森茉莉「父の帽子」を読む

東京三鷹禅林寺にある森鴎外の墓 明治の精神を知るには森鴎外を読めと述べたのは永井荷風であった。鴎外は明治の精神そのものであった。明治の精神とは、津波のように押し寄せる西洋の文化を咀嚼し、それでいて日本を見失わない精神であると私は思う。
 夏目漱石は西洋の文化に触れていささか動揺したが、鴎外は動揺することなく思い切り吸収した。
 明治を強く象徴するのが軍隊である。医者である鴎外は陸軍に勤務し、軍医総監にまで登りつめた。鴎外は陸軍に籍を置くことに誇りを感じ、軍服姿をこよなく愛した。毎朝、軍服を着こなし、サーベルをさげて、馬に跨って陸軍省に出勤した。
 鴎外は文の面でも、武の面でも飛び抜けた人であった。人格者であり、包容力抜群の大きな人であった。たくさんの文士たちが鴎外を師として慕った。司馬遼太郎は明治を国家となぞらえた。明治を国家たらしめた1つの理由が鴎外の存在だと私は思っている。
 鴎外は近代国家日本の強くやさしい父親のような人であった。

 鴎外には3人の息子と2人の娘がいた。長女が森茉莉である。茉莉の「父の帽子」は主に父鴎外について書いた随筆集である。さすが鴎外の娘と思わせる格調高い文章で綴られている。
 茉莉とは日本人離れした名前である。マリアからとられた名前でる。茉莉の下の弟の名は不律(ふりつ)であり、これはフリッツからとった。鴎外は子供たちの名前をドイツ人の名前からとったのである。
 講談社文芸文庫の「父の帽子」には、「父の帽子」を初めとして16編の随筆が収められている。
 「父の帽子」はタイトルの通り、鴎外の帽子について書かれている。鴎外は脳味噌が大きかったためか、頭がひどく大きく、そのため、鴎外に合う帽子は普通の店では売ってなかったという。そういえば、私は鴎外が帽子を被った写真を見たことがない。
 特に興味深かったのが、茉莉と不律が百日咳にかかったときの話である(「二人の天使」「注射」)。
 鴎外は「金比羅」という短編で、子供たちの病気のことを扱っている。この小説は私には印象深いものである。私は金比羅に何度も行った。金比羅の本殿にいくまでの700を超える階段を登り切ることがいい運動になったからである。鴎外に金比羅について書かれた小説があると知って、早速読んだのが「金比羅」であった。読んで驚いたのは、鴎外が金比羅に来たことは書かれているが、それは最初の部分だけで、この小説の主題は5歳の娘と2歳の息子が百日咳にかかったことについてであったからだ。2歳の息子は看病のかいなく死んでしまい、娘もあぶなかったが、助かった。
 このとき病気のことを茉莉は詳しく書いている。茉莉が回復したのは奇跡に近いことであり、鴎外は茉莉があまりにも苦しむので、安楽死を考えたという。安楽死が鴎外にとって切実な問題であったことを私は発見した。「高瀬舟」が書かれたのは茉莉の回復以後である。
 鴎外は茉莉を心の底から愛した。また、茉莉も<パッパ>といって、執筆中でも鴎外にまとわりついた。茉莉は鴎外をキリストのようだといっている。
 鴎外の家は観潮楼と呼ばれ、定期的に鴎外を慕う文学者が集まった。石川啄木もその中のうちの1人であった。その文学者たちの会合はたいへんにぎやかだったという。茉莉も会合に出た。
 茉莉は16歳のときに結婚するまで、鴎外の愛を一身に受けて成長した。結婚・離婚を2回繰り返し、経済的にも苦しんだことがあった。それでも、茉莉の心にはいつもキリストのような鴎外がいた。

