近藤富枝「馬込文学地図」を読む

大森 満福寺 するすみ像


 私にとって大森といえば、まず思い浮かぶのは、あの谷﨑潤一郎の名作「痴人の愛」の譲治とナオミが愛人関係となり大森に住んだことである。この作品は私にあまりにも強烈な印象を与えたので、大森といえば谷﨑というふうに考えるようになった。ただ、谷﨑がなぜ大森と接点があるのかには考え及ばなかった。
 もう四、五年前のことだが、中国と韓国が日本に対してそれまで以上に歴史問題で病的な難癖をつけるようになったとき、私は無性に三島由紀夫の本が読みたくなった。それでもあきたらなくて、三島由紀夫の住んだ家と多摩霊園にある三島の墓に行くことにした。 三島の住んだ家は大森正確にいうと馬込にある。もう廃屋になって寂れていたが、西洋風の立派な家で、庭には白御影石の裸の男の像があって、いかにも三島らしいと思った。門には表札がまだかかっていた。それには「三島由紀夫」と書かれていたのには驚いた。同時に、まだこの家に三島が住んでいるようで心が温かくなった。

大森 三島由紀夫邸


 三島の家に行ったとき初めてわかったのだが、大森にはたくさんの著名な文人が住んでいた。さながら大森文士村といってよい風情である。当時の文士たちには、大森は有名だったに違いない。
 大森に文士が住むようになったのは大正の後半で、それから昭和の戦争が始まる頃まで大勢の文士たちが大森に居ついた。三島もその余韻で、昭和三十年頃に大森に住むようになったのであろう。三島の才能を高く評価し、三島を世に送りだした川端も大森文士村の住人であった。

大森 尾崎士郎旧邸の案内板

大森 川端康成旧邸跡の案内板


 近藤富枝の「馬込文学地図」は大森文士村に住む文人たちのつながりを事実と取材に基づいて赤裸々に描いた作品である。この作品は「本郷菊富士ホテル」「田端文士村」に続くもので、いわゆる空間で区切った文壇史の掉尾を飾る作品である。
 田端文士村の村長は芥川龍之介であったが、大森文士村の村長といえばやはり尾崎士郎であろう。尾崎の住んだ家は現在も残っている。平屋で庭の広い感じのいい家である。尾崎は大森の中を転々と場所を変えたが、初めは最初の妻の宇野千代と住んでいた。
 尾崎は豪放磊落かつ破天荒な人間で、昼間から人を集めて酒を飲んだ。妻の千代は金もないのに酒・肴の用意をした。また、尾崎は義理人情に篤い人で、強きを挫き、弱きを助けるタイプで、とくに弱者の面倒をよく見た。そのため、尾崎の回りには人がたくさん集まった。
 今回この作品を読んで気付いたことだが、尾崎と川端が非常に仲がよかったことである。尾崎は川端の気を許した貴重な人間の一人だったのである。尾崎が文壇で足場を固めたのは川端の援助があったからだといっても過言でない。川端は尾崎の作品を評価し、文芸時評で尾崎を褒め讃えた。
 私は作風上、川端と尾崎とは対極にある人間だと思っていたが、二人に深い付き合いがあるとは意外であった。
 尾崎士郎・宇野千代夫婦、川端康成の他に、大森文士村の住人には、室生犀星・広津和郎・倉田百三・山本周五郎・近松秋江・萩原朔太郎・三好達治・小島政二郎・徳富蘇峰・子母澤寛・村岡花子などがいる。萩原朔太郎は夫婦で住み、妹の愛子も同居していた。愛子はたいへん美しく奔放で、回りからちやほやされ、いろいろと浮名を流した。谷﨑潤一郎とも交際があったらしい。
 この作品は、大森文士村の文士たちの生態をリアルに描いている。特に、男と女の関係の描写は卓抜である。宇野千代の男関係そして萩原朔太郎の夫婦関係はたいへん興味深く描かれている。

 昔の文士たちは特異な存在であった。一般社会とは相容れない人間たちは徒党は組まないにしろ、寄り集まるのであろう。

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◆ 川端康成 「雪国」「伊豆の踊子」「美しい日本の私」
◆ 三島由紀夫「午後の曳航(えいこう)」「宴のあと(うたげのあと)」「豊饒の海 第一巻 春の雪」「豊饒の海 第二巻 奔馬(ほんば)」「豊饒の海 第三巻 暁の寺(あかつきのてら)」「豊饒の海 第四巻 天人五衰(てんにんごすい)」「若きサムライのために」

