ハーバート・G・ポンティング 長岡祥三訳「英国人写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本」を読む

日米和親条約締結の地碑 自らの国の歴史をいたずらに美化するのはおこがましいが、かといって、根拠もなしに卑下するのはみっともないことである。
 江戸時代・明治時代のことを、どうも多くの日本人が確かな理由もなく、雰囲気で蔑んでいるところがある。学校の歴史の教科書では、「江戸時代・明治時代はいい時代であった」という記述はただの一言もない。日本人のほとんどが刷り込みをされていて、戦前の日本はとかく暗黒の時代だったと思われがちである。
 「日本の文化・伝統を守れ」とは、誰もが唱えるスローガンであるが、果たして日本の伝統・文化とは何であろうか。過去のよき風習を挙げるとすぐ否定される。そのいい例が、「村社会」である。現在において、「村社会」は否定的な意味で使われ、「村八分」は人権蹂躙の最たるものであると弾劾される。ところが、私が畏敬する民俗学者の宮本常一の著作を読むと、村社会とはいわゆる互助組織で、弱者でもルールを守っていれば安心して生きられる社会のことであった。決して村社会とは閉鎖的ではなかったのである。これに似た例は数え切れないくらいある。
 結局、現代の私たちが、過去の日本を振り返って、暗いイメージを持つのは、過去の日本の真の姿を知らないからだ。真の姿とは、利害関係がない第三者が客観的に見た姿のことをいう。外国人(西洋人)が見た日本の姿ともいえる。この姿を踏まえて、過去の日本を振り返ることが重要なのである。

本覚寺に建っている岩瀬忠震石碑 ハーバート・G・ポンティング 長岡祥三訳「英国人写真家の見た明治日本」は、日露戦争の頃に日本を訪れたイギリス人の写真家の日本回想記である。あまりにも日本のことを褒めてくれるので、どこかこそばゆい感じもしたが、日本人である私自身気が付かなかったことを教えてくれて、たいへん有意義な本である。ポンティングの日本礼賛には意図的な誇張はなく、素直な気持であったろう。
 まず、私が最も感動したのは、生麦事件において薩摩藩士に殺されたリチャードソンについて、次のように記述されていることだ。
<その頃起きた事件の中でも、最も悲惨な事件は「リチャードソン事件」(生麦事件)として知られているが、この事件はこれに関与した外国人が、自分の馬鹿げた行動によって、自ら悲運を招いた責めを負うべき事件であったために、なお一層遺憾な出来事であった。>
 ポンティングは殺されたリチャードソンと同じイギリス人であるが、リチャードソンに同情などしていないし、薩摩藩を責めてもいない。それ以上に、悲運の責めはリチャードソン自身が負うべきだとも述べている。実はこれが、当時のイギリス人の見方であった。事件当時、イギリスの新聞はルール無視のリチャードソンを責めた。リチャードソンはいわくつきの不良商人で、殺されたのはリチャードソンの自業自得であると報道されたのである。ところが、日本の歴史家たちは、一方的に薩摩藩の封建的残虐性を指摘するばかりである。
 ポンティングは日本の自然・職人そして女性たちの写真をたくさん撮った。ポンティングは写真撮影のために、危険を冒して、富士山や浅間山に登った。そして、京都では、保津川の急流の船下りを楽しんでいる。ポンティングは船頭の神がかり的な手腕を驚愕の目で見た。京都の訪問では、寺を見学する傍ら、名工たちの仕事振りも見た。特に、陶器・象嵌細工・七宝焼などは世界最高の工芸だと認めている。
 ポンティングが口を極めて褒めているのは、日本の女性たちである。ポンティングが軍の病院を訪れ、その病院で、日露戦争で負傷した兵隊を甲斐甲斐しく手当をしている看護婦たちを天使を見るようだといっている。また、旅行先で泊まる宿屋の女中たちが、母親以上にやさしく気を配ってくれることに感激している。
 ポンティングの目には、日本は楽園に見えた。

 江戸時代幕末から日本を訪れた西洋人は多く、たくさんの日本見聞記が書かれた。その見聞記に共通しているのが、日本の子供たちの顔には笑顔が溢れていたことである。ポンティングも幸福そうな子供の写真をたくさん残している。

