藤田覚「幕末の天皇」を読む

和気清麻呂像 幕末について考えるときに、いつも不思議に思うことが2つある。
 その1つは天皇の条約勅許問題である。時の大老井伊直弼は、天皇の勅許なしに日米通商条約を締結した。この朝廷を無視した行為に尊皇攘夷運動は盛り上がり、井伊は条約反対派を弾圧した。いわゆる安政の大獄である。このために、井伊は歴史上たいへん評判が悪い。
 しかし考えてみるに、なぜ条約を締結するのに、幕府は朝廷の許可を受けなければならなかったのか。それは決まりであったのか、それとも突然そのように決まったのか。もし、国と国との関係に関することに関して天皇の許可が必要というなら、豊臣秀吉が朝鮮出兵するとき天皇の許可をもらったのであろうか、また、徳川家光が鎖国を打ち出したとき天皇の許可をもらったのであろうか。あきらかに幕末になって、天皇の勅許がクローズアップされた感がある。
 2つ目は薩摩・長州藩の尊王攘夷運動である。特に、長州藩は飛びぬけた尊皇攘夷派で、開国など絶対許さない立場であった。若き伊藤博文たちは国学者の塙保己一の息子を殺害したり、品川御殿山のイギリス領事館を襲撃している。このゴリゴリの尊王攘夷派であった長州藩は、幕府を倒すや幕府以上の開国派になってしまった。長州藩にとって攘夷とは何であったのか。とてもでないが、少なくとも思想といえるものではなかったはずだ。
 司馬遼太郎によると薩長にとって攘夷とは梃みたいなもので、攘夷という梃を利用して大きな力を生み出し、その力でもって幕府を倒したというのだ。もしそうなら攘夷とは薩長にとって単なる手段でしかなかったのか。それでは尊王もそうであったのであろうか。長州藩の幕末の動きをみるに、尊王も確かに手段でしかなかったように思われてならない。いずれにしても幕末の動きは天皇の存在を抜きには語れないのである。

 藤田覚の「幕末の天皇」は、幕末になぜ天皇の存在が大きくなったかを朝廷と幕府の関係から詳しく説き明かした歴史書である。私にはたいへん新鮮であった。幕末の天皇と幕府関係については、公武合体を中心とした紋切型の論が多いが、この「幕末の天皇」は幕末から遡ること18世紀の末からの朝廷と幕府の関係も論じている。
 この「幕末の天皇」の第一の特色というよりは、この本で初めて公に問われたと思われるのは、幕末の中心となった江戸時代最後の天皇である孝明天皇は、その祖父の光格天皇が残した朝廷と幕府の関係の影響を強く受けているということである。光格天皇とは、それまでの朝廷と幕府の関係を覆すようなことをやった天皇だと著者の藤田は指摘する。
 それまでの朝廷と幕府の関係は、国の支配は幕府がやることになっており、朝廷が幕府のやり方に口を出すようなことはなかった。朝廷の動きはきめ細かく幕府に規制された。朝廷は単なるお飾りであった。それでも幕府は朝廷を崇め奉り、官位・官職を与える権限を一応天皇に与えた。一応といったのは、幕府の推薦・同意が必要であった。幕府は朝廷とのつながりを強めるために天皇家とは結婚を通じて姻戚関係を築いた。内親王が将軍の正室になったりした。
 光格天皇は閑院宮家から天皇家の養子となって皇統を嗣いだので、公家たちからは亜流のように見られた。そのためか強い自立心をもって天皇の力を誇示するようになった。
 それまでの天皇は幕府に対して自己主張をすることなどなかったが、光格天皇は幕府に物を申したのである。光格天皇は貧しい庶民の救済を幕府に願い出たりした。
 光格天皇の一番の業績は大政(日本全土の統治権)が朝廷にあることを明確にしたことである。江戸幕府はただ、大政を借りているだけであった。幕末の大政奉還の動きはこのときに芽を出したのかもしれない。朝廷と幕府の関係は光格天皇から変わり、幕府は朝廷に伺いをたてることになったのである。
 孝明天皇は光格天皇の孫である。孝明天皇が即位したのが1846(弘化3)年で、15歳の若さであった。即位してから7年後にアメリカのペリーが艦隊を引き連れて日本に来た。
 幕府は、条約を締結するか朝廷に伺いをたてたが、孝明天皇は猛反対した。孝明天皇は攘夷ではあったが、討幕の意図はなかった。孝明天皇は公武合体を進めた。
 ペリー以後の孝明天皇の朝廷での立場はまさに攘夷派公家と公武合体派の公家に挟まれ、まさにサンドイッチ状態にあった。長州藩は攘夷派公家を抱き込み、薩摩藩は公武合体派の公家を抱き込んだ。主流派はあくまでも公武合体派である。孝明天皇は妹の皇女和宮を将軍徳川家茂に嫁がせた。しかし、この結婚は尊皇攘夷運動を激化させた。
 孝明天皇は条約に関しては頑なに幕府に勅許を出さなかったが、いつしか他の政策に勅許を出すようになった。孝明天皇は朝廷内で完全に孤立してしまった。そして、1866(慶応2)年、35歳の若さで薨去した。

