垣添忠生「悲しみの中にいる、あなたへの処方箋」を読む

 東日本大震災によって多くの人たちが亡くなられた。ご冥福を祈るばかりである。
 さて、世はこぞって<がんばろう>の大合唱である。これから復興していく東北の人たちに向けて元気付けることはとてもよいことだとは思うが、愛する家族を失った人たちにとって、<がんばろう>の掛け声はいかがなものであろうか。
 突然、親・子・妻・夫そして兄弟を失った人たちの気持ちは経験してみないとわからないかもしれない。想像を絶するような悲しみに襲われるのであろう。
 愛する人と死別した悲しみはどんなに強い人間をも打ちのめすのであろうか。私は愛する人との死別について考えるとき、文芸評論家の江藤淳を思い出す。江藤は妻を亡くした数年後、自死した。私にとって江藤の死は衝撃的だった。私は江藤は絶対に自死するような人ではないと思っていたからだ。江藤の自死はうつ病が原因らしかったが、うつ病になった理由の1つに愛妻の死が間違いなくあったと思う。愛妻の死後に書かれた「妻と私」を読むと、江藤が妻のことをいかに愛していたか、そして妻と一体化していたかがよくわかる。
 愛する人と死別するのは苦しいことかもしれないが、残されたものはやはり生きていかなければならない。考えてみれば私たちはいろいろと教育を受けてきたのだが、愛する人と死別したらどう対処するかについては教わったことがない。このことが、悲惨な事故にあって死んだ被害者の遺族たちに対するマスコミの遺族の気持ちを無視した執拗な取材を生む原因になっているのではないだろうか。

 愛する人たちと死別したとき、私たちは一体どうしたらよいのであろうか。垣添忠生著「悲しみの中にいる、あなたへの処方箋」はこの問いに対して1つの答えを与えてくれる貴重な本である。
 著者の垣添はがんで妻に先立たれた。医者として地位も名誉もある垣添でも、愛する妻を失った悲しみには勝てなかった。どうしようもない状態になった。完全に打ちのめされたといってよい。悲しみから逃れるために酒を浴びるほど飲んだが、酒の味はしなかった。何もする気がなく、うつ状態になり、自死まで考えた。
 このような経験をもっているので、垣添の述べていることには誠実さがあり、説得力がある。垣添は妻が亡くなって、気持ちが落ち着いてから、愛する人と死別したときにどう対処したらよいかを医学的に研究した。「悲しみの中にいる、あなたへの処方箋」はこの研究の成果を述べたものである。
 この本のすばらしさは、適切な処置をすれば、どんな悲しみからでも立ち直ることができるということをいろいろな例を出して実証していることである。言葉だけで<がんばろう><かならずなおる><元気だそう>といっているのとはわけが違う。
 とにかく、垣添は悲しみから逃げることなく、悲しみと正面から向き合うことをすすめている。悲しいときは思い切り泣き、そして回りのことは気にするなといっている。涙が出なくなるまでまず、泣くことである。逆に、一番怖いのは気丈に振舞うことだといっている。この気丈さが心を蝕んで最後に取り返しのつかないことになる可能性が高いことを指摘している。
 この本の最後に、死んでゆく人たちの心を救いたいとの思いでターミナルケアを志し、現在ではターミナルケアの第一人者になった聖路加国際病院理事長の日野原重明氏と、また死について長年研究してきた上智大学名誉教授のアルフォンス・デーケン氏との対談が載っている。この2つの対談はたいへん示唆に富むものである。

 人間はかならず死ぬものである。だからこそ死について考えることが必要なのである。愛する人たちと死別された方には、気持ちが少しでも落ち着いたらぜひとも「悲しみの中にいる、あなたへの処方箋」を読んでほしい。

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悲しみの中にいる、あなたへの処方箋悲しみの中にいる、あなたへの処方箋
(2011/02)
垣添 忠生

