高いという。山中もプレゼンテーション能力をあげるために勉強したという。
 益川のすごいところは、物理の研究そのものを趣味のようにたのしんでいることである。傍からみると苦しそうな研究でも益川本人はたのしんでやっているのである。だから、益川には挫折はない。益川にとっては失敗は単なる通過点なのである。
 2人の共通点は、すべての教科の基本を国語においていることである。物理・数学もまず国語力がなければならないという。

 こうやったら天才科学者が育つという教育法などあるはずがないと思うが、こうやったら天才科学者は育たないという教育法はあると思う。日本はそろそろ本気になって教育を見直す時期にきているのではないだろうか。

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山川菊栄「武家の女性」を読む

東京都小石川庭園(旧水戸藩邸)に建っている藤田東湖先生の碑 幕末の主人公は薩摩・長州藩ではあるが、影の主人公は水戸藩であろう。最後の将軍一橋慶喜は烈公と呼ばれた水戸藩主徳川斉昭の子であり、桜田門外の変を起こしたのは水戸藩士であるし、天狗党の乱も水戸藩で起こった。
 幕末を語るにおいては、水戸藩を措くことはできない。倒幕の理念となった尊王攘夷運動というのも元をただせば水戸藩から生じたものであった。攘夷という言葉は水戸藩の儒者藤田東湖が唱えたものだといわれている。
 水戸藩は徳川御三家の一つである。あの水戸黄門(光圀)は家康の孫である。将軍家に跡継ぎがいないときには、徳川御三家から選ぶ。そのため徳川御三家といったら将軍家と同じも同然であった。ところが、水戸藩だけは違っていた。水戸光圀は尊王家で、水戸藩は代々天皇家を篤く敬う家系であった。徳川幕府は身内に獅子身中の虫を抱えていたことになる。
 幕末、水戸斉昭は尊王攘夷を声高に唱え、水戸藩は尊王攘夷派と佐幕派の二つの派に大きく分かれた。すなわち、斉昭・東湖を中心とする尊王攘夷派(天狗党といわれる)と佐幕の保守派(諸生党とよばれる)に分かれたのである。この二派の対立が天狗党の乱を生み出したのである。
 天狗党の乱によって、天狗党の関係者は厳罰に処された。当事者だけでなく、その家族にも罰は及んだ。妻・子供たちも殺されるか、牢に繋(つな)がれた。
 天狗党の乱の後は、諸生党が権力を握ったが、戊辰戦争が起こると、諸生党は官軍によって制圧された。このとき、天狗党の残党は諸生党に復讐をした。まさに血で血を洗う復讐であった。この復讐劇は明治初めまで続いた。
 幕末・明治維新を通じて、水戸藩は内乱に継ぐ内乱だといってよい。それでも政争に関係のない一般の人たちは日頃と変わらぬ生活をしていた。一般の人たちに乱の累が及ぶのは最後の最後である。
 はたして歴史に残らない名も知れない人たちの生活はいかばかりであったろうか。この疑問に見事に答えてくれるのが、山川菊栄著「武家の女性」である。

 「武家の女性」は幕末から明治維新まで水戸藩士の娘として成長した女性の思い出の記録である。
 山川菊栄は社会主義者山川均の妻である。菊栄自身も社会主義者である。だからといって、「武家の女性」が社会主義を喧伝するものではない。「武家の女性」は当時の水戸藩の状況と中級武士の生活をおとぎ話のように語ったものである。たいへんわかりやすく格調の高い文章である。歴史資料としても一級品であるし、民俗学の書としても名著である。この本が出版されるときには柳田国男が力添えをしたらしい。
 「武家の女性」は菊栄の母千代の思い出が中心である。千代の生家は中級武士の家で、父親は家で塾を開いており、藩の仕事としては歴史書の編纂をしていた。
 武士の日常の生活についてこまごまと書かれている。習い事・きもの・身だしなみ・食べもの・すまい・遊びごと・結婚と離婚について、そして当時の水戸藩の政治状況がたいへん詳しく書かれている。
 驚くのはあれだけ内乱に継ぐ内乱であっても、女・子供の世界は別世界であったということである。その世界では時間はゆるやかに流れていた。子供たちは習い事や遊びごとに夢中になっている。江戸の武士ののどかな生活風景が醸しだされている。江戸を知るには最高の本である。

