林洋海「<三越>をつくったサムライ 日比翁助」を読む

日本橋三越本店 「今日は帝劇、明日は三越」ほど世の中に広くそして深くかつ長く浸透したキャッチコピーはないであろう。このコピーはまたたく間に人々の心を捕え、新しい業態である百貨店の三越を大きく飛躍させた。このコピーは大正の初めに作られたものであるが、昭和の30年代にも流布していた。私も子供の頃、このコピーを目にしたり聞いたことがある。
 三越は日本で初めての百貨店である。百貨店とは英語のデパートメントストアの訳語であった。三越が百貨店として出発したのが1904(明治37)年である。この年、株式会社三越呉服店が設立され、日比翁助が専務取締役に就任している。この日比が百貨店を日本に定着させ、三越を他の追随を許さない超優良企業に育てたのである。
 明治維新になって日本は欧米社会のように資本主義社会を目指した。封建社会から資本主義社会へ移行するにおいて大きく変わった点の一つが商人の立場である。江戸時代においては実質がどうであれ、商人は士農工商といわれるように、最も低い身分であった。ところが、資本主義社会では、商人が経済の中心的役割を担わなければならない。
 明治になって優れた商人がぞくぞくと輩出したが、その中で商家出身の人は稀で、ほとんどは武家出身の人であった。皮肉にも、商人を蔑んだ武家出身者が、立派な商人となって日本の近代資本主義社会を形成していったのである。
 武家出身者が商人になるにあたってとてつもなく大きな貢献をしたのは他でもない福沢諭吉であった。福沢は「士魂商才」を唱え、武士の精神が立派な商人道を作ると説いた。武士の精神とは一言でいうと、経世済民である。経世済民とは人民のためにすることである。経済という言葉は経済が人のためになるということで、経世済民からとられたものであった。福沢は経済が国を豊かにし、人々を幸福にすることを深く認識していた。そのため、武士出身者であろうとも商人の道を選ぶことを推奨した。
 福沢の門下生からそれこそ数えきれないほどたくさんの偉大な実業家が出たが、いずれも士魂商才の気概を持っていた。その一人が日比翁助である。日比はまさに士魂商才を地で行った人である。

帝国劇場 林洋海の「<三越>をつくったサムライ 日比翁助」は文字通り、日比翁助の評伝である。日比の生涯をかなり詳しく書いている。幕末から明治維新初期の久留米藩の動きについては特に詳細を極めている。
 日比は1860(万延元)年に久留米藩士の次男として生まれた。久留米藩は幕末から明治維新初期にかけて尊皇攘夷の激しい藩で、藩内は明治になっても政府派と尊皇攘夷派が対立していた。
 日比は幼少から剣術と漢学を学んでいたが、北汭(ほくぜい)義塾に入学して未来に対して目を大きく開かされた。北汭義塾の塾長は江碕済(えさきわたる)といい、東京と名を改めた江戸で安井息軒に師事した人である。
 江碕は生徒一人ひとりの個性を大事にした。生徒たちはそれぞれ志をもって勉強した。日比の前途は洋々であった。この北汭義塾からは多彩な人材が巣立ったが、その一人にアメリカでポテト王と呼ばれた牛島謹爾(きんじ)がいる。日比は牛島がアメリカで成功するために多大な援助をした。
 日比は北汭義塾を終えると、東京に出て慶応義塾に入学した。ここで、福沢諭吉から「士魂商才」を徹底的に仕込まれた。福沢は日比の大恩人であった。福沢そして慶応義塾の卒業生たちの協力がなければ日比のその後の活躍はなかった。
 慶応義塾を卒業して、海軍天文台・モスリン商会に勤務したのち、1896(明治29)年に三井銀行に入社した。三井銀行に入社したときには、すでに36歳になっていた。日比はすぐに頭角を表した。乱脈を極めていた和歌山支店の支店長になり、和歌山支店を優良な支店に立ち直らせた。その日比を、三井銀行幹部であった福沢の甥の中上川彦次郎は三井呉服店越後屋の再建にあたらせた。
 三井呉服店はいわば三井家の土台をなす事業であった。三井家が勃興するのも、「現銀、掛け値なし」で、布の切れ端まで売ったことによる。三井呉服店は三井家そのものといってもよかった。ところが明治になると、旧態依然としたやり方が妨げとなって、経営が悪化し、三井家のお荷物になった。
 日比は三越と名を変えた三井呉服店越後屋の経営をまかされるようになった。それまでは同じ慶応義塾出身の高橋義雄が三越を改革しようとしたが、日比が加わって改革が大改革になった。
 日比は欧米を回り、イギリスのデパートであるハロッヅを手本にして三越を日本で初めての百貨店に作り直した。日比はすべてに力を入れたが、特に力を入れたのが宣伝である。三越の名を広めるために、新機軸を打ち出した。その一つが「今日は帝劇、明日は三越」のコピーであった。

