猪木正道「評伝吉田茂(二) 獅子の巻」を読む

東京北の丸公園に建っている吉田茂像 理想主義者は一流の政治家にはなれない。一流の政治家とは、内に向かっては、国民のことを思いながら、現実的な対応をするものであり、外に向かっては、相手国の立場を思いやりながら、国益のために現実的な対応をするものである。現実的な対応ができることが、一流の政治家かそうでない政治家の分かれ目になる。
 考えてみれば、大久保利通・伊藤博文・山県有朋など明治維新を成し遂げ、明治国家の礎を築いた維新の志士たちは、やはり、超がつくほど一流であった。彼らが、維新という革命をなした原動力は尊皇攘夷であったが、革命が達成されるや攘夷はいとも簡単に捨てられた。攘夷は現実的でなかったからだ。当時の日本は、西洋と較べて、文明ははるかに低く、国は貧しく、国力はほとんどなかった。大久保らは、西洋のすごさを目の当たりにして、西洋に追いつくことを国の目標とした。攘夷などもってのほかで、西洋から学ぶことを推進した。
 後に元老と呼ばれた維新の志士たちが元気なうちは、日本にはいろいろな問題があったが、国は立派に体を成していた。日清・日露の戦争に勝利し、第一次世界大戦も戦勝国の一つになり、大正時代には、日本は世界の大国の一つになった。元老たちが現実的な政治をしたからである。
 元老たちが政府の中枢にいるときは、陸軍も海軍もおとなしく政府に従った。統帥権干犯などという難癖をついて、軍部が政府を苛めることもなかった。ところが、元老が一人去り、二人去っていくうちに、軍部に対する箍(たが)が緩み、軍部はやりたいようにやるようになった。そして、元老がほとんどいなくなると、政治の実権を軍部が掌握することになり、日本は破滅への道を歩み始めることになる。
 国のシステムを決める憲法がしっかりしていれば、軍部がやりたいようにはできなかったのであろうが、明治憲法は元老が存在してはじめて機能するような作りになっていた。憲法はいくらでも拡大解釈できた。

 猪木正道著「評伝 吉田茂②獅子の巻」は吉田茂が大正14(1925)年に奉天総領事になってから、昭和11(1936)年の2・26事件までを扱っている。この期間に、太平洋戦争への道が完璧に準備された。
 そもそも日本が太平洋戦争に突入する根源的な原因は、日本が日露戦争に勝利して、満州鉄道の管轄権を手に入れたことである。陸軍はこの管轄権を大義名分にして、満州全土を侵食しようとした。これはあきらかにポーツマス条約違反であり、伊藤博文は警鐘を鳴らしたが、伊藤そして陸軍の大御所の山県有朋がこの世からいなくなると、陸軍は政府の意向を無視して、ついには、満州国建設まで進む。このような時に、吉田は奉天の総領事に就任するのである。
 吉田は理想主義者ではない。現実的に世界を見て、陸軍の満州国建設の企てを非難する。理由はアメリカの存在である。吉田は根っからの親英米派で、アメリカとイギリスを敵に回しては、絶対に日本はうまく立ち回れないと思っていた。この頃から、吉田は外交官というより、政治家の目でもって、外交を考えている。アメリカを怒らせるなと吉田は訴えた。事実、アメリカは日露戦争後、満州全土に食指を動かした日本の動きを見て、オレンジ計画を立てた。この計画は日本を仮想敵国とみなすもので、結局、太平洋戦争となって結実した。
 吉田は軍部に対して、何も満州を放棄しろといっているのではなく、満州に対する中国の主権を認めて、満州を委任統治しろといっているのである。当然、陸軍はこれを無視した。吉田は国際連盟で、日本の立場を理解してもらうために努力するのだが、陸軍が吉田の足を引っ張った。
 吉田の軍人嫌いは有名であった。軍部は嫌われて当然のことをしていたのである。上意下達の徹底した組織であるべき陸海軍では、規律が緩み、一部の中堅将校たちが軍を指揮していた。満州国建設は陸軍の板垣征四郎・石原莞爾という将校によって計画され、2・26事件は陸軍の青年将校たちによって起こされた。軍の上層部は将校たちの暴走を抑えることができなかった。それどころか、青年将校たちの動きを認める上層部の人間も少なからずいた。
 青年将校たちはまぎれもなく、理想主義者たちであった。論理的な思考力を持たず、自分たちの描く社会が日本人を幸福にすると狂信的に思っていた。彼らは目的のためには手段を選ばなかった。このような青年将校を抱えている軍部を吉田が好むはずもなかった。 2・26事件後、岡田啓介内閣は倒れ、広田弘毅に大命が降った。広田は吉田を外務大臣にしようとしたが、軍部は吉田の大臣就任を徹底的に反対した。結局、吉田は大臣になれなかったが、これは吉田にとっても日本にとっても幸いだった。もし、このとき、大臣に就任していれば、戦後、吉田は総理大臣になれなかったからである。
 2・26事件以降、軍部の横暴は激化し、政府は完全に軍部の傀儡になった。

 関東軍とは満州における悪名高い陸軍の軍隊の名であるが、この関東軍は中国の軍閥とも手を組んでいた。1912年の辛亥革命以後、中国は各地に軍閥が割拠し、さながら戦国時代の様相を呈していた。張作霖をリーダーとする軍閥は関東軍に助けを求めた。関東軍は中国からも必要とされたのである。満州問題は日本がただ侵略したということだけでは片付かない複雑な要素が絡みあった問題であるのだ。その渦中で吉田は大政治家としての腕を磨いていくのである。