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中村建治「山手線誕生」を読む

品川東海寺に眠る井上勝の墓 一流の政治家とは何が何でも自分の信念を押し通すものである。たとえ、独裁者と呼ばれようと、国そして国民のためになると思えば、誰が反対しようとも政策を実行する。
 近代の日本が経済発展した理由はたくさんあるが、その1つが鉄道の敷設であったことに異を唱える人はいないであろう。
 明治5年に、新橋・横浜間に鉄道が敷かれてから、封建社会から近代国家に変身したばかりの日本の経済が大きく動き始めたのである。
 現代の私たちからすれば、鉄道は当たり前のものであり、空気みたいなものである。ところが、この鉄道が日本で初めて敷かれる計画があがると、轟々たる反対の声が湧き上がった。この計画を推進したのが、伊藤博文と大隈重信であった。伊藤も大隈も日本が近代国家として成長するためには鉄道は絶対に必要であるという信念をもっていた。
 当時の列車は蒸気機関車であった。これは煙を出し、火の粉を散らすので、田畑や民家に被害を与えると思われていた。そのため、鉄道が敷かれる予定地の住人は頑として土地を売ろうとしなかった。
 伊藤も大隈も困った。それでも2人は何としても鉄道を通そうと思い、考えに考えた末に、大隈に名案が浮かんだ。それは、海の上に鉄道を通そうというものである。すなわち、海を埋め立て、その上に線路を敷くというものであった。イギリス人技師の指導によって、海は埋め立てられ、無事に線路は敷かれた。鉄道が最初に敷かれたときの新橋・品川間は海の上を走っていたのである。列車の窓からは東京の町並みと、逆方向には、遠く房総半島が見られたのである。
 伊藤と大隈の鉄道に対する執念がなければ、近代日本の発展はだいぶ遅れたかもしれない。伊藤も大隈も紛れもなく一流の政治家であった。

 中村健治著「山手線誕生」は東京を一周する山手線が誕生するまでの歴史を書いたものである。私はたいへん興味深く読んだ。著者の中村は鉄道博士のような人で、鉄道に関してはすみずみまで知っている鉄道学(という学問分野があるとすれば)の泰斗である。
 私はこの本を読んで意外と思ったことが2つある。1つは、山手線の全線が開通されたのが大正14(1925)年で、鉄道が初めて敷かれてから50年以上もたっていたことである。
 2つ目が、山手線の区間の中で、最も遅く開通したのが新橋・東京・上野間であったということである。東京駅ができたのが大正になってからであり、東京駅周辺の鉄道の整備は遅れたのである。それは、東京駅ができる丸の内が皇居の目の前で、そこを鉄道が通ることに差し障りがあったからであろう。
 山手線の開業区間を順を追って記すと次の通りである。
(1)品川・田町・浜松町・新橋 (2)上野・鶯谷・日暮里・西日暮里・田端
(3)品川・大崎・五反田・目黒・恵比寿・渋谷・原宿・代々木・新宿・新大久保・高田馬場・目白・池袋(4)池袋・大塚・巣鴨・駒込・田端(5)新橋・有楽町・東京(6)東京・神田(7)神田・秋葉原・御徒町(8)御徒町・上野
 いずれの区間においても開業までの道のりは険しかった。たくさんの障碍(しょうがい)を乗り越えて開業されたのである。
 伊藤・大隈は政治家として鉄道を導入した人であるが、行政の人間として日本の鉄道の土台を築いたのは井上勝(まさる)である。井上は長州出身で、幕末、伊藤らと密航してイギリスに渡った。井上はその地で鉄道を見て、日本にも鉄道を普及させようと決意した。井上は日本の鉄道の育ての親とでもいうべき人である。

 鉄道の歴史はとりもなおさず近代日本の発展の歴史でもある。「山手線誕生」は鉄道の普及を通して近代日本の発展を見ることのできるたいへんおもしろくそしてためになる本である。

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品川駅 写真上は、東京品川東海寺に眠る井上勝墓所です。墓所は東海道新幹線と東海道本線に挟まれたところにあり、今でも井上は日本の鉄道を見守っています。井上勝の銅像は、東京駅の丸の内に建っていましたが、現在東京駅は工事中のため見かけることができません。井上の名は小岩井農場の井に残っています。
 写真下は現在の品川駅です。品川は鉄道敷設に伴い、品川地域は、明治6年に官営の近代硝子工業を皮切りに近代化した工場が建ち並んでいきました。京浜工業地帯の始まりです。品川地域で生産された工業製品や横浜に陸揚げされた外国製品が鉄道で日本各地に運ばれていきました。
 東海寺には、江戸時代の国学者賀茂真淵、建立した沢庵和尚の墓があります。


山手線誕生―半世紀かけて環状線をつなげた東京の鉄道史山手線誕生―半世紀かけて環状線をつなげた東京の鉄道史
(2005/06)
中村 建治

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黒木靖夫「大事なことはすべて盛田昭夫が教えてくれた」を読む