 私は江戸時代に生きた人たちの実際の生活を書いた本を読むたびに思うのは、現代人は江戸時代の人たちよりはたして幸福なのだろうかということである。便利さといったら現代の方がはるかに便利であるが、幸福という観点から見ると、江戸時代の人の方が上ではないのか。
 江戸時代には現代人が忘れた古きよきものがあるような気がする。

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 写真は、東京都小石川庭園(旧水戸藩邸)に建っている藤田東湖先生の碑です。

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森銑三著小出昌洋編「新編明治人物夜話」を読む

 「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「西鶴諸国ばなし」「本朝二十不孝」「日本永代蔵」「世間胸算用」「万の文反古」「西鶴置土産」などなどの作品は井原西鶴が書いたことになっているが、この説に異を唱えた人がいる。森銑三である。森によると、西鶴が自ら書いたのは「好色一代男」だけであるという。
 別に「日本永代蔵」や「世間胸算用」が西鶴以外の人が書いたとしてもこれらの作品の質が下がるわけではない。誰が書こうと「日本永代蔵」「世間胸算用」は非常に優れた古典である。
 森は90年近い生涯(1895年に生まれて1985年に没している)を読書だけに費やしたといわれている読書家の巨人である。森は、戦争後西鶴の研究を始め、それこそ一字一句を確かめて新説を打ち出したのである。西鶴に関する本にはたびたび森の名が登場する。とにかく森は博覧強記な教養人であった。

 森が書いた「明治人物夜話」はタイトルの通り、著名な明治の人物について書かれた随筆集というような本である。
 これらの人物は大きく分けて2種類の人たちに分けられる。1つは本の世界で知り合った人たちであり、もう1つは直接に森が出会った人たちである。主だった人たちをあげてみると、明治天皇・勝海舟・西郷隆盛・高橋是清・栗本鋤雲・幸田露伴・依田学海・成島柳北・森鴎外・尾崎紅葉・斉藤緑雨・正岡子規・三遊亭円朝・狩野亨吉・永井荷風などである。
 どの人物についての記述も含蓄があって、わくわくするようなおもしろさである。教養をベースとした文章というのはやはり奥深い。言葉が生き生きとして魂がこもっているのである。
 すべて興味深いものばかりであるが、特に印象に残ったものをあげてみると、まず明治天皇と西郷隆盛のことである。
 明治維新になって、西郷隆盛は明治天皇の教育係になった。明治天皇はまだ10代で若いというより幼なかった。ある日、天皇が馬場で馬術の訓練をしていると馬から落ちてしまった。天皇は思わず、<痛い>といった。西郷はその声をきいて、なぐさめるのでなく、<痛いなどという言葉を、どのような場合も男が申してはなりませぬ>といった。これ以来、明治天皇は生涯どんなに痛くても一度も<痛い>といわなかったそうである。いやはや、やはり西郷とはとてつもなくすごい男である。
 夏目漱石のこともおもしろい。文部省が文芸を普及させるために文芸賞を創設した。この話を伝え聞いた漱石は新聞で、国が文芸に口を出すとは何事かと反論したそうである。実際に、森鴎外・幸田露伴・徳富蘇峰などが選者となって、文芸賞の候補作を決めた。その中に漱石の「門」もはいっていた。最終的に文芸賞を決めることになったが、結局決められなかった。このことを漱石は喜んだ。そして、国が主導する文芸賞もなくなった。この話には漱石の芸術観が出ている。
 漱石の学生時代の同級生の狩野亨吉のこともすばらしい。森が直接狩野に会ったときのことを書いている。狩野は第一高等学校長、京都帝大総長にまでなった人であるが、晩年は護国寺裏の八畳間と三畳間しかない借家に妹と二人きりで住んでいた。狩野は生涯独身であった。その家には本はなく、昔読んだ本のカードだけがあった。ある本の話になるとカードを取り出して、それは読んだといった。清貧そのものである。森は狩野のことを敬愛の念をこめて書いている。私は狩野の偉大さを感じた。偉大なる教育者とは狩野みたいな人をいうのではないだろうか。