 文学者としての森茉莉は一流である。三島由紀夫は森茉莉の作品を高く評価した。

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観潮楼跡(現文京区立森鴎外記念館) 写真上は、東京三鷹禅林寺にある森鴎外の墓です。娘である森茉莉の墓もあります。 向には太宰治の墓所があります。
 写真下は、森茉莉が生まれ育った観潮楼跡(現文京区立森鴎外記念館)です。当時は、観潮楼より東京湾が一望できました。
 ブログ「名作を読む」には以下の通り森鴎外作品の読書感想文を掲載しています。


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ジョン・キャスティ 中村和幸訳「20世紀を動かした五つの大定理」を読む

 数学の定理の中で最も有名なのはピタゴラスの定理であろう。ピタゴラスの定理は別名三平方の定理ともいう。この定理は数学に興味のない人でも知っているのではないか。
 ピタゴラスの定理は直角三角形に関する定理で、この定理を知っていると直角を正確に作ることができる。江戸時代の大工はピタゴラスの定理の名前は知らなくても、この定理の内容は知っており、正確な直角を作り出すことができた。ピタゴラスの定理は応用範囲が広く、数学のいろいろな分野で利用される。だからこそ、この定理は重要でかつ人気があるのだ。
 ピタゴラスの定理のほかにも数学にはたくさんの定理がある。現在では1年間に20万もの定理が発見されるという。数学者の仕事は定理を発見することだから、新しい定理がぞくぞくと発見されるのは当たり前のことである。だが、定理がたくさん発見されたからといって、すべてが価値ある定理とは限らない。はっきりいって、ほとんどがどうでもいいような定理ではなかろうか。
 定理とは真である命題をいう。定理と認定されるのは、まずその命題が真であることが証明されなければならない。証明されてはじめて定理になる。一旦定理と認められると、遠慮なくこの定理を使うことができる。Aという定理を用いてBという定理を証明し、そしてBという定理を用いてCという定理を証明するというふうに定理が定理を呼び、数学が進歩していく。
 証明されないけれども真でありそうな命題を予想という。<リーマン予想>は未だに証明されていない、将来定理となりうる命題といえる。
 新しい定理を導くのに、必要な定理が重要な定理ということになる。ピタゴラスの定理からは数えられないくらいほどの定理が生まれた。重要な定理というのは、応用性がなくてはならない。ある定理が発見されても、その定理にほかの定理を導くための応用性がなければ、やはりその定理はたいしたものではない。
 それでは一体、20世紀に発見された膨大な定理の中で重要な定理はあったのだろうか。
 ジョン・キャスティの「20世紀を動かした五つの大定理」は20世紀に発見された定理のうちで、特に重要といわれた5つの大定理について述べたものである。
 さすがに、20世紀に発見された大定理だけあって、難解なものであるが、これらの定理がどのように利用されているかがわかりやすく解説されている。たいへん興味深い。5つの大定理とは次の定理である。
1 ミニマックス定理  2 不動点定理  3 モースの定理
4 停止定理      5 最適化理論
 19世紀までの数学は自然科学に応用されるだけであったが、20世紀になると経済学などの社会科学にも応用されるようになった。また、戦後、コンピュータが一般社会にも普及し発展したが、それは数学の進歩があったからである。これらのことが5つの定理にも反映されている。
 ミニマックス定理はゲーム理論に関しての定理である。ゲーム理論は現在の経済学にはなくてはならない理論であり、政治学でも利用される。勝者になるためには絶対に必要な理論だといわれている。
 不動点定理はトポロジーに関する定理であるが、この定理も経済学と密接につながっている。モースの定理は点に関する定理で、関数についてのものである。停止定理はコンピュータに関する定理で、この定理が証明されたことで、コンピュータが飛躍的に発展したのである。
 最適化理論は限られた資源で、最大の効果をあげるための方法に関する理論である。高等学校の数学で線形計画法といわれる理論を深くしたものである。この理論は経営学・経済学ではたいへん重要な理論である。