 孝明天皇は毒殺されたという説もある。私は「幕末の歴史」を読んで、やはり孝明天皇は毒殺されたのではないかと思った。孝明天皇は朝廷と幕府とのよい関係を望んだのであろう。

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<ゆかりの地を訪ねて>

 写真最上は、気象庁の向かいに建っている和気清麻呂像です。皇居の周りや大手門をくぐり旧江戸城の見学や散策は、ことあるごとに行きましたので今では数えることができないほどになりました。折角の機会ですので、今まで撮りためた写真を、紹介したいと思います。文中に紹介された人物や時代を中心に、また、意外なところにこんなものがというところを掲載していきます。
皇居二重橋 写真左は、島倉千代子が歌った「東京だよおっ母さん」の歌詞に出てくる二重橋です。東京の名所として、外国人を多く目にします。歌詞「東京だよおっ母さん」では一番に登場します。地方から上京してくる人の東京のシンボルだったのでしょう。現在でも、東京のビル群から解放され、空が広く、周りに多くの樹木が植わっているためか空気が澄んでいる感じがします。
 戦前は、市電で桜田門から祝田橋を通り左折すると、車掌が次の停車場を宮城前とアナウンスすると乗客は一斉に立ち上がって一礼をしたとのことでした。また、「天皇陛下万歳」は明治時代に軍人が最初に始めたわけではなく東京大学の前身である旧制第一高等学校の学生が、明治天皇の奉送迎のときに、歓呼する言葉として初めて発せられところが二重橋近辺だったということです。今では、衆議院解散するときに「万歳」コールが国会内にこだましたり、自民党の総裁選挙で総裁に選ばれたときに「日本国万歳」を歓呼します。
 両隣の桜田門と坂下門同様に事件もありました。大正14(1924)年の朝鮮独立運動家が起こした二重橋事件です。

井伊掃部守邸跡地の案内板 写真左は、国会議事堂に隣接する公園に建っている井伊掃部頭邸跡(前加藤清正邸)の案内板です。案内板には次のように記されています。
< この公園一帯は、江戸時代初期には肥後熊本藩主加藤清正の屋敷でした。加藤家は二代忠弘の時に改易され、屋敷も没収されました。
 その後、近江彦根藩主井伊家が屋敷を拝領し、上屋敷として明治維新まで利用しています(歴代当主は、掃部頭《かもんのかみ》を称しました)。
 幕末の大老井伊直弼は、万延元年(1860)三月に、この屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩士等に襲撃されました。>
 桜田門外の変は、徳川家名門譜代である井伊家と徳川御三家である水戸家が敵同士となり、本来徳川家を支える立場の両家が、屋台骨を崩壊させました。この変で徳川家はますます窮地に陥っていきます。

