エドゥアルド・スエンソン「江戸幕末滞在記 若き海軍士官の見た日本」を読む

神奈川県庁から大桟橋を撮影

 明治になって、日本の陸軍はドイツ、海軍はイギリスの指導を受けて拡大した。陸軍軍医だった若き森鴎外はドイツに留学した。海軍では食事もイギリス式でフォークとナイフを使ったらしい。
 陸軍も海軍も明治になって新しく作られたものではない。いずれも幕府が土台を築いていた。明治政府は幕府が築いた遺産を継承し、より近代的な軍隊にしたのである。このとき、棲み分けができた。薩摩藩は海軍を、長州藩が陸軍を牛耳るというものである。幕府の海軍を創設した勝海舟はこの薩長の縄張り争いを見て、将来かならず国をだめにすると予言した。そして、実際にそうなった。戦前、日本が奈落の底に落ちた最大の元凶が、陸軍・海軍の利権争いであったことは論を俟たない。
 幕府が近代的な陸軍を創設するに当たり、指導を仰いだのはイギリスでもドイツでもなく、フランスであった。幕末の幕府と反幕府との対立の中で、幕府の味方をしたのはフランスであった。フランスは幕府に巧みに擦り寄って、幕府の信用を勝ち取った。幕府は本気でフランスから借金をして、薩長を中心とする反幕府勢力を一掃しようとした。そのため、当時のフランスのロッシュ公使を含めた外交官が頻繁に幕府と会合をもった。時の将軍徳川慶喜はフランスに好意をもち、大阪城でフランスの外交官たちと会った。その外交官たちの中にはフランス軍の軍人もいた。その一人がエドゥアルド・スエンソンという若い軍人であった。スエンソンはフランス人ではなく、デンマーク人であった。
 スエンソンはフランス軍の軍人になると、1866年に日本を訪れた。彼は横浜に滞在し、そして大阪に行った。そのときに目にしたものを、帰国後、雑誌に発表した。それを纏めたのが「江戸幕末滞在記 若き海軍士官の見た日本」である。
 スエンソンは1867年に帰国すると、その後、ビジネスマンとして日本に再来日した。ビジネスを通じ、スエンソンは日本と緊密な関係を築き、後年、日本政府から勲章をもらっている。

日米和親上の跡地

 「江戸幕末滞在記 若き海軍士官の見た日本」はスエンソンが1866年に横浜に上陸し、1867年、徳川慶喜に謁見するまでのことを書いた日本滞在記である。
 この本は大きく第一部と第二部に分かれている。第一部は横浜の描写が中心で、第二部は徳川慶喜に謁見するために訪れた大阪の描写が中心である。
 横浜の描写はかなり詳しい。微に入り細を穿って横浜の町のことを書いている。遊郭の岩亀楼のことまでも書いている。幕末の横浜の町をこれほど詳しく書かれた本は他にはないのではないか。
 スエンソンはかなりシビアに日本を見ている。よいところも悪いところも忌憚なく書いている。その姿勢は日本人とは果たしていかなる人種かと探究しているようである。スエンソンが日本人に対して異常な興味を抱いているのが明らかだ。
 スエンソンは日本人の勤勉さ・正直さ・誠実さを美点として捉え、逆に混浴や女性の身持ちの悪さなどを欠点として挙げている。そして、日本人の宗教に対しての節操のなさにあきれている。どれも深く描写している。
 この本の圧巻はやはり大阪城の白書院で謁見した徳川慶喜の描写である。徳川慶喜はスエンソンの目から見て、かなり高貴に見えた。しかし、徳川慶喜は気さくでいろいろな質問をしたという。この描写に出会うと、スエンソンは紛れもなく、歴史の生き証人という感がしてくる。
 謁見後、スエンソン一行はフランス料理をご馳走になったという。幕府側の人間もぎこちなくフォークとナイフを使った。

 外国人の書いた幕末・明治の日本滞在記でかならず言及されるのが、日本人の子供の可愛いさである。スエンソンも子供の可愛いさを激賞している。

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Tag : 江戸幕末滞在記 若き海軍士官の見た日本 エドゥアルド・スエンソン