 日比翁助は三越を作ることによって、日本が豊かになり、日本人が幸せになると信念として思っていたのである。

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<ゆかりの地を訪ねて>

東京広尾祥雲寺にある日比翁助の墓所 写真最上は、日本橋から写した日本橋三越本店新館です。日比翁助が陣頭指揮を執ると、三越は、エスカレーター、エレベーター、スプリンクラーの設置、ファッションショーの開催、建築資金を負担し東京地下鉄道「三越前駅」(現東京メトロ銀座線、半蔵門線)の開業など数えたら切がないほど日本初をたくさん行っています。数々の着想、工夫と行動力で現在でも小売店業界の先頭を走っています。
 写真上は、帝国劇場です。1913年帝国劇場のパンフレットに広告を出し、「今日は帝劇、明日は三越」のコピーは流行りました。帝国劇場は、渋沢栄一、益田太郎、福沢桃介、日比翁助らが発起人となり、大倉喜八郎が采配を振って設立した日本初の西洋式演劇場です。現在は東宝の経営になり、場内には阪急を設立した小林一三の銅像が建っています。帝国劇場の発起人は渋沢栄一を除き、他は慶応義塾出身です。
 写真左は、東京広尾の祥雲寺にある日比翁助の墓所です。祥雲寺には、旧久留米藩主の歴代の墓もあります。偶然なのかもしれませんが、亡くなっても旧藩主の墓所の傍に眠るとは、これも日比の道徳観の表れでしょうか。

日本橋魚市場発祥地の石柱 日本橋三越が建っている場所は、江戸時代の時には日本一の繁華街で日本一の地価の高いところでした。ですから、この地域は江戸時代の史跡が至る所にあります。写真左は、日本橋魚市場発祥地の石柱です。案内板には次のように説明されています。
< 日本橋から江戸橋にかけての日本橋川沿いには、幕府や江戸市中で消費される鮮魚や塩干魚を荷揚げする「魚河岸」がありました。ここで開かれた魚市は、江戸時代初期に佃島の漁師たちが将軍や諸大名へ調達した御膳御肴の残りを売り出したことに始まります。魚市は、日本橋川沿いの魚河岸を中心として、本船町、小田原町、安針町(現在の室町一丁目・本町一丁目一帯)の広い範囲で開かれ、大変な賑わいをみせていました。
 中でも、日本橋川沿いの魚河岸は、近海諸地方から鮮魚を満載した船が数多く集まり、江戸っ子たちの威勢の良い取引が飛び交う魚市が立ち並んだ中心的な場所で、一日に千両の取引があるともいわれ、江戸で最も活気のある場所の一つでした。
 江戸時代より続いた日本橋の魚河岸では、日本橋川を利用して運搬された魚介類を、河岸地に設けた桟橋に横付けした平田舟の上で取引し、表納屋の店先に板(板舟)を並べた売場を開いて売買を行ってきました。
 この魚河岸は、大正十二年(1923)の関東大震災後に現在の築地に移り、東京都中央卸売市場へと発展しました。
 現在、魚河岸のあったこの場所には、昭和二十九年に日本橋魚市場関係者が建立した記念碑があり、碑文には、右に記したような魚河岸の発祥から移転に至るまでの三百余年の歴史が刻まれ、往時の繁栄ぶりをうかがうことができます。>