法務省前出羽米沢藩上屋敷跡の石碑 写真左は、法務省前に建っている米沢藩上杉家江戸藩邸跡の看板です。上杉謙信を藩祖とする名門も、関が原の戦いで負け、戊辰の役でも賊軍となり、江戸時代につづき明治時代も苦汁をなめる格好になりました。それでも、桜田門の向かいに屋敷があることはやはり名門の証で、改易されずに明治維新を迎えました。案内板には次のように記されています。
< 関ヶ原の戦いの後、上杉景勝は徳川家康によって出羽米沢三十万石に移封されました。慶長八年(1603)、桜田門外の当地(現法務省の一部)に建てられた上杉家の江戸屋敷は「桜田屋敷」と呼ばれ、幕末まで江戸藩邸として中心的な役割を果たしました。・・・> 出羽米沢藩四代当主上杉綱憲は、赤穂浪士討ち入り(忠臣蔵)の一方の当事者である吉良上野介の実子です。もし、当主が、事件当夜に吉良上野介を援護をするために本所松坂町(墨田区両国)に援軍を送っていたならば、そのとき公儀はどのような裁定を下したのか、五代将軍綱吉はたぶんお家お取り潰しを断行したのではないでしょうか。

松の大廊下跡の石碑 写真左は、赤穂浪士討ち入りの発端になった松の大廊下の石碑と案内板です。案内板には次のように案内されています。
<赤穂浪士討ち入りにつながったことで知られる。浅野内匠頭長矩の吉良上野介義央への刃傷事件(1701年〔元禄14年〕)のあったところです。廊下に沿った襖戸に松と千鳥が描かれていたのが名前の由来といわれています。江戸城中で2番目の長い廊下で、畳敷きの立派なものでした。>

旧江戸城天守閣跡地 写真左は、江戸城本丸御殿跡地です。正面の奥に移っている風景は新橋方面です。現在でも日比谷公園辺りが眺望できるので、当時の天守閣からの眺めは江戸湾はもとより増上寺、品川辺りまで望めたのではないでしょうか。ペリー艦隊来航は驚天動地の大事件だったと思います。案内板には次のように案内されています。
< この天守台から見える大芝生とその周辺には、江戸城本丸御殿の建物が立ち並んでいました。本丸御殿は、表(おもて),中奥(なかおく),大奥(おおおく)という三つの空間に分かれていました。
 表は、将軍の謁見など公的な儀式・行事、幕府諸役人の執務の場で、中奥は将軍の日常生活、政務を執る場、大奥は御台所(みだいどころ)と呼ばれた将軍の正妻をはじめ家族や女性たちの生活の場でした。>

 以下に掲載した写真は・大手門・平川門・楠正成像 ・増上寺徳川家霊廟(和宮はここに永眠しています)です。
大手門平川門楠正成像増上寺徳川廟
 

一橋徳川家邸跡地の石碑 写真左は、徳川第十五代将軍慶喜を出した一橋徳川家屋敷跡の石碑と案内板です。案内板に次のように案内されています。
< 一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八代将軍吉宗の第四子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。
 一橋家・田安家・清水家は御三卿と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団は持たず、将軍家の身内として待遇された。
 当家は、二世治済(はるさだ)の長男家斉が十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍徳川慶喜であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。
 敷地は広大で、この一角のほか気象庁・大手町合同庁舎付近まで及んでいた。>
 江戸城の明け渡し後は、十三代将軍家定の御台所篤姫、十四代将軍家茂の正妻和宮は、一橋家屋敷に居住していました。
 他にも、旧江戸城にはいくつもの濠があり、それぞれの濠には橋が架かっていました。それは別の機会を設けて紹介したいと思います。

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 資格試験を修得すればそれだけで事が進むということはありません。資格試験を賢く用いるためにはソフトスキルが必要です。ソフトスキルとは、コミュニケーション力、語学力などを指します。
 ソフトスキルを鍛えるためには、文章を書くことが必要です。文章が書けない人が人前で論理的に話すことはできません。文章を書く上での正しい形を覚えるにはやはりいい文章を読んでみることです。いい文章をたくさん読むと自然にいい文章の形が頭に残ります。
 古典といわれる「名作」ほど私たちにいい文章を提供してくれるものはありません。「名作」をじっくりと読み、そしてそれの読後感を書くことで、読解力、表現力、思考力が身に付いてきます。書くことにより、話すことばが洗練され大きく変化していることに実感することになります。


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 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。


テーマ : 歴史・時代小説 - ジャンル : 本・雑誌

Tag : 幕末の天皇

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