大坪弘道「勾留(こうりゅう)百二十日」を読む

法務省 森鴎外は遺書を学生時代からの友人の賀古鶴所に送っている。その遺書の中で鴎外は、陸軍の栄典は絶対に取りやめ、自らは森林太郎として死に、墓には「森林太郎の墓」以外の文字を刻むことを禁じた。
 鴎外はこの世を去るにあたって、陸軍との関係を一切断ったのである。鴎外は陸軍の中ではナンバー3にあたる医務局長まで昇りつめた人である。鴎外は軍人であることに誇りを感じ、娘の友達に会うときにはわざわざ軍服姿になった。鴎外は軍服姿が自慢で、軍服姿の写真がたくさん残っている。
 陸軍の超エリート軍人であった鴎外にも、陸軍という組織との軋轢は存在した。文学者として著名になった鴎外は、陸軍の幹部に嫉妬され、種々の嫌がらせを受けた。「ヰタ・セクリアリス」が発禁処分を受けるや、鴎外は陸軍次官から譴責処分を受けた。鴎外は陸軍をやめようかと思った。
 鴎外の陸軍に対する思いはいかようなものであったのだろうか。注目すべきは、乃木大将自刃のあとに書かれた「阿部一族」である。「阿部一族」は忠誠を尽くした組織(藩)に裏切られて、阿部一族が殲滅される物語である。鴎外の陸軍に対する思いと「阿部一族」が重なっているのであろうか。

 元・大阪地検特捜部長大坪弘道の「勾留百二十日」は、重く、そして深く考えさせられる感動的な本である。私はこの本を読んで、個人と組織の問題について考え、鴎外のことを思い浮かべた。
 大坪は、検察の名誉のために、身を削るような努力をしてきたエリート検事である。このことは検察関係の人なら誰もが認める事実である。大坪は日夜、悪と戦い、正義を貫いてきた。大坪が担当した事件は数え切れないほどである。その事件の中には日本国中を震撼とさせた大事件も複数含まれる。大坪は特捜部長という最高の地位に昇りつめた。
 大坪は間違いなく検察の功労者である。その大坪が逮捕された。容疑は犯人隠蔽罪である。証拠を改竄した部下の罪を隠蔽したというのである。
 大坪の部下の前田検事が証拠改竄の容疑で逮捕され、国中がこの話題で持ちきりになり、検察は上を下へのパニック状態になった。「勾留百二十日」は大坪が犯人隠蔽罪の容疑で勾留されてから保釈されるまでの百二十日間のことが記されている。大坪は三畳の独居房に閉じ込められている間、日記をつけていた。「勾留百二十日」はこの日記がもとになっている。
 私は「勾留百二十日」を読んで、大坪の魂の叫び声を聞いた気がした。その文章は強く私の胸を打った。文章はそれを書いた人の全人格を表すものである。「勾留百二十日」を書いた大坪はまさに人間愛に満ちた誠実な人である。私は大坪弘道という人に魅力を感じ、大坪の無罪を確信した。大坪のような人間が、検察の信用を失墜させる犯人隠蔽をするはずがない。
 もし、前田検事が直接、大坪に証拠を改竄したとはっきり言っていれば、検察は世間から手ひどいバッシングにあっただろうが、事件はいい方向に収束したのではなかったかと思われる。それこそ、大坪は検察の名誉のために身を賭して戦ったのではないのか。その大坪を検察は人身御供にしたのである。検察は、組織の名誉を守るために大坪にすべての罪を着せて、幕引きを計ろうとしたのである。何とえげつないことを組織というものはするのであろうか。
 「勾留百二十日」の中で、大坪はなぜ、自分が罪を着せられたかを考えている。ただ、この本は大坪の検察への怨嗟の書ではない。大坪は今回の勾留を機に、自分の生き方、運命そして天意について思いを馳せている。私はどこかドストエフスキーの世界を垣間見る思いがした。

 私は大坪のような人間が検事であったことに日本の検察の健全性を感じ、そして誇りさえ感じた。もし、検察組織の犠牲になって、大坪が裁かれることになったら、それこそ検察という組織は根底から崩れるのではないかと「勾留百二十日」を読んで痛切に感じた。

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 写真は、法務省旧本館(中央合同庁舎6号館赤煉瓦棟)です。

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(2011/12/16)
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