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近藤富枝「田端文士村」を読む

田端文士村記念館


 芥川龍之介、やはり偉大な作家である。私は好きな作家の作品は繰り返し読む。夏目漱石も森鴎外もほとんど全作品を繰り返し読んできた。
 芥川の作品もよく読み返すが、それは限定されたものである。「鼻」「芋粥」「トロッコ」「蜘蛛の糸」などの初期作品は繰り返し読み返すが、「歯車」「或る阿呆の一生」「河童」などの後期の作品は、若いときに一度読んで以来、一切読んでいない。どうしても読み返す気にならないのである。
 芥川の初期の作品を読み返すとき、私はつねに「このような作品を書き続けていれば、芥川も自殺することはなかったのに」と思う。芥川の自殺と後期の作品がどうしてもリンクしてしまうのである。
 芥川は同じ自殺をした太宰治とは全く雰囲気が違う。太宰には死ぬ寸前までユーモア精神があった。死ぬ直前まで書き続けた「グッドバイ」は最高の皮肉を込めたユーモア小説である。太宰は健康な精神のもとで自殺をしたのである。芥川の自殺には健康のかけらもなく、あるのは狂気だけだと思い込んでいた。
 坂口安吾は芥川の甥と知り合いで、芥川の死後、芥川の書斎を訪れたことがある。そのとき、安吾が驚いたのはその部屋の異常な暗さであった。安吾は何度も芥川の書斎がどうしようもなく暗かったことを口を極めていっている。この安吾の言葉は私には決定的であった。私は芥川の作品とは距離を置くようになった。
 果たして芥川は本当に暗かったのか。死後の書斎だけが暗かったのか。今回、近藤富枝の「田端文士村」を読んで、私はいささか衝撃を受けた。実際の芥川は私のイメージしていたものよりかなり違っていたようだ。

田端芥川龍之介旧居跡の案内板


 「田端文士村」は、「本郷菊富士ホテル」の続編のような作品である。二つの作品ともにある限られた空間に住んでいる文士を中心にした文化人の親交を描いている。
 芥川は田端に住んでいた。芥川が住む前から田端が文士村であったわけではない。芥川が住み始めてから、文士たちがぞくぞくと住みついたのである。
 明治の末の田端は畑と野原だけで、その中を川が流れているという田舎そのものであった。現在では、田端は東京のど真ん中にあるといってもよいが、当時は、東京の郊外であった。
 田端に初めて住みついた文化人は陶芸家の板谷波山であり、波山はここに窯を築いた。その後、多くの美術家が住みつき始め、田端はさながら美術村に成長した。そして、大正三年に、芥川龍之介一家が移り住んだ。芥川が二十二歳のときである。
 田端に住んでから二年後の大正五年に、芥川が「新思潮」に書いた「鼻」が夏目漱石から激賞され、芥川は新進作家として持て囃され、まもなく大家のごとき者になった。それにつれて、田端には文士たちが住みついた。田端村の代表的な作家、詩人をあげると、芥川龍之介を筆頭に室生犀星、萩原朔太郎、瀧井孝作、久保田万太郎、中野重治、堀辰雄、佐田稲子、押川春浪、小林秀雄、菊池寛などがおり、片山潜、平塚らいてうなども住んでいた。
 芥川の書斎は澄江堂と呼ばれ、多くの文化人たちが集まり、サロン化していた。特に、芥川は室生犀星とは親しく、頻繁に交流した。
 芥川は田端文士村の村長というよりは王様であった。芥川は江戸っ子で、人の面倒をよく見、そして茶目っ気たっぷりで、愛嬌があった。多くの人が芥川を慕った。
 芥川は常日頃、自殺をすると明言していたが、誰も信じなかった。しかし、昭和二年七月に芥川は自殺した。その後、急速に田端文士村は寂れていった。

 現在の田端は芥川の住んでいた頃とすっかり変わっているが、駅から芥川の家まで通ずる坂道は今も残っている。
 「田端文士村」を読んだ後、私は無性に芥川の全作品を読み返したくなった。

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◆ 芥川龍之介 「蜘蛛の糸」「杜子春」「トロッコ」「鼻」「芋粥(いもがゆ)」「地獄変(じごくへん)」「藪(やぶ)の中」



 

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