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 本文の写真上は、横浜に建っている日米和親条約締結の地碑です。案内文には次のように書いてあります。
< 安政元年(1854年)2月から3月にかけて、日米代表が横浜村の海岸で会見、和親条約を結んだ。これは神奈川条約ともいわれ、日本の開国を促し、本市の誕生の遠因ともなった。歴史的舞台となった応接所のあとは現在の神奈川県庁の付近である。>
 本文の写真下は、横浜本覚寺に建っている岩瀬忠震の石碑です。本覚寺は横浜開港時のアメリカ領事館となった場所です。生麦事件で負傷したリチャードソンは本覚寺に担ぎ込まれました。リチャードソンを診察したのはヘボン博士です。
 岩崎は、幕臣であり外交担当として、列強との折衝に尽力しました。安政5年(1858年)には、アメリカの総領事タウンゼント・ハリスと交渉して条約締結に臨み、日米修好通商条約に署名しました。岩瀬はハリスを立腹させるなどアメリカの要求に毅然とした態度で交渉しました。岩瀬はあくまでも神奈川開港を主張していました。

横浜居留地フランス山 写真左は、横浜居留地にあるフランス山の跡地です。現在は港の見える丘公園として整備されています。フランス山については次のように案内されています。
< 1862年9月(文久2年8月)に起きた生麦事件など攘夷派による外国人殺傷事件が相次いたためフランスは、横浜居留地に住む自国民の保護と居留地の防衛を目的に、イギリスとともに軍隊の駐屯を決定しました。
 1863年6月下旬(文久3年5月)フランス海兵隊が横浜に到着し、山手居留地185番地に駐屯を開始、7月、8月頃、駐屯軍兵舎が186番に3棟建設されました。1875年(明治8)年3月に撤退するまでの約12年間、部隊の交代を繰り返しながら駐屯を続けました。これがフランス山と呼ばれるようになった由来です。・・・・・>

横浜正金銀行旧本店 開港から明治維新までは9年間あります。この9年間の貿易高を見ると、輸出額で2.5倍、輸入額ではなんと13倍に膨れ上がりました。今の言葉でいえば貿易赤字が毎年続いていたのです。貿易は外国人に手を握られて日本人は手が出せませんでした。当然、利益のほとんどは外国人に持っていかれ、外国から綿織物、毛織物が入り、日本の産業であった農業は大きな打撃を受けました。それによって日本国内の経済はじり貧となり、明治維新を迎えます。明治維新になったいえすぐには改善はしませんでした。明治維新は薩長がすべて行って成し遂げたものとして捉えているとしたら大きな間違いです。影には庶民の動きがありました。
 写真すぐ上は、横浜正金銀行旧本店建物です。正金とは銀貨のことを指します。幕末から明治時代中頃まで貿易の決済に使用されたのは日本で最も信用のある銀貨でした。横浜正金銀行は、外国為替を外国人に牛耳られていたので不便・不利を解消するために商人・華族・金融業らが出資して設立したのが始まりです。この新銀行は、福沢諭吉や大隈重信のバックアップで日本政府が公認し支援する体制が整いました。横浜正金銀行は世界の主要都市に支店を開設して日本の貿易を力強く後押ししました。日清戦争を境に横浜正金銀行は世界の外国為替銀行として名を馳せていきます。

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(2005/05/11)
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村上文昭「ヘボン物語 明治文化のヘボン像」を読む

明治学院に建っているヘボン博士像 現在、私たちが使っているローマ字はヘボン式ローマ字と呼ばれる。ヘボンとは人の名前であり、ヘボンは幕末に日本に来た。ヘボン式というぐらいだからヘボンが日本に来た当時には、いく種類かのローマ字があった。ヘボンがそれらを整理して体系化し、そして普遍化したのである。
 ヘボンは何もローマ字を体系化するために日本に来たわけではない。ヘボンは医者であったが、宣教師として日本に来たのである。
 ヘボンの名はヘボン式ローマ字で有名であるが、ヘボンは日本滞在中それこそたくさんの功績を残した。まず挙げられるのは教育である。ヘボンは病人の診察・宣教の傍ら、塾を開いて日本人に西洋の知識を教えた。その塾をヘボン塾という。英語・歴史・地理・自然科学・医学などを教えた。司馬遼太郎もヘボンのことを小説「花神」に書いているが、ヘボンは日本人の数学の力が優れていることに驚いている。
 ヘボン塾はその後、紆余曲折を経て、明治学院大学になる。ヘボンは明治学院の初代総理(学長のこと)になっている。島崎春樹こと島崎藤村は明治学院の第1回卒業生で、卒業証書をヘボンからもらっている。ヘボンは明治学院に多額の寄付をし、明治学院はその寄付でヘボン館という寄宿舎を建てた。ヘボン塾は男女共学であり、女子部が成長してフェリス女学院大学になった。
 ヘボンは外国人が日本語を理解する助けとなるように、日本初の和英辞書を作った。この和英辞書を作る過程において、ヘボン式ローマ字を生んだのである。
 ヘボンは医者としても活躍し、日本に西洋医学を普及させた。横浜にある横浜市立大学医学部ではヘボンの功績を顕彰している。
 ヘボンは明治日本の文化向上になくてはならない外国人であった。日本人にとって大恩人というべきアメリカ人であったのだ。

