山田邦紀・坂本俊夫共著「明治の快男児トルコへ跳ぶ」を読む

 1984年3月、イラン・イラク戦争は真只中であった。両国間で締結された住民居住地域への攻撃停止合意は破棄され、お互いの都市にミサイルが飛び交う事態になった。イランがイラクの首都バクダッドを攻撃すると、イラクはイランの首都テヘランを攻撃した。
 3月16日、イランの日本大使館は、テヘランに居住する日本人に国外へ脱出することを勧告した。そんな折、あの悪名高いイラクのフセインがとんでもないことを言い出した。3月19日午後8時30分を期して、イラン上空を飛行する航空機は民間機も含めてすべて無差別に攻撃すると言ったのである。
 時間は残り少なかった。テヘランの日本人たちは争って国外へ逃げ出そうとしたが、たび重なる攻撃で飛行機の便は少なくなり、また、外国の航空会社は自国民を最優先するために、多くの日本人は飛行機のチケットを手にいれることができなかった。
 日航機が救援に来られず、自衛隊機も来られないことがわかると、イランの日本大使館員たちは絶望の淵に立たされた。死を覚悟したものもいた。200人以上の日本人がテヘランに取り残されようとしていた。
 このとき、救世主が現れた。トルコ航空である。友人である日本商社のイスタンブール駐在員から相談を受けたトルコの首相がトルコ航空にテヘランに特別機を飛ばさせることを決断したのである。トルコ航空で、特別機を操縦するパイロットを募集したところ、全員が手を挙げたそうである。テヘランにいた日本人たちはトルコのおかげで死地を脱出することができた。
 私はNHKの番組で上に述べた場面を見て、涙が出そうになった。そして、情(なさけ)は人のためならずという諺をつくづく実感した。
 トルコ人は義理堅い人たちである。日本人から受けた昔の恩を永遠に忘れないでいてくれる。1890年、トルコの軍艦エルトゥールル号が日本訪問の帰途、紀州沖で遭難した。たくさんの乗組員が死亡したが、生き残った人たちもいた。生存者たちは紀州大島村に命からがら泳ぎ着いた。大島村の人たちはほぼ全員が遭難者の救出と生存者の介抱に全力をつくした。 
 日本は国を挙げて犠牲者を弔い、生存者の面倒を献身的にみた。各団体が義捐金を募集し、トルコに送った。トルコ政府並びにトルコ人は日本人のこれらの行為に深く感謝し、現在に至るまで感謝の気持を忘れないでいる。
 この遭難事故をきっかけに日本とトルコの交流の太いパイプになったユニークな男がいる。山田寅次郎である。

 山田邦紀・坂本俊夫共著「明治の快男児トルコへ跳ぶ」は山田寅次郎の生涯を描いた評伝である。日本とトルコとのつながりが詳しく書かれており、特に、エルトゥールル号の遭難事故は微に入り細を穿って書かれている。
 寅次郎は1866(慶応2)年、沼田藩士の次男として生まれた。16歳で茶道・宗徧流七世山田宗寿の養子となり山田姓になる。
 寅次郎は幸田露伴の友人であっただけに、幅広い教養をもっていた。若い頃は主に出版関係の仕事をした。寅次郎の人生の方向を決定づけたのはエルトゥールル号の遭難事故である。義侠心に富む寅次郎は義捐金を集めそれをわざわざトルコまで持っていった。当時、日本とトルコは国交があったわけではないが、寅次郎は義捐金をトルコ政府に渡したあと、トルコに住みついた。
 寅次郎はトルコの商品を日本に紹介したり、逆に、日本の商品をトルコに紹介したりする貿易業を営んだ。寅次郎はトルコの社会に深く馴染み、トルコという国を愛した。
 寅次郎はトルコ政府とのパイプが太く、大使のような役割もした。日本から政治家や徳富蘇峰のような要人がくると、寅次郎が案内役を勤めた。日本とトルコの関係は寅次郎抜きには考えられなかった。それほど寅次郎はトルコにおいて大きな存在であった。

 寅次郎は日本とトルコを何度も往復し、日本とトルコの架け橋になった。現在の日本とトルコの友好関係は寅次郎がその土台を作ったといっても過言ではない。寅次郎の生涯はまさに痛快であった。

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旧山王草堂に建っている徳富蘇峰像 写真は、東京都大田区にある旧山王草堂邸に建っている徳富蘇峰像です。主は徳富蘇峰です。案内板を要約すると、蘇峰は、1924(大正13)年に山王草堂を建て、1943(昭和18)年に熱海伊豆山に移るまで起居し、邸内には蘇峰の収集した和漢書十万冊に及ぶ書籍類を所蔵していた成簣堂文庫(せいきどうぶんこ)や「近世日本国民史」などを執筆した一枝庵(いっしあん)と蘇峰の次男である徳富萬熊(とくとみまんくま)の住居として建てられた木造二階建の建築牛後庵(ぎゅうごあん)が、現在は存在していませんが、当時建てられていたと推測される地点に旧跡として標柱が建ててあると書いてありました。
 山王草堂の近くには「人生劇場」でお馴染みの尾崎士郎邸があります。