三越本店新館・本店本館、旧三井本館 写真左は、日本橋から日本橋三越方面を撮影したものです。三越本店新館、三越本店本館、旧三井本館が並んで建っています。
 日本橋の案内板には、次のように説明されています。
< 日本橋がはじめて架けられたのは、徳川家康が幕府を開いた慶長八年(1603)と伝えられています。
 幕府は東海道をはじめとする五街道の起点を日本橋とし、重要な水路であった日本橋川と交差する点として江戸経済の中心となっていました。橋詰には高札場があり、魚河岸があったことでも有名です。幕末の様子は、安藤広重の錦絵でも知られています。
 現在の日本橋は東京市により、石造ニ連アーチの道路橋として明治四十四年に完成しました。橋銘は第十五代将軍徳川慶喜の筆によるもので、青銅の照明灯装飾品の麒麟は東京市の繁栄を、獅子は守護を表しています。橋の中央にある道路元標は、昭和四十二年に都電の廃止に伴い道路整備が行われたのを契機に、同四十七年に柱からプレートに変更されました。プレートの文字は当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。
 平成十年に照明灯装飾品の修復が行われ、同十一年五月には国の重要文化財に指定されました。装飾品の旧部品の一部は中央区が寄贈を受け、大切に保存しています。>

三浦按針屋敷跡の石碑 写真左は三浦按針屋敷跡です。案内板には次のように説明されています。
< ウィリアム・アダムスは西暦1564年イギリスのケント州に生れ、慶長5年(1600)渡来、徳川家康に迎えられて江戸に入り、この地に屋敷を給せられた。造船・砲術・地理・數学(すうがく)等に業績をあげ、ついで家康・秀忠の外交時に通商の顧問となり、日英貿易等に貢献し、元和6年(1620)4月24日平戸に没した。
 日本名三浦按針は相模國三浦逸見に領地を有し、またもと航海長であったことに由来し、この地も昭和初年まで按針町と呼ばれた。>


 ブログ「名著を読む」には日比翁助、三越、日本橋に関連した著作を読んで感想文を掲載しています。併せて読んでください。
● 山本一生「恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919」
● 中村建治「メトロ誕生」
● 山田義雄「花は一色にあらず」
● 松方冬子「オランダ風説書 『鎖国』日本に語られた『世界』」
● 今泉みね 金子光晴解説「名ごりの夢 蘭医桂川家に生れて」
● 福沢諭吉「学問のすゝめ」
● 福沢諭吉「文明論之概略」
● 白崎秀雄「鈍翁・益田孝」
● 小林一三「私の行き方」

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 資格試験を修得すればそれだけで事が進むということはありません。資格試験を賢く用いるためにはソフトスキルが必要です。ソフトスキルとは、コミュニケーション力、語学力などを指します。
 ソフトスキルを鍛えるためには、文章を書くことが必要です。文章が書けない人が人前で論理的に話すことはできません。文章を書く上での正しい形を覚えるにはやはりいい文章を読んでみることです。いい文章をたくさん読むと自然にいい文章の形が頭に残ります。
 古典といわれる「名作」ほど私たちにいい文章を提供してくれるものはありません。「名作」をじっくりと読み、そしてそれの読後感を書くことで、読解力、表現力、思考力が身に付いてきます。書くことにより、話すことばが洗練され大きく変化していることに実感することになります。


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 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。



テーマ : 読書感想文 - ジャンル : 小説・文学

Tag : <三越>をつくったサムライ 日比翁助

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