旧神奈川宿にある成仏寺 村上文昭の「ヘボン物語 明治文化のヘボン像」は、ヘボンの人となりと業績を詳しく書いた本である。ヘボンが日本のためにいかに尽くしたかがよくわかる。
 ヘボンが夫婦で、ニューヨークから日本に来たのは1859(安政6)年である。神奈川に上陸し、その地の成仏寺に住むことになった。当時は、攘夷運動が絶頂の頃で、翌年の1860年には井伊直弼が殺されている。
 ヘボンは身の危険を感じながらも、成仏寺で病院を開いた。この成仏寺の近くで、生麦事件が起こり、傷ついた2人の英国人が成仏寺に担がれ、ヘボンが治療にあたった。ヘボンは日本人にとっては、忌み嫌うべき西洋人であったが、すぐに回りの日本人から尊敬されるようになった。
 ヘボンは病気の日本人を無料で診察した。その治療はまさに神がかりであった。それまで治らなかった病気が治ったのである。特筆すべきは、岸田吟香とヘボンの出会いである。岸田は明治を代表する教育者・文化人・実業家であるが、元幕臣で、攘夷思想の塊の人間であった。岸田は目を患っていたが、医者に診てもらってもまったく治らなかった。あるとき、岸田は人に紹介されてヘボンの病院を訪れた。ヘボンは岸田の目を治療した。すると、数日して岸田の目は完治した。岸田は奇跡を見る思いだったに違いない。岸田はその後、西洋人に対する偏見をなくし、ヘボンの助手となり、いろいろとヘボンを助けた。 ヘボンは教育者として、数々の有為の人間を育てた。岸田だけでなく、大村益次郎・高橋是清・林董などを教育した。

 ヘボンもその妻クララもまさにキリストそしてマリア様のようだった。長年邪教としてキリスト教を否定した日本人は、ヘボン夫妻の行動を見て、キリスト教とは何かを始めて知った思いだったろう。日本にキリスト教が根付いたのは、ヘボンのような西洋人がいたことは間違いのないことだ。

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生麦事件の碑 本文中の写真上は、東京白金の明治学院大学構内に建っているヘボン博士像です。
 本文中写真下は、旧神奈川宿にある成仏寺です。成仏寺の案内版には次のように書いてあります。
< ・・・(中略)・・・安政6(1859)年の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだという。ヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成した。また、ブラウンは聖書や賛美歌の邦訳に尽力した。> 
 写真すぐ上は、生麦事件の碑です。「名著を読む」では、これまでに生麦事件については、ハル・松方・ライシャワー 広中和歌子訳「絹と武士」大仏次郎「霧笛」十返舎一九「東海道中膝栗毛 初編」に書きましたので参考にしてください。
横浜市中区にあるヘボン博士邸宅跡 写真左は、横浜市中区に建っているヘボン博士邸跡の石碑です。案内板に次のように書いてあります。
< 開港とともに来日した宣教師の1人で神奈川成仏寺に3年仮寓、文久2(1862)年冬、横浜居留地39番に移転、幕末明治初期の日本文化の開拓に力をつくした。聖書のほんやく。和英辞典のへんさん、医術の普及などがそれである。昭和24(1949)年10月記念碑が邸跡に建てられた。> 
東京築地に建っている明治学院発祥の地碑 写真左は、東京築地に建っている明治学院発祥の地碑です。石碑には次のように彫られています。
< 明治学院は1877年(明治10年)ここ旧築地17番地に開設された東京一致神学校を基とする。これを記念しこの碑を建てる。>
 碑の近くには青山学院、立教学院、女子学院の発祥の地碑があります。時代が少し違いますが慶應義塾発祥の地碑や芥川龍之介生誕の案内板もありました。
明治学院チャペル(礼拝堂) 写真左は、明治学院チャペル(礼拝堂)です。島崎藤村の自伝小説「桜の実の熟する時」には、藤村が在学したと当時の様子が描かれています。次のような書き出しです。
< 日陰になった坂に添うて、岸本捨吉は品川の停車場手前から高輪へ通う抜け道を上って行った。客を載せた一台の俥が坂の下の方から同じように上って来るけはいがした。石ころに触れる車輪の音をさせて。思わず捨吉は振り返って見て、「お繁さんじゃないか。」と自分で自分に言った。・・・・>
 ブログ「名作を読む」には、島崎藤村作品の読書感想文を多数掲載しています。参考にしてください。

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