山本一生「恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919」を読む

大井競馬場に飾っているハイセイコー号 競馬ファンならずとも有馬記念はほとんどの人が知っている。有馬記念は中央競馬会の重賞(GⅠ)レースであるが、「有馬」が日本中央競馬会第2代理事長の有馬頼寧(よりやす)の名前に因んだものであることをどれほどの人が知っているであろうか。
 有馬頼寧の経歴は華麗そのものである。元久留米藩主有馬頼萬の長男として生まれ、東京帝国大学を卒業し、大学で教鞭をとり、その後衆議院議員になる。有馬家を継いで伯爵になると、貴族院議員に変わり、農林政務次官を務め、1937年に第1次近衛文麿内閣の農林大臣になった。近衛の側近として動き、1940年には、大政翼賛会事務総長に就任し、翌年辞任した。
 戦後、A級戦犯容疑者として、巣鴨プリズンに収容されるが、無罪になり釈放される。その後は引退生活を送ったが、1955年に日本中央競馬会第2代の理事長に就任した。
 以上あげた有馬の経歴だけを見れば、有馬頼寧とは日本を破滅に追い込んだ元凶の大政翼賛会の中心人物であり、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンに送られるのもむべなるかなと思われるが、それはあくまでも有馬の表の顔であって、有馬には温かい血の流れる人間味溢れる裏の顔があった。

 山本一生の「恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919」(以下「恋と伯爵」と記す)は、有馬頼寧の日記を徹底的に分析して、有馬の心象風景に迫った評伝である。著者山本は競馬にたいへん造詣が深く、競馬を研究しているときに有馬に多大なる興味を持ったのかもしれない。
 評伝と書いたが、私は「恋と伯爵」を一流の文学者が書く人物論として読んだ。「恋と伯爵」の文章はいわゆる考証家の書く文章とは違って、作家が愛おしい人を思って書く美しい文章である。知らず知らずに本の世界に引き摺り込まれる。
 もともと有馬日記は膨大なものであるが、「恋と伯爵」では、1919年前後の数年間に書かれた日記を根拠にして話を進めている。
 1920年は大正9年で、有馬が39歳のときである。この年の11月有馬は東京帝国大学農科大学付属農業教員養成所助教授になる。有馬は皇族出身の妻をもち、このとき三男三女の父親であった。傍から見ると、有馬家は仰ぎ見る雲の上の一家であった。
 しかし、有馬にとって1920年はたいへん辛い年であった。有馬の心にはぽっかりと大きな穴が空いていた。有馬が一生添え遂げようと約束した最愛の愛人と別れた直後だったからである。
 有馬は1920年の8月に、御殿場にある神山復生病院に井深八重を見舞った。
 この「恋と伯爵」は著者の山本が井深八重が誰だかを突き止めるところから始まる。井深八重は「恋と伯爵」では重要な人物である。影の主人公といってもよい。井深八重は有馬の別れた愛人美登里の友人であった。
 山本は有馬日記を調べているうちに美登里の無二の親友である井深八重にぶつかった。ところが井深八重なる人物がどのような人かはわからなかった。そしてついにその素性があきらかになった。
 井深八重は難病中の難病といわれたハンセン病(日本ではらい病とよばれていた)の疑いで、御殿場の病院に隔離された。ハンセン病になることは当時、人間的な扱いを受けないということを意味していた。ハンセン病は伝染すると信じられて、ハンセン病患者は人間界から隔離されたのである。
 井深八重は美登里と女学校時代の同級生で大の仲良しであった。親戚も見放した井深八重を病院に見舞ったのは美登里だけであった。美登里は伝染するのを恐れずに愛する友人を見舞ったのである。
 有馬は井深八重を見舞ったあとの彼女の行く末がどうなったのかは死ぬまで知らなかった。ただただ有馬は井深八重に同情した。
 井深八重はハンセン病でないことがわかり、病院を退院すると看護婦になり、1961年に日本人として初めて赤十字国際委員会よりナイチンゲール記章を受賞した。
 「恋と伯爵」は有馬と美登里の交流を描いている。美登里は有馬家で勤務していた女性で、有馬が見初めたのである。美登里は美しく気品があった。2人は恋仲になった。有馬はどうしても美登里を離したくなかったが、妻子もあり、伯爵家の跡継ぎという立場上、回りが2人の仲を引き裂こうとした。
 有馬は美登里と一緒にアメリカに行き、そこで何年間か暮らそうとしたがそれも失敗に終わった。結局、2人は別れる運命にあった。

 有馬日記には女優松井須磨子のことが書かれている。愛人島村抱月の死後、その後を追うように自殺した女優と美登里を有馬は重ねたのかもしれない。

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<ゆかりの地を訪ねて>

 写真上は、大井競馬場に飾られているハイセイコ―号です。ハイセイコ―は有馬記念に1973年、1974年の2回走りましたが、3着、2着で優勝はしていません。1974年の有馬記念を最後に引退しました。ハイセイコーは競馬を世に広めた功労馬です。