 21世紀になった今日でも、日々、新らしい定理が発見されている。世界を一変させるような大定理が発見されたらと思う。

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黒川創「きれいな風貌 西村伊作伝」を読む

文化学院 お茶の水駅からすぐの駿河台にはいろいろな学校がある。明治大学・駿台予備校・アテネフランスなどに混じって、2階建ての古めかしい門をもつ文化学院がある。門を通り抜けると高いビルに出る。そのビルに文化学院の高校・専門学校が入っている。
 ビルに入ると、目の前にヨーロッパの寺院を髣髴(ほうふつ)させる階段が広がる。文化の香り漂うビルである。
 文化学院は専門学校ではあるけれども、芸術とりわけ文学に関心のある人にとっては知る人ぞ知る名門の学校である。与謝野鉄幹・晶子夫妻をはじめとして佐藤春夫・菊池寛などの大文学者が学校の運営に携わってきた。戦後、遠藤周作もこの学校でフランス語を教えている。
 文化学院は1921(大正10)年に創立された。創立者は西村伊作である。西村伊作は福沢諭吉・新島襄ほど有名な教育者ではないが、ユニークな人生を送った文化人としては歴史に堂々と名を残す人である。

 黒川創の「きれいな風貌 西村伊作伝」は生身の西村伊作を描き出した評伝である。名著である。私はこの本を読んで、西村伊作という人間にたいへん興味をもった。西村伊作が作家である黒川に評伝を書かせたほどの男であることを納得した。本来創作家である作家がここまで資料を調べ上げ、事実に忠実に1人の人間の生きた軌跡を書くのはめずらしい。それほど、西村伊作は黒川にとっては魅力的だったのだろう。よく調べたものだと私は感心した。
 伊作は飛び抜けて個性的な男であった。別ないい方をすると、自由奔放に、己の利益となるためにはどんな抵抗があってもやろうとした男であった。ただ、その利益は普通の人が思っている利益とは違う。
 伊作は和歌山県新宮で1884(明治17)年に生まれた。新宮といえば、すぐ思い出すのが佐藤春夫である。佐藤は西村より8歳年下で、終生、伊作のことを慕った。佐藤に「愚者の死」という詩がある。この詩は大逆事件(1911年)で処刑された新宮の医師大石誠之助を悼んだものである。大石誠之助は伊作の実の叔父である。
 伊作は幼いとき、濃尾地震で両親を失った。そのため、伊作は祖母の養子となり、西村家の財産を継ぐことになった。西村家は広大な山林を持つ資産家であった。伊作は金持ちのぼんぼんとして生きたのである。伊作は好きなことには惜しげもなく金を投じた。
 伊作は世界一周旅行をしているし、自分の住むモダンな家も設計している。伊作は建築家になった。伊作は建築を文化としてとらえ、建築以外の文化にもいろいろと関心を示した。
 伊作は駿河台に500坪の土地を買い、その土地に学校を作った。自分の娘に自由な雰囲気の中で教育を受けさせたくて、自ら学校を作ったのである。この学校が文化学院である。文化学院には補助金が出なかった。伊作は自由に学校を運営したかったので、はなから補助金をもらうつもりはなかった。文化学院は中等教育では日本で始めての男女共学の学校であった。 
 伊作と文化学院は戦前・戦中・戦後を通じて数奇な運命をたどっていく。戦争中、伊作は不敬罪で刑務所に入れられたし、文化学院は閉鎖された。
 戦後になっても、伊作は変わらなかった。<これからは、マッカーサーに叱られるようなことをする>といったという。晩年に書いた次の文が伊作の生き方を見事にいい表している。
<私はプロレタリア独裁の下でも君主専制下でも自由主義や民主主義の社会の中でも、どんな政府の下にでも自分が置かれた場において自分の利益になることを見出し、自分を楽しくさせることができると思う>

 私には伊作がとてもやんちゃな人間に思えた。やはり伊作は天性の芸術家であったのだろう。私は「きれいな風貌 西村伊作伝」を読みながら、正岡子規と伊作を重ね合わせてみた。

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 写真は、東京駿河台にある文化学院の門です。この門は戦前に建造されたもので、東京大空襲による焼失は免れました。

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陳舜臣「青山一髪(せいざんいっぱつ) 孫文起(た)つ 辛亥への道」を読む

