白崎秀雄「鈍翁・益田孝」を読む

日本橋室町旧三井本館 明治の日本を代表する二大財閥が三井・三菱であることに異論を唱える人は誰もいないはずである。
 三井・三菱は明治に財閥となり、両者は規模拡大に鎬を削った。三井は元禄期に創業され、呉服業・両替商を中心にして業容を拡大し、三菱は明治になって岩崎弥太郎に創業され、海運業を中心に拡大した。三井・三菱は折りにふれてぶつかり、お互いにライバルというより仇敵といった存在であった。

 三井・三菱はすさまじい勢いで事業を拡大していったが、三菱はつねに三井の後塵を拝し、三菱は三井を追い越すことができなかった。なぜ三菱は三井を追い越すことができなかったのか。理由はいろいろあるが、大きな理由は三井が三井物産という世界を股にかけた貿易会社を擁していたからである。三井物産は三井財閥の強力なエンジンの役割をした。何も三井物産は三井財閥のエンジンばかりではなく、新生近代日本が成長するためのエンジンでもあった。近代日本が産業立国になる上で、財閥特に三井・三菱の果たした役割は言葉では言い尽くせないほど大きい。

 坂本龍馬は薩長同盟を成立させる上で重要な働きをしたことで、歴史上のヒーローとして扱われているが、私は龍馬のすごさは、薩長同盟の功労者というよりも龍馬の先見性にあると思っている。龍馬の将来の夢は政治家になることでなく、世界を相手に貿易業をやることであった。海援隊はそのために組織されたものである。龍馬亡き後、龍馬と因縁浅からぬ岩崎弥太郎が海運業で成功し三菱を作ったのも、龍馬の影響がないとはいえない。龍馬の遺志を継いだ人はたくさん輩出し、近代日本の礎を築いた。さしずめ三井物産を創立した益田孝は龍馬の申し子といえるような存在であった。


一橋大学に建っている校長をつとめた矢野二郎像 白崎秀夫の「鈍翁・益田孝」は益田孝について書かれた少し変わった本である。生まれてから死ぬまでを時系列的に書いた評伝とは違う。益田が催した茶席を中心にして書かれたものである。
 白崎は作家であると同時に美術評論家でもある。白崎は茶器などの美術品を研究しているうちに、鈍翁という名前に何度となくぶつかった。白崎は調べていくうちに、鈍翁とは益田孝のことで、益田は茶器だけでなく、絵・書・仏像など国宝級の美術品をたくさん所蔵していたことがわかった。白崎は益田のことを書いてみようと思い立ったのである。
 私はこの本を読むまでは、三井物産は三井一族が創立したものとばかり思っていたのであるが、実際はほとんど益田個人が創立したものだとわかった。三井は名前だけを貸して資本は出していない。三井物産は1876(明治9)年に創立されるが、その前身は先収会社という貿易会社であった。先収会社は井上馨と益田が作った会社である。
 益田は1848(嘉永元)年、佐渡で生まれた。父親は幕臣であった。益田は少年期に箱館に一時住み、外国に興味を持った。青年になって江戸に出て、ヘボン塾で英語を学び、アメリカ公使館にも勤務した。特筆すべきは、益田が幕府の使節団の一員として、フランスに派遣されたことである。益田は自分の目で、西洋文明をはっきりと見たのである。
 幕府が亡び明治になると、英語が堪能で西洋のことを知っている元幕臣の益田には活躍の場が提供された。益田の能力を最も買ったのは井上馨である。益田は井上にとって生涯に渡るよき相棒であり、西郷隆盛は井上のことを三井の番頭さんと揶揄した。
 益田の創立した三井物産はすばらしい業績をあげた。三井財閥には3つの柱があった三井銀行・三井物産そして三井三池炭鉱である。この3つがフル回転し、三井を日本一の財閥に押し上げた。三井三池炭鉱は国が払い下げた三池炭鉱を三井が買ったものである。このときも三菱と競争した。このときの買収額は現在の価値でいったら何兆円もするのではないだろうか。三井銀行は反対したが、益田は三井銀行を説得して買収した。三池炭鉱の買収は益田の人生で最も重大な決断の1つであった。
 三井物産は三池炭鉱から産出される石炭を世界中に売りまくった。それにともなって、日本に外貨が入り、日本は産業立国へと発展することができた。

昵懇の中だった荏原製作所創業者畠山一清旧邸茶室 益田の報酬は利益が出れば出るほど増える仕組みになっており、その額たるや莫大なものであった。江戸時代の大名以上の金持であった。月収は優に20万円を超えていた。当時、高収入といわれた夏目漱石の朝日新聞からもらう報酬が月額200円であった。益田は恐るべき金持であった。
 益田は莫大な収入がある一方、金に糸目をつけず、日本古来の美術品を買い漁った。その理由は日本の美術品が海外に流れるのを阻止するためである。その美術品には現在では、博物館や美術館でしか見られない国宝もある。