神田明神境内に建っている銭形平次の碑 とにかく20世紀のソニーはすごかった。世界でも一流の中の一流の企業であった。ソニーは世界屈指のブランドであり、ソニー製品をもつことが1つのステータスであった。アメリカ人の中にはソニーをアメリカの会社だと思っていた人がたくさんいた。
 現在、日本経済が寂しいのは日本に全盛時代のソニーのような会社がないことだ。ソニーだけでなく、元気のよかったホンダ、松下のような会社もない。世界中がソニー・ホンダ・松下に注目したものである。
 アップル・グーグルなど世界を支配しそうな会社はすべてアメリカの会社で、日本の会社は1社もない。アップルが巨大になったのはソニーがあったからだと私は思っている。アップルだけでなく多くの会社がソニーに学び、そしてソニーを目標にしてきた。iPodもソニーのウォークマンを参考にしたものである。
 今のソニーは変わった。なぜ変わったのか。答えは簡単である。ソニーの創業者である盛田昭夫が死んだからである。
 ソニーは井深大と盛田が実質の創業者である。終戦直後、品川で産声をあげた町工場の東京通信工業がソニーの始まりである。井深と盛田は海軍の軍人で、上官と部下の関係であった。
 ソニーが世界の超一流起業になった理由はまずその企業理念にある。その企業理念とは<人まねはしない>ということである。ソニーは他社商品の後を追うようなことはしなかった。ソニーの商品はこの世で初めての商品である。トランジスタラジオ・家庭用テープレコーダー・ウォークマン・トリニトロンテレビなど誰も想像もしなかった商品を世に送り出した。
 ソニーは井深と盛田を両輪として発展したが、井深は発明家で研究ばかりしていたが、盛田は会社の運営全般を担当した。ソニーが世界のソニーになったのは、盛田の手腕によるところ大である。
 20世紀を代表する経営者20人をアメリカの経済誌が選んだが、20人の中で日本人は盛田1人だけであった。盛田は経団連の副会長であったが、会長になることが決まっていた。私は盛田が経団連の会長になれなかったのを非常に残念に思う。

 黒木靖夫著「大事なことはすべて盛田昭夫が教えてくれた」は34年間盛田の側で働いた元ソニーの社員が書いた盛田に関する回顧録である。黒木はウォークマンを世に出すにあたって盛田とともに中心的な役割をした人である。
 黒木は仕事ぶり、性格まで多方面から盛田を分析している。とても興味深い話ばかりである。盛田は陽気で、いつも回りを明るくした。また、盛田はダンディで背広がたいへんよく似合ったという。
 一番感動した話はやはりウォークマンを世に出すときの話である。ウォークマンを企画したとき、ほとんどの人が反対した。特に販売会社は強行に反対した。<録音できないテープレコーダーが売れるわけはない>というのが反対の理由であった。最後、トップの盛田が決断をして、ゴーサインを出した。ウォークマンは世界を席巻した。
 マーケティングという概念は当時なかったが、盛田はマーケティングを知り尽くしていた。盛田は若い人たちが読む雑誌も読んでいたし、新しいものにはすぐに興味を示した。盛田は感性がするどく、そして戦略を考えるのもうまかった。また、盛田は経営者として一番大事な資質である優れたリーダーシップをもっていた。
 「大事なことはすべて盛田昭夫が教えてくれた」は盛田の素顔を見ることができる貴重な本である。盛田と一緒に仕事ができた黒木を私はうらやましく思う。

 落ち込んだ日本を復活させるのは日本人自身であることはいうまでもない。日本がバイタリティのある世界から羨望のまなざしで見られる国になるためには盛田みたいな経営者が現れることが必要である。
 盛田は学歴無用論を唱えた人である。学歴を偏重するような国では、盛田みたいな人は絶対に出ないであろう。

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 写真は、東京神田明神境内に建っている銭形平次の碑です。銭形平次を創作した作家野村胡堂は株式会社ソニーとは深い関係にありました。野村胡堂は、死去する前年1963年に私財であるソニーの株1億円で野村学芸財団を設立し、学業継続が困難な人に奨学金を寄付しています。

大事なことはすべて盛田昭夫が教えてくれた―ともに泣き、ともに笑った三十四年の回顧録大事なことはすべて盛田昭夫が教えてくれた―ともに泣き、ともに笑った三十四年の回顧録
(1999/12)
黒木 靖夫