広尾祥雲寺 写真左は、渋谷区広尾にある臨済宗端泉山祥雲寺です。祥雲寺には、有馬頼寧の墓所があります。東京では指折りの最高級住宅街であり、なぜか、歩いている人もハイソサエティーを漂わせる広尾ですが、江戸時代は祥雲寺の門前町でした。祥雲寺を建立したのは、福岡藩の藩祖で、黒田官兵衛の嫡男黒田長政です。祥雲寺の案内板には次のように案内されています。
< 豊臣秀吉・徳川家康の天下統一に貢献した、黒田長政(福岡藩五十二万余石初代藩主)は、京都紫野大徳寺の竜岳和尚に深く帰依していました。元和九年(1623)に長政が没すると嫡子忠之は、竜岳を開山として祥雲寺を建立しました。
 この黒田長政の墓は、墓標系として建てられた雄大なもので、墓地の右手奥にあります。
 この祥雲寺の檀家には武家が多かったため、福岡藩主黒田家をはじめとして福岡藩の分家秋月藩黒田家・久留米藩主有馬家・吹上藩主有馬家・柳本藩主織田家・岡部藩主安部家・小野藩主一柳家・狭山藩主北条家・園部藩主小出家など諸大名の墓地群があります。>

水天宮 写真左は、中央区にある水天宮です。江戸時代、水天宮は久留米藩有馬家藩邸の中にありました。水天宮の案内板には次のように案内されています。
<御祭神天御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ)、安徳天皇、建礼門院、二位ノ尼(平清盛の妻時子)
 当社は文政元年(1818)港区赤羽に在った有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。久留米の水天宮は今からおよそ七百年程前に創建されたと伝えられております。彼の壇之浦の戦いで敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ久留米付近に落ちのび、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位ノ尼の御霊をささやかな祠をたててお祀りしたのが創めです。
 江戸時代の水天宮は藩邸内に在った為、庶民は普段参拝できず門外より賽銭を投げ参拝したと言います。ただし毎月五日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が開放され参拝を許されました。その当時で参拝の妊婦の方が鈴乃緒(すずのお 鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人づてにこの御利益(ごりやく)が広まりました。その当時の水天宮の賑わいを表す流行り言葉に ”なさけありまの水天宮”という洒落言葉があった程です。
 明治維新により藩邸が接収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治五年十一月一日現在の蛎殻町に御鎮座致しました。・・・>

対鴎荘案内板 写真左は、作品の中に出てくるもので、毎朝まだ暗いときに、窓から見える石炭船の赤い炎が、隅田川面にゆらゆらと進む光景を描いている場所です。もちろん有馬家に関するものは辺りには何も見当たりませんが、幕末王政復古で表舞台に復帰し、明治時代初期に太政大臣を務めた公爵三条実美の別宅対鴎荘の案内板がありました。本を読んでいて、現在では想像することが難しい光景でロマンチックに感じました。
 ついでながら、隅田川にかかっている橋は白鬚橋です。大正十年から大正十一年(1921-1922)に行われたワシントン軍縮会議で軍艦の保有を制限され、建造に用いる予定だった鉄を橋梁として利用しました。昭和三年に橋が架かり、幹線道路が開通しました。その後道路を境に台東区と荒川区に分かれ、対鴎荘の案内板も道を挟んで両区にあります。
 対鴎荘の台東区の案内板には、次のように案内しています。
<隅田川畔の橋場一帯は、風光明媚な地であり、かつては著名人の屋敷が軒を連ねていたという。対鴎荘もその一つで、明治時代の政治家三条実美(1837-1891)の別邸であった。 「征韓論」をめぐって、政府内に対立が続いていた明治六年(1873)の十月、太政大臣の要職にあった実美は心労のあまり病に倒れ、この別宅で静養していたが、同年十二月十九日明治天皇は病床の実美を気使い、この邸を訪れている。・・・>

京橋ブリヂストン本社 写真左は、京橋にある世界一のタイヤメーカーであるブリヂストンの本社です。福岡県久留米からは大実業家が何人も輩出しています。ブリヂストンの創業者である石橋正二郎もその一人です。他には東芝の創業者田中久重、このブログにも書きましたが、アメリカで「ポテト・キング」の異名をとった大農園主牛島謹爾三越百貨店の創始者日比翁助らがいます。
 ブリヂストンの本社にはブリヂストン美術館が併設されており、美術館には久留米出身の画家青木繁の絵画が展示されています。また、石橋正二郎が寄贈した東京国立近代美術館本館にも青木繁の絵画が展示されています。ちなみに青木繁は夏目漱石の作品の中にも登場します。
 日比翁助の墓所は、旧藩主の有馬頼寧と同じ広尾の祥雲寺にあります。


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 資格試験を修得すればそれだけで事が進むということはありません。資格試験を賢く用いるためにはソフトスキルが必要です。ソフトスキルとは、コミュニケーション力、語学力などを指します。
 ソフトスキルを鍛えるためには、文章を書くことが必要です。文章が書けない人が人前で論理的に話すことはできません。文章を書く上での正しい形を覚えるにはやはりいい文章を読んでみることです。いい文章をたくさん読むと自然にいい文章の形が頭に残ります。
 古典といわれる「名作」ほど私たちにいい文章を提供してくれるものはありません。「名作」をじっくりと読み、そしてそれの読後感を書くことで、読解力、表現力、思考力が身に付いてきます。書くことにより、話すことばが洗練され大きく変化していることに実感することになります。


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 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。



テーマ : 読書感想文 - ジャンル : 小説・文学

Tag : 恋と伯爵と大正デモクラシー 有馬頼寧日記1919

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