 どれもこれも興味深い随筆ばかりである。私は「明治人物夜話」を読みながら、古きよき時代を旅した気分になった。

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澤地久枝「火はわが胸中にあり 忘れられた近衛兵士の叛乱 竹橋事件」を読む

旧大日本帝国陸軍近衛師団司令部庁舎 大日本帝国陸軍史上最悪の兵士の反乱は2・26事件だと思っていたが、刑死者がそれを上回る反乱があった。竹橋事件である。
 高等学校で学習する日本史の教科書では、竹橋事件の扱いは小さい。事件そのものの言及というより、その事件の結果、軍人勅諭そして教育勅語ができたという関連性の中で記述されている。
 竹橋事件というのは明治11(1878)年に起こった近衛兵の反乱である。その1年前には西南戦争が起きている。西南戦争は日本史上最大の内戦であった。近代的な組織になった官軍は西郷隆盛率いる薩摩軍を制圧した。この戦争によって、明治の社会は完全に封建的武士社会から脱皮したともいわれる。
 竹橋事件は西南戦争の余韻が残っている最中の出来事であった。それも近衛兵という天皇を守るべき兵の反乱であった。明治政府の驚きはいかばかりであったろうか。時の陸軍卿の山県有朋は蒼ざめたに違いない。
 考えてみれば竹橋事件というのは日本史においてとてつもなく重要な事件であるのに、この事件の詳細を書いた本は意外と少ない。近代史の本には記述があるが、高校の教科書のように、軍人勅諭・教育勅語との関連で述べられることがほとんどである。

 澤地久枝著「火はわが胸中にあり 忘れられた近衛兵士の叛乱竹橋事件」は竹橋事件を克明に追った本である。私はいろいろな意味でこの本に感動した。まず、著者の澤地の竹橋事件に対する執念には畏れいった。歴史の闇に光を当てようとした真摯な姿が窺われる。公的な資料はわずかである。そのわずかばかりの資料を徹底的に分析し、処刑された兵士たちの親戚縁者を訪ねまわり、事件当時の新聞を渉猟し、事件について言及した政治家・言論人の日記・手紙などにあたっている。
 公的な資料は少ない上に、事件の性質上、改竄されていないとはいえない。また、事件の核心になるものは隠されているに違いない。そのような状況の中で澤地は真実を解明しようとした。
 竹橋事件は時の政府にとっては大打撃であった。ある意味、革命であったのかもしれないのである。竹橋事件とは近衛兵たちの反乱である。彼らは兵士であるけれども職業軍人ではない。徴兵された兵士である。別の言い方をすれば強制的に兵士として国に召し上げられた人たちなのである。当然のように、戦争になると彼らは最前線に送られる。1年前の西南戦争では、彼らは体を張り、命を賭けて戦ったのである。彼らは真っ先に報いられるべきであった。
 ところが、報いられたのは軍の上層のものたちで、懲兵された兵士たちには何の恩典もなかった。賞与がないばかりか、給与までも下げられた。ただでさえ低い給与がさらに下げられたのである。兵士たちは不満だらけであった。この不満がマグマとなって噴き出したのである。
 澤地は、待遇に対する不満が反乱の大きな原因であるとしているが、国そのものを変えてやろうといういわゆる革命的な思想もあった可能性は排除していない。それが自由民権運動に繋がる要素もあったわけである。
 兵士の反乱がなぜ失敗したのか。これは、リーダーが不在であったからである。もし、優れたリーダーがいれば歴史は変わっていたかもしれない。

 竹橋事件は政府を動揺させたが、したたかな政府はこの事件を奇貨として、軍人の規律を強化した。軍人勅諭が出されたのである。軍人勅諭によって軍隊は天皇直属であることが徹底され、天皇はより強固に神格化された。天皇の軍隊の誕生といってもよい。この軍隊が無謀な戦争を起こし、国を亡ぼしたことは歴史の証明することである。
 竹橋事件は日本の歴史においてたいへん大きな事件であった。

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 写真は、東京都千代田区北の丸に明治43(1910)年に建てられた旧大日本帝国陸軍近衛師団司令部庁舎です。現在は東京国立近代美術館工芸館になっています。

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