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半藤一利「昭和史 1926→1945」を読む

皇居に建っている楠木正成像 司馬遼太郎は昭和を舞台にした小説は1作たりとも書かなかった。いや、書けなかったのであろう。司馬の近代を扱った小説は年代的には日露戦争を材にした「坂の上の雲」で終わっている。日露戦争後の日本には司馬をして、小説に書きたいと思わせるような英雄はいなかったにちがいない。
 本当に終戦までの日本はひどい時代であった。軍部が我が物顔に政治を動かし、政治家は党利党略で軍部に媚びへつらって国民のことを省みず、新聞は売り上げを増やすためにさんざん戦争を美化し、戦争が拡大するように世論を誘導した。
 はっきり言って、戦前の昭和の日本は国の体をなしていなかった。軍部のいいなりの国家だといってよい。このことを身をもって知っている司馬が昭和を舞台にした小説を書かなかったのはさも当然である。
 何で日本は坂を転げ落ちるように駄目な国家に向かったのか。「坂の上の雲」とはよくいったものである。日露戦争によって日本は坂を登り詰めたが、その上にはまだ雲があったのである。坂の上に辿りついたことで奢り高ぶることなく、謙虚に国造りにはげんでいれば、昭和を不幸な時代にすることはなかったであろうに。
 返す返す残念なのは、日露戦争後、アメリカの鉄道王ハリマンが満州鉄道を日本と共同開発したいという提案を日本政府が拒否したことである。この提案を受け入れていれば、日本とアメリカは戦うことはなかったであろうに。日本が曲がりなりにも日露戦争に勝利し講和までもっていけたのはアメリカ特にルーズベルトのお陰ではなかったのか。アメリカも日本に協力すれば、満州に進出できると踏んだのであろう。
 時の世界情勢そして政治力学を見誤ると国は滅びる。外交は国にとって非常に大事である。

 半藤一利著「昭和史1926-1945」は戦前の昭和史をわかりやすく解説したものである。この本は、半藤が昭和史について講義したものを編集したものであるので、たいへんわかりやすくなっている。なぜ日本があの無謀な戦争に突入したかを、時系列的にかつ論理的に述べている。
 日本が戦争を始めたそもそもの原因は満州を日本の生命線と軍部が決めたことである。日露戦争以後、満州には日本軍が常駐していた。昭和になって、世界大恐慌の煽りを食って日本も不況のどん底にあった。そして軍部が目をつけたのが満州であった。この豊穣な広い大地を日本の領土にすれば、日本は不況から抜け出し、かつ日本は大いに発展するだろうと軍部は考えたのである。
 軍部は強引に満州を奪おうとした。そのために謀略の限りを尽くした。その1つが張作霖爆殺である。昭和は張作霖爆殺から奈落の底に落ちていったといってよい。以後、軍部はやりたい放題である。政府が軍部に注意すると、軍部は統帥権干犯を振りかざして政府を無視する。
 軍部の統帥権干犯の主張ほど腹立たしいものはない。統帥権干犯をしているのは他ならぬ軍部であるからだ。軍部は天皇の命令すらも守らなかったのである。
 終戦までの軍部の行動は目を覆いたくなるものばかりである。とにかく論理も糞もなく、行き当たりばったりの政策である。唯一理性的に行動していたのは天皇だけであった。その天皇すら軍部に殺されるのではないかと危機感をもっていた。
 日本は当然のごとく負けたのである。

 戦前の軍部そして政治の腐敗を責めるのは簡単である。しかし、私たちはなぜ軍部が独走し、政治が機能しなくなった理由を追及せねばならない。あの愚かな戦争を教訓にできるかは、結局は現代に生きる私たち自身の問題であることを、私は「昭和史」を読んで、肝に銘じた。

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 写真は、皇居広場に建っている楠木正成像です。


昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)昭和史 1926-1945 (平凡社ライブラリー)
(2009/06/11)
半藤 一利

