クララ・ホイットニー「勝海舟の嫁 クララの明治日記 上」を読む

東京都墨田区に建っている勝海舟生誕の地碑 明治維新は薩摩・長州藩が幕府を倒した構図になっているが、実際には、薩長と幕府が共同で国の形を変えたといっていいかもしれない。
 明治維新は西郷隆盛と勝海舟という2人の傑物がいなかったら間違いなく失敗に終わっていただろう。もしいなかったら、江戸で内乱が起こり、援助という名目で外国軍が乱入し、日本は外国人に食い荒らされ、独立国家としての道を歩むことはできなかったであろう。西郷と勝は日本の将来を見据えて協力したのであった。
 明治になり薩長が政権を担っても、政府は旧幕臣を重要な地位に登用した。何よりも徳川家は大事にした。勝は明治の世になっても活躍し、政府の中枢にいて伯爵を叙された。 勝は政治家として偉大であったが、また、女性関係も華やかであり、多くの妾をもち、子供もたくさんできた。
 勝が一番愛した妾は、長崎海軍伝習所時代に知り合った梶くまである。この梶くまは子母沢寛の名作「勝海舟」にお久という名で登場する。
 梶くまとの間にできた子が梅太郎である。梅太郎は勝の三男にあたる。梅太郎を生んでまもなくして梶くまは早世した。勝の正妻は度量の大きい人で、梅太郎を引き取ってわが子のように育てた。
 梅太郎は成長して結婚した。その相手は、日本人ではなく、何とアメリカ人であった。名前をクララ・ホイットニーという。2人が結婚したとき、クララが26歳、梅太郎が22歳であった。クララと梅太郎の間には1男5女が生まれている。勝には青い目をした孫がいたのであった。
 クララ・ホイットニーは明治8(1875)年に来日した。来日した理由は、クララの父が東京に開設された商法学校の教授をするためであった。商法学校は近代的な商業を本格的に教える学校で、のちに、商法講習所・東京高等商業・東京商業大学・一橋大学と成長していく。初代の文部大臣になる森有礼がアメリカに行ったときにクララの父を商法学校の教授にスカウトしたのである。
 クララは日本に来てから克明に日記をつけていた。

東京都港区赤坂六丁目に建っている勝海舟邸跡 「勝海舟の嫁 クララの明治日記 上」はクララの一家が横浜へ到着した明治8年8月3日から明治11年7月18日までの日記である。この日記は、明治初めの江戸のことがリアルに描かれているので、さしずめ民俗学の一級資料になるかと思われる。
 この日記に登場する人物たちはまことに豪華である。勝海舟・福沢諭吉・森有礼・大鳥圭介・富田鉄之助・津田仙・徳川家達がおり、また、ヘボン式ローマ字のヘボン博士などがいる。いかにクララの一家が当時の日本で重んじられていたかがわかる。
 私はこの日記を読んで、長年疑問に思っていたことが氷解した。それは徳川慶喜の「慶喜」の読み方である。教科書でもテレビドラマでもすべて「慶喜」は「ヨシノブ」と読まれているが、私は昔、ある本で、「慶喜」が「ケイキ」と読むことを知った。その本には、江戸時代まで高貴な人の本名を言うことなどありえないと書いてあった。だから、実際には「慶喜」は何て読まれるか正確なところはわからないが、読むとしたら「ケイキ」だというのである。
 クララの家に将軍ではないが、第16代徳川家達の一家が訪れてきた。その家達の一家では「慶喜」のことを「ケイキサマ」と呼んでいたのである。私は胸のつかえがとれたような気持になった。
 また、この日記を読むと江戸の町(クララがいた東京の町は江戸の町とほとんど変わらない)には本当に川が多かったことが実感させられる。江戸の町を動くのに、頻繁に船が使われている。江戸時代に関しての本などを読むと、船が交通の主な手段であることが書かれているが、クララの日記はそれを実証している。
 クララは江戸の町を美しいと褒めているが、日本人に対しては毀誉褒貶がある。特に、日本人の男性が公で女性を大事にしないことに憤っている。ファーストレディの国の女性から見たら日本は異様の国であったのだろう。
 クララは横浜にいるヘボン博士のところへよく行っている。ヘボン博士はクララを孫のように可愛がった。横浜まではすでに汽車が通っていた。
 クララは福沢諭吉の家もよく訪れている。福沢はクララが日本人の中で最も尊敬している人の1人である。福沢はクララに日本のことをいろいろとくわしく教えてくれた。当然、福沢は英語が堪能であった。
 クララの一家が最も親密に交流していたのが勝海舟の一家であった。勝の三女の逸子とクララは同い年で大の仲良しであった。

 クララの日記を読んでいると江戸時代の姿が髣髴としてくる。

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<ゆかりの地を訪ねて>

 本文中写真上は、東京都墨田区両国四丁目両国公園に建っている勝海舟生誕の地碑です。海舟は、文政六(1823)年、本所亀沢町の旗本屋敷(現両国公園)で、貧しい御家人の子として出生しました。
 本文中写真下は、港区赤坂六丁目10番に建つ勝海舟邸跡碑です。この地は幕末から明治にかけて、幕臣として活躍した安政六(1859)年から明治元(1868)年まで住みました。赤坂の地は愛着があり、三か所に住みました。

東京都大田区洗足池畔にある勝海舟夫妻墓所 海舟は郊外の風光にも惹かれ、洗足池に近い東京都大田区南千束一丁目(現大田区立大森第六中学校)の地に別邸を建てました。
 写真左は、洗足池畔に造られた勝海舟夫妻の墓所です。また、自ら建てた盟友西郷隆盛を偲ぶ石碑も建っています。

徳川慶喜終焉の地 写真左は、東京都文京区春日に建っている徳川慶喜終焉の地の案内板と写真左下は寛永寺墓地にある徳川慶喜墓所です。案内板には次のように記されています。
< 徳川幕府最後の将軍慶喜は、水戸藩主斉昭の七男として,天保8(1837)年小石川の上屋敷(現小石川後楽園一帯)で生まれた。
 その後、御三卿の一橋家を相続した。ついで、幕末の動乱のさなか、長州攻めの陣中で没した第十四代将軍家茂のあとを継ぎ、慶応2(1866)年第十五代将軍となった。

寛永寺墓地にある徳川慶喜公墓所 翌、慶応3年大政奉還し、鳥羽伏見の戦いの後、天皇に対し恭順の意を表して水戸で謹慎、明治維新後、駿府(静岡)に隠棲した。明治30(1897年東京の巣鴨、さらに明治34年誕生の地である旧水戸屋敷に近いこの地に移った。
 慶喜は、のちに公爵、勲一等旭日大勲章を授けられ、大正2(1913)年11月22日、急性肺炎のためこの地で没した。享年76歳。寛永寺墓地に葬られた。>


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テーマ : 歴史・時代小説 - ジャンル : 本・雑誌

Tag : 勝海舟の嫁 クララの明治日記

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