三上義夫著佐々木力編「文化史上より見たる日本の数学」を読む

東京物理学校 幕末、幕府の長崎海軍伝習所で教官になったのが、オランダ人のカッテンディーケである。教え子の一人が勝海舟であった。
 伝習所では主に航海術・砲術・測量術などが教えられたのだが、カッテンディーケは教え子の日本人たちの数学の能力が高いのに驚いた。方程式や三角比をいとも簡単に理解したのであった。
 これと同じようなことを、アメリカから日本に布教に来たヘボンも経験する。ヘボンは医者であり、教育者でもあって、横浜で日本人に勉強を教えたのであるが、意外にも日本人の生徒たちは西洋の数学をやすやすと理解してしまった。はたして、江戸時代の日本人は数学が得意であったのか。
 江戸時代の数学までを和算という。実は、和算はある面では西洋数学を凌駕していた。和算を確立したといわれている関孝和は連立方程式を解く上で、行列式の考え方を用いている。西洋で行列式の概念が登場するのは、関よりかなり遅れてからである。関は円の面積の求め方も研究し、関の弟子の建部賢弘がこれを受け継ぎ、建部は円周率の値を小数点以下50位くらいまで正確に求めている。当時のヨーロッパでは円周率は小数点以下10位くらいしか正確には求められていなかった。
 こう書くといかにも和算はすごいものだと思われるが、和算は時代が明治に変わると消滅してしまった。明治以降、日本人の学習する数学は和算ではなく、西洋数学になった。 ではなぜ和算は消滅したのであろうか。その一つの理由が、和算が自然科学と結合しなかったからである。西洋数学が飛躍的に進歩した理由の一つが、数学が自然科学特に物理と手を取り合ったことである。微分積分を確立したニュートンは物理の研究の過程で微分積分を考え出し、その後、物理が進化するにつれて微分積分も進歩した。
 翻ってみるに、江戸時代の日本には自然科学などというものはなかった。西洋人にとって、自然とは恐いもので征服する対象であった。そのためには自然とは何かを見極めねばならなかった。だからこそ自然科学が発達したのである。日本の場合はどうかというと、自然と人間とは一身同体で、自然は敵対する対象ではなかった。そのため自然を客観視することもなく、江戸時代まで、英語のnatureに相当する語はなかった。自然は自然にという形で、おのずからという意味で使われただけである。自然科学が発達する素地がなかったのである。和算は独自の発展をしたが、学問になることはなかった。

 和算を文化史の中でとらえたのが科学史家の三上義夫である。三上の「文化史上より見たる日本の数学」は和算の歴史を概観したものである。和算の特質を見事にいいあてている。三上は日本では不遇の研究生活を強いられたが、彼の論文は世界的な評価を受けた。 三上は1875年に広島で生まれ、1950年に死んだ。高等学校を中退し、36歳のときに東京帝国大学文科大学の選科に入学している。選科では、あらかじめ決まっている科目を全部履修する本科と違って、特定の科目だけを履修すればよかった。本来の東京帝国大学卒とは違う。この学歴のため、いくら世界に認められた論文を書いても、三上は帝国大学の教授になることはできなかった。三上は自らもいっているが、学者としては勢力がなかったが、実力はあった。
 三上の和算に対する見方の特徴は、和算を芸または芸術ととらえていることである。確かに和算は芸であった。芸の優劣を競ったものであった。ある人が問題を出す。この問題に別の人が答を出す。そしてこの人が問題を出すという具合に問題の解きっこをするのである。答を出すと、答を算額にして神社に奉納したという。三上は和算が芸に過ぎないと卑下しているわけではない。三上は和算を文化としてとらえているのである。
 私が三上の話でおもしろいと思ったのは、芸術に優れた国は数学にも優れているということである。典型的な国がギリシャであり、その反対がローマ帝国である。ローマ帝国は芸術も駄目であり、そして数学も駄目であった。日本は芸術に優れていたのだから、数学にも優れていたに違いない。ただ、それが和算という形で深化しただけである。

 和算は廃れてしまったが、日本が世界に誇れる貴重な文化遺産であることには間違いない。

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 写真は、東京物理学校の建物(現:東京理科大学近代科学資料館)です。三上は東京理科大学で教授を務めていました。ひょとしたらこの建物に三上の足跡があるかもしれません。

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