 益田は事あるごとにお茶の会を開いた。お茶の会を催し、自らお茶を点てることが、国をも動かす大実業家益田孝のストレス解消だったのかもしれない。

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<ゆかりの地を訪ねて>

 写真上は、中央区日本橋室町に建っている旧三井本館です。かつてはその名の通り三井財閥の本拠であり三井合名会社本社、三井銀行本店、三井物産本社、三井鉱山本店がありました。三井合名会社理事長団琢磨は本館の前で血盟団に暗殺されました。
 写真中央は、国立市一橋大学に建っている一橋大学の前身となった商法講習所、東京商業学校、高等商業学校の校長を歴任した矢野二郎翁の像です。矢野は、16歳のとき幕府の通訳官森山多吉郎から英語を学びました。そのときに益田も一緒に学び、それ以来終生の友になりました。
 写真下は、港区白金にある畠山記念館にある茶室です。畠山記念館は、もともとは荏原製作所創業者の畠山一清旧邸です。益田と畠山は茶を通して交友があります。畠山は益田から茶の手ほどきをしてもらいました。畠山が収集した茶道具には安土桃山時代の作品もあり国宝級がずらりと展示され、当時の繁栄を物語っています。

小田原山県有朋旧邸古稀庵明治40年、明治の元勲山縣有朋は七十歳の時に小田原に独創的な庭園を築き、古希の年に因んで古稀庵と名付けました。写真左は、古稀庵の山門です。
 古稀庵の土地は、前年大磯別邸「小淘庵(こゆるぎあん)」を三井家に譲った資金で購入し、次第に周辺を買い増して一万坪に達しました。山縣の作庭にかける熱い情熱は東京の椿山荘、京都の無鄰菴をみればいい知れぬものがあります。第一線からは退きましたが政財界には隠然たる影響を持ち、向かいには大倉喜八郎の別荘「山月」があり、益田の別荘もこの付近にありましたが、現在は宅地になり見る影もありません。
 日本陸軍と三井物産には太いパイプがあり、山縣の盟友伊藤博文がハルピンで暗殺された時の第一報は益田からの電話でした。古稀庵に建っていた洋館は、現在は栃木県那須の山縣有朋記念館に移築されました。

小田原茶人仲間の松永安左エ門旧邸 写真左は、電力の鬼と呼ばれた松永安左エ門旧邸です。古稀庵から歩いて数分のところにあります。老欅荘(ろうきょそう)と名付けられました。安左エ門も益田から茶の薫陶をうけた一人です。
 松永安左エ門は60歳を境に茶を趣味とするようになり「耳庵(じあん)」と号しました。「耳庵」の名は「論語」の「五十にして天命を知り、六十にして耳に順(したが)う」から付けられたそうです。
 安左エ門は1946(昭和21)年12月にここに移ります。当初15坪ほどであった新居は、その後増築が重ねられ現在の姿になりました。老欅荘の名は、現在もそびえたつ大きなケヤキにちなんでなづけられたものです。

品川原美術館 写真左は、品川御殿山にある現代アートを展示している原美術館です。もともとは横浜正金銀行中興の祖原六郎の邸宅でした。原六郎は現在の兵庫県出身でしたが、幕末に長州藩の明倫館で学び高杉晋作、大村益次郎らと討幕運動繰り広げ、上野戦争をはじめとする戊辰の役では大活躍しました。千葉道場では坂本龍馬とも親交があり、明治時代になると同志社の新島襄を支援しました。益田と原はまさに同時代を生きた人でした。渋沢栄一のように明治の産業界を根本から支え、日本興業銀行、台湾銀行、勧業銀行の設立、また金融以外にも鉄道会社、製紙会社など多くの企業で陣頭指揮をとりました。
 益田の邸宅は、原邸の南側に隣接する大豪邸でしたが、現在では大使館や住宅にとって代わり見る影もありません。江戸時代から御殿山は桜の名所で、明治時代には伊藤博文、三菱二代目の岩崎弥之助らが大豪邸を構えた高級住宅街です。
 戦前の三井物産と横浜正金銀行は、手を組んで世界各地で商売した切っても切れない関係で日本の貿易の中心的な役割を果たしていました。日本初の航空機も三井物産がイギリスで購入し日本に持ち込みました。
 原美術館には数回訪れていますが、コンテンポラリーアートを身近に感じる上品でオシャレな空間でした。

旧内務省の案内板 現在の三井物産本社のある場所は、戦前には大蔵省庁舎があり、向かいには大久保利通が設置した内務省庁舎がありました。内務省は省庁の中の省庁で大臣は内閣総理大臣の次に位置していました。三井物産に隣接する将門の首塚は、小説「樅の木は残った」の主人公原田甲斐が酒井家上屋敷で殺害された現場です。また、将門の首塚に纏(まつ)わる不審な事故や伝承があり、調べてみると歴史に興味を抱かせる場所です。

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 資格試験を修得すればそれだけで事が進むということはありません。資格試験を賢く用いるためにはソフトスキルが必要です。ソフトスキルとは、コミュニケーション力、語学力などを指します。
 ソフトスキルを鍛えるためには、文章を書くことが必要です。文章が書けない人が人前で論理的に話すことはできません。文章を書く上での正しい形を覚えるにはやはりいい文章を読んでみることです。いい文章をたくさん読むと自然にいい文章の形が頭に残ります。
 古典といわれる「名作」ほど私たちにいい文章を提供してくれるものはありません。「名作」をじっくりと読み、そしてそれの読後感を書くことで、読解力、表現力、思考力が身に付いてきます。書くことにより、話すことばが洗練され大きく変化していることに実感することになります。


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 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。

テーマ : 成功の為の気付き - ジャンル : 就職・お仕事

Tag : 益田孝

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