明治の快男児トルコへ跳ぶ―山田寅次郎伝明治の快男児トルコへ跳ぶ―山田寅次郎伝
(2009/01/10)
山田 邦紀、坂本 俊夫 他

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Tag : 明治の快男児トルコへ跳ぶ

山田義雄「花は一色にあらず」を読む

日本郵船歴史博物館 日本の百貨店は明治37年に創業された三越百貨店を嚆矢(こうし)とするが、創業まもない三越百貨店はなかなか消費者の心をつかむことができなかった。百貨店はそれまでにないまったく新しい業態であったからだ。
 三越百貨店を世間に広く知らしめ、その経営を磐石にしたのは、大正2年に会長に就任した日比翁助(おうすけ)である。
 日比はいかに百貨店を世間に認知させるかを必死に考え、<今日は帝劇、明日は三越>というキャッチフレーズをあみ出した。このキャッチフレーズは人々の耳に心地よく響き、三越は帝劇と同じくらいに高級かつ社交場というイメージを人々に植え付けた。以来、三越の名はブランド化し、日本を代表する百貨店としてその繁栄は現在まで続いている。 日比は慶応義塾出身であるが、生まれは九州久留米である。日比は慶応に入学する前に、久留米の北汭(ほくぜい)義塾という私塾で学んでいる。塾長は江崎済(えさきわたる)という高名な漢学者であった。この塾で、日比と机を並べた同窓に牛島謹爾(きんじ)がいた。この牛島こそ、将来アメリカで「ポテトキング」と呼ばれた男であった。

 山田義雄著「花は一色にあらず」は牛島の生涯を描いた評伝小説である。たいへん感動的な小説である。
 私は恥ずかしながら、この小説を読むまで牛島謹爾という人間を全く知らなかった。読後、牛島の人間としての器の大きさに驚愕した。明治の世には、牛島のように、現在の私たちには広く知られていないが、途方もなくスケールの大きな人間がたくさんいたに違いないとつい思ってしまった。
 牛島のことは戦前の小学校の教科書には載っていたらしいが、戦後の教科書には扱われていない。おかしなことである。牛島のような人間の生き方を教えることが最高の教育だと私には思えるのだが。現在、日本に昔のような偉大な政治家・実業家が出ないのはまさしく貧困な教育のためであろう。
 牛島の人生は大きく前半と後半の二つに分けられる。前半は久留米の農家の三男として生まれ、成長してアメリカに渡り、農業家として大成功するまでである。後半は、アメリカで起こった排日の運動に対し体を張って戦い、ついに63歳でこの世を去るまでである。 牛島は生まれつき頭がよく勉強好きであった。両親は何とか勉強を続けさせたかったが、中学校を中途でやめ、家の仕事を手伝った。しかし、学問の道をあきらめきれず、江崎済の北汭義塾で学ぶことになった。
 牛島は江崎に強く感化され、将来は漢学者になろうとするが、東京に出て、アメリカに行くことに決めた。アメリカで何をするという目標もなかったが、サンフランシスコに渡り、農業をやることを決心した。
 農業をやろうと決めてからの牛島は、寸暇を惜しんで働き、やがて自分の小さな農地を持つ。それから、誰も欲しがらないデルタ地帯(湿地帯)を買い取り、そこを開拓して見事な農地に仕立てた。一度は破産したが、それも乗り越えて、アメリカで一番といってよいほどの大農場を経営するようになった。アメリカ人のほとんどが、牛島の農場でとれるポテトを食べた。牛島は大成功した。
 牛島が移住した頃のアメリカ社会と日本人移民との関係は良好であったが、二十世紀になると、アメリカ社会は日本人移民を嫌い出し、日本人移民は土地を持つことを禁じられるまでになった。
 牛島は日米の架け橋になるべく、私財を投げ打って、日本とアメリカのために東奔西走したが、その志半ばに斃れた。

 現在の日本とアメリカの友好関係は、過去のアメリカ日系人の血と涙と汗の結晶の上になりたっていることを私は痛切に感じた。

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ブリヂストン東京工場 写真上は、過日に見学した日本郵船歴史博物館です。博物館の中で「男爵いも」についての説明文を目にしたので、いい機会なので少し書いてみます。「男爵いも」は、男爵川田龍吉(かわだりょうきち、安政3(1856)年 - 昭和26(1951)年、土佐藩出身)の名をとって命名されました。川田は英国留学後に三菱製鉄所、日本郵船を経て、横浜船渠会社取締役、社長になります。その後、函館船渠会社に移り北海道に渡りました。自営の農場でアイリッシュ・コブラーという品種の馬鈴薯を栽培し普及を図り、今では肉じゃがやポテトサラダの料理にはなくてはならない「男爵いも」になりました。
 写真下は、株式会社ブリヂストン東京工場です。私にとって、久留米出身者としてすぐに思い浮かべるのはブリヂストンの創業者石橋正二郎翁と私の大学時代にデビューした歌手の松田聖子さんとJRAの師走のG1レース「有馬記念」です。ブリヂストン東京工場は大学時代に担当教授に連れられて見学したことがあり、そのときに頂いたパンフレットを読んで記憶に残っていました。松田聖子さんの「青い珊瑚礁」は海水浴に行った鵠沼海岸でひっきり無しにかかっていたのでその後も興味を持ってテレビを見ていました。「有馬記念」は社会人になって競馬に関心を持ち競馬について調べたことがありました。有馬記念は、旧久留米藩の当主で農林大臣も務め、中央競馬会の理事長であった有馬頼寧(ありまよりやす)の名をとって付けられたいうことでした。久留米は著名人を多く輩出している地域だとあらためて思いました。

花は一色にあらず―アメリカで「ポテトキング」と呼ばれ日本人の心を伝えた牛島謹爾花は一色にあらず―アメリカで「ポテトキング」と呼ばれ日本人の心を伝えた牛島謹爾
(2008/10/07)
山田 義雄

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Tag : 花は一色にあらず