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<ゆかりの地を訪ねて>

 写真上は、千代田区北の丸公園に建っている吉田茂像です。

大磯滄浪閣跡石碑 写真左は、神奈川県大磯にある伊藤博文の滄浪閣跡の石碑です。吉田茂といえば大磯と思い浮かべる人が多いと思いますが、大磯には、伊藤の他にも山縣有朋、大隈重信、陸奥宗光らの政治家から、財界人では、安田財閥の安田善次郎、三井家、三菱の岩崎家、浅野財閥の浅野総一郎、久原房之助など錚々たる顔ぶれが別荘を構えました。
 江戸時代、品川から八番目の宿場町である大磯は大いに栄え、明治時代になると日本初の海水浴を開設しました。何よりも東海道線延伸によって大磯駅が開業したのを契機に別荘地として発展しました。

大磯駅 伊藤は、もともと小田原に滄浪閣と名付けた別荘を持っていましたが、小田原に赴く途中に大磯で途中下車し招仙閣に宿泊したところこの土地が気に入り、その後も途中下車をしては招仙閣に宿泊しました。そして、小田原の別荘を売却して日清戦争の下関条約調印の翌年に大磯に別荘を構えました。明治30年大磯に本籍を移し別荘から本邸になったころから大磯は政財界の一大別荘地に変貌していきます。伊藤の大磯における役割は大きいものがありました。吉田茂の養父吉田健三も初期の別荘族として海浜沿いの広大な地所を買い増ししました。写真は大磯駅です。

千代田区憲政会館 写真左は、千代田区永田町にある憲政会館です。中庭には憲政の神様の尾崎行雄像が建っています。戦前の2.26事件当時には陸軍省が建ち、近傍には陸軍参謀本部がありました。2.26事件の時には深々と雪が降っており、青年将校が三宅坂を銃を担いで行進している場面を映像や写真で見ました。映画でも、青年将校が時の政府幹部を暗殺する場面を見ましたが、遠くない昔にこんな日本があったということが信じられませんでした。いま見ても背筋が寒くなると思います。
 三宅坂を歩いていると、井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸)の案内板が建っています。目の前は江戸城です。江戸城、名古屋城をはじめ日本の名城を多数築き、関が原の戦いの働きによって肥後国を与えられた加藤清正は毒殺され、大老井伊直弼は桜田門外で暗殺されています。昭和維新を唱えた将校は井伊直弼の暗殺後のように維新を迎えることはできませんでした。このあたりは怨念が彷徨っている感じがします。やすらかに眠ってください。 2.26事件や5.15事件で思い出されるのは、軍幹部の発言です。2.26事件で糾弾された皇道派の真崎甚三郎大将は、青年将校に向かって「お前たちの心はヨォッわかっとる。よおッわかっとる!」といいいながら、実のところ青年将校には何にもしていません。洒落ではありませんが、真っ先に真崎(まざき)は逃げました。5.15事件の荒木貞夫大将は「その心情に就て考へれば涙なきを得ない」と述べましたが、この事件も2.26事件同様に荒木大将が真っ先にその場から逃げました。武士道といいながら大将自ら真っ先に逃げる姿勢は、今の責任ある役職についている人にも少なからず引き継がれている感じがします。

東京赤坂高橋是清像 写真左は、2.26事件で83歳の生涯を閉じた高橋是清像です。像は港区赤坂にある高橋是清翁記念公園に座っています。没後東京市に高橋の敷地と建物は寄付されましたが、太平洋戦争の空襲で高橋にゆかりのある建造物は焼失しました。しかし、母屋は高橋が眠る多磨霊園に移築されていたために難を逃れ、現在都立小金井公園にある江戸東京たてもの園へ移されています。

江戸東京たてもの園旧高橋是清邸 写真左は、江戸東京たてもの園に移築された高橋是清邸母屋です。瓦屋根が重厚感を醸し出し、純和風の造りです。高橋は、留学経験や渡航で海外事情に明るい人でしたが、母屋の純和風建築には感銘を受けました。撮影した時が夏の盛りで母屋の周りが靄っていましたが、その靄が霊気として漂い、話しかけているようでした。

高橋是清が凶弾に倒れた部屋 2.26事件で青年将校の凶弾に倒れ、絶命した部屋です。母屋二階で高橋の書斎と寝室がありました。高橋については、ブログ「名著を読む」の中に「高橋是清自伝」を掲載しています。自伝の中では2.26事件についてはもちろん書かれてはいませんが、日露戦争までのことが面白おかしく書いてあります。波乱万丈の人生とは高橋是清の人生にいちばん当てはまる言葉です。合掌。

 ブログ「名著を読む」には、吉田茂の義父である牧野伸彰「回顧録」や日露戦争を題材にした朝河貫一「日本の禍機」、吉田茂の実父が登場する杉森久英「大風呂敷 後藤新平の生涯」の感想文が載せられていますので併せて読んでください。時代背景がよくわかります。

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 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。


テーマ : 歴史・時代小説 - ジャンル : 本・雑誌

Tag : 評伝吉田茂

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