横浜中華街関帝廟 2011年は中国の辛亥革命からちょうど100年目に当たる。辛亥革命によって清は亡び、中華民国が誕生した。
 辛亥革命の指導者が孫文である。孫文は、日本の教科書には三民主義を唱えた人として記載されている。三民主義とは民族主義・民主主義・社会主義のことであるらしい。
 孫文ははたして英雄であったのか。第2次大戦後、中国では国民党と中国共産党が戦い、国民党は台湾に逃げた。その結果、中国本土では共産党が政権を掌握し、中華人民共和国が誕生した。国民党は孫文が結成した党であるから、孫文は現在の中国では嫌われているのかと思いきや、孫文は台湾でも中国でも国家の父として尊敬されている。孫文が尊敬されるのは、中国を漢民族の支配する国に戻したからであろう。
 清を支配していたのは漢民族ではなく、満州人である。300万人の満州人が4億人の漢民族を支配していたのである。清の悪習といえばすぐに、纏足(てんそく)と辮髪が思い浮かぶ。この2つの悪習は満州人の支配を象徴している。
 満州人が支配していた清は国力がだんだん落ちていき、19世紀になるとかなり疲弊し、欧米列強は清を侵し、植民地化しようとした。極めつけは日清戦争の敗北である。それまでの清は眠れる獅子としてまだ世界から恐れられていたが、敗北によって、眠れる豚と蔑まれるようになった。
 日清戦争に負けた理由はまさに権力者の腐敗であった。当時の清を牛耳っていたのは皇帝ではなく、皇帝の母親の西大后であった。権力は西大后に集中し、西大后は贅沢の限りを尽くした。西大后の浪費によって、戦費を十分用意できなかったのである。戦争のために、新しい軍艦を建造することもできなかった。清は負けるべくして負けたのである。
 日清戦争後、いよいよ漢民族の間で、満州人の支配を打ち破ろうとする運動が活発化した。孫文も立ち上がったのである。

 陳舜臣の「青山一髪 孫文起つ 辛亥への道」は孫文が革命を成功させるまでのことを描いた小説である。さすがに、中国史を知り尽くしている陳の筆になったものであるので、歴史的背景が詳しく書かれている。日本の作家では、陳は中国の歴史小説の第一人者である。また、陳は司馬遼太郎の同級生である。
 孫文は革命家であった。ただ、自ら武器をもって、政府軍と戦ったわけではない。孫文は中国本土にいることができなかったのである。孫文は中国の新しい姿を示し、革命の賛同者を増やしていった。孫文によって、世界中の漢人の間で革命運動が盛り上がっていった。
 孫文は中国で生まれたが、幼い頃ハワイに移住し、その後香港に戻って医者になった。孫文は英語が堪能で何よりも本を読むことが好きであった。孫文は清に絶望し、革命家へと成長していくのである。
 1895年、広州で初めて蜂起したが失敗した。これ以後、孫文は清政府から睨まれ、中国にいることができなくなった。清政府は密偵を差し向け、アメリカでもイギリスでも孫文を捕まえようとした。
 孫文は日本・アメリカを拠点にしながら、革命の賛同者を募っていった。孫文が最も力を入れた仕事は資金集めである。資金がなければ、どんなに理念が立派であっても革命は成功しない。孫文は世界中で演説し、そして資金を集めた。
 それこそたくさんの人が孫文を応援した。その中に、宮崎滔天・犬養毅・頭山満などの日本人がいた。特に、宮崎はすべてにおいて孫文を援助した。
 孫文を指導者とする革命派は清政府に弾圧されながらも最後、革命を成功させた。孫文は世界中を回って革命運動を支えたのである。

 辛亥革命後の中国の歴史を振り返ると、中国は苦難の道を歩む。それでも、孫文は中国人にとって英雄であったのである。

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 写真は、横浜中華街にある関帝廟です。三国志でお馴染みの関羽を祀った廟です。孫文は、この廟の隣の学校を創立しました。ちなみに、関羽廟のご利益は、交通安全、商売繁盛、入試合格、学問だそうです。

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