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Tag : 昭和史 1926→1945

杉森久英「大風呂敷 後藤新平の生涯」を読む

日比谷公園に建っている市政会館 戦前の政治家の中で最も人気のあったのはやはり後藤新平であろう。
 後藤がなぜ国民的人気があったのか。まず挙げられるのが後藤が薩長藩出身でなく、朝敵であった東北の藩の出身であったからである。明治の政治においては、薩長の人間であらねば人にあらずといわれたほど薩長の人間は幅をきかせていた。
 日本の政党は薩長に対抗してできたものである。自由党の板垣退助は高知県出身であり、立憲改進党の大隈重信は佐賀県出身で、2人は薩長の後塵を拝していたのである。
 次に後藤の人気の理由(実はこの理由が本当の意味で一番なのだが)は、後藤が大風呂敷といわれるほど大きなことをぶち上げる政治家であったことだ。後藤はとてつもないことを計画した。
 大正12年の関東大震災が起きたとき、後藤は山本権兵衛内閣の内務大臣であった。後藤は帝都復興院総裁を兼任し、首都東京を復興させるべく行動を起こした。そのときの予算は何と40億円であった。当時の国家予算は約14億円であったから、後藤は国家予算の3倍もの復興予算を要求したのである。このたびの東北関東大震災において復興予算を250兆円(国家予算を大体90兆円として)とするようなものである。さすがにこの予算は議会を通らず、5億円ぐらいまで下げられた。もし、後藤の要求した予算が通っていれば、今の東京はがらりと変わっていたはずである。
 政治家としての後藤はつねに大きなことを考え、そして成し遂げてきた。

 杉森久英著「大風呂敷」は後藤新平の生涯を描いた小説で、痛快な偉人伝ともいってよい。
 後藤はまだ江戸時代の1857年に現在の岩手県水沢で生まれた。後藤家は貧しい下級武士の家であった。後藤の子供時代は腕白で喧嘩好きであったが、勉強はよくできた。後藤の将来に期待する人たちに恵まれ、後藤は彼らの援助で福島の医学校を卒業して医者になった。 
 後藤の夢は政治家になって国を動かすことであった。医者になることを後藤は望まなかったが、はからずも医者になったことで政治家としての道が拓けた。後藤の経歴を概略すると次のようになる。
 愛知県病院長兼医学校長・内務省衛生局長・台湾総督府民政長官・南満州鉄道初代総裁・(桂内閣)逓信大臣兼鉄道院総裁・拓殖局総裁・(寺内内閣)内務大臣・外務大臣・東京市長・(山本内閣)内務大臣兼帝都復興院総裁・貴族院議員
 後藤は立身・出世をこよなく愛した人間であったが、それ以上に日本の国を愛した人間である。後藤の若い頃の愛読書は「西国立志編」で何度もこの本を読んだ。後藤はどんな失敗にもめげず、つねに上を向いて進んだ。
 後藤は豪放磊落で男からも女からも好かれた。あの社会主義者の片山潜も後藤の人柄に惹かれた。後藤にとっては右も左も関係なかった。また、後藤は美男子で若い頃から女にもてた。妾をたくさんもった。
 後藤の求心力はとにかくすごかった。後藤は国民的人気があり崇拝者も多かったのであるが、そのため敵もたくさんいた。後藤の人気と能力に嫉妬したのである。後藤が総理大臣になれなかったのは、元老たちが後藤を妬んだからだといわれている。戦前は元老の推薦がなければ総理大臣にはなれなかった。
 後藤の人生は立身・出世を地で行くような豪快なものであった。
 
 後藤だけでなく、岩手県出身で、いい意味でも悪い意味でも歴史に名を残した政治家は多い。原敬・斉藤実・米内光政がおり、そして東条英機は育ちは東京でも東条家は岩手県出身である。鈴木善幸・小沢一郎も岩手県出身である。
 東北からは国を動かす政治家がたくさん出ている。近い将来、未曾有の大被害を受けた東北から後藤新平のような国を大きく変える大政治家が出ることを私は信じている。

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 写真は、日比谷公園に建っている市政会館です。市政会館の案内板には、< 大正9(1920)年に東京市長に就任後、東京市政のための中正独立の調査機関設置を構想した後藤新平は、大正11(1922)年に東京市政調査会を設立して自ら会長となった。後藤は、安田財閥・安田善次郎の寄付を受け日比谷公園内に公会堂を付置した会館を建設し、会館は調査会が使用し、公会堂は東京市の管理に委ねることとした。これが、現在の市政会館と日比谷公会堂である。・・・>と書かれています。ちなみに安田善次郎は東京大学に寄付して、安田講堂の名を残しています。

大風呂敷―後藤新平の生涯〈上〉 (毎日メモリアル図書館)大風呂敷―後藤新平の生涯〈上〉 (毎日メモリアル図書館)
(1999/11)
杉森 久英

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大風呂敷―後藤新平の生涯〈下〉 (毎日メモリアル図書館)大風呂敷―後藤新平の生涯〈下〉 (毎日メモリアル図書館)
(1999/11)
杉森 久英

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Tag : 大風呂敷 後藤新平の生涯