砂川幸雄「大倉喜八郎の豪快な生涯」を読む

ホテルオークラ大倉集古館に座っている大倉喜八郎像です 大倉喜八郎という実業家がいた。私が大学生の頃、大倉喜八郎は「死の商人」と呼ばれていた。戊辰の役や日清・日露戦争で巨大な利益をあげたといわれ、日露戦争では石の缶詰を日本陸軍に納めたとまことしやかにいい伝えられた。とにかく大倉喜八郎は悪徳商人の最たるもので、政府と結託して日本国民を騙し、私腹を肥やしていたと私たちは教えられた。
 何も大倉喜八郎に限ったことではない。明治の偉大な実業家たち、たとえば安田善次郎・益田孝・岩崎弥太郎なども程度の差はあれ、悪徳商人に数えられた。
 何故、近代日本の土台を体を張って築いた明治の実業家たちを歴史家たちは悪しざまにいったのであろうか。その大きな理由の1つがアメリカ占領軍(GHQ)による日本の戦前を完全に否定する政策である。占領軍は、日本の戦前を完全否定することによって、自らの占領政策を肯定しようとしたのである。戦前の日本イコール悪の方程式は日本の各界に多大なる影響を与えた。特に影響を与えたのは歴史学会である。歴史学会では、戦前の日本を少しでも美化しようとしたら、袋叩きにあった。少なくとも、私たちが大学生の頃の進歩的だといわれている学者というのはほとんどが戦前の日本を否定していた。その一環であろう、大倉喜八郎が槍玉にあがったのは。大倉の業績から見て、大倉が悪くいいやすかったからであろう。
 戦前の日本イコール悪という方程式は薄らいだとはいえ、いまだに歴史学会・マスコミ界に残っている。東大が秋入学を検討しているという報道がなされたとき、すべてのテレビは、現在の世界の大学の状況をその理由としていたが、戦前、今の大学にあたる高等学校が秋入学であることに言及したテレビは1社もなかった。中高一貫教育にしても、飛び級にしても戦前の日本に存在した制度である。東大の前身である第一高等学校には推薦入学があった。GHQの教えをマスコミは今なお無意識のうちに守り続けているのである。
 日本を代表するホテルといえば帝国ホテルとホテルオークラである。この2つは大倉喜八郎とたいへん縁が深い。大倉喜八郎がいなければこの世に存在しなかったといってよいかもしれない。帝国ホテルは渋沢栄一が作ったようにいわれているが、金を出したのは大倉である。帝国劇場もしかりで、ホテルオークラにいたっては、大倉の本邸に建てられたものである。
 日本で最初に地下鉄が通ったのは上野・浅草間である。早川徳治がこの日本初の地下鉄開通をすすめたのであるが、元になる金がうまく集まらなかった。このとき、早川に手を差し伸べたのが大倉であった。大倉は自分の経営する会社である大倉土木が工事を請けおい、その工事代金の支払いは工事が終了してから1年後でよいと提案した。これによって早川は金の心配することなく地下鉄工事をすることができたのである。この地下鉄は成長して銀座線になり、さらに地下鉄は成長して、現在では日本の地下鉄は世界一のシステムになっている。
 大倉喜八郎の「男気」と将来を見据える冷静な目がなければ日本の地下鉄の普及はかなり遅れたかもしれない。この大倉土木は現在の大成建設である。
 大倉は教育にも熱心だった。将来の日本を考えれば教育が大事だと大倉は常々考えていた。大倉はきちんと商業の理論を学ぶための大倉商業学校を創立した。その他にも学校を作り、拓殖大学の前身の学校も創立した。大倉商業学校は現在の東京経済大学である。
 大倉はたくさんの会社の設立に尽力した。それらの会社のいくつかは現在でも存続している。私たちは、大倉の恩恵を知らずに受けているのである。その主だった会社をあげると、帝国ホテル・ホテルオークラ・大成建設・大倉商事・千代田火災海上・サッポロビール・東京製綱・日本無線・富士銀行・太陽生命などである。

 以上の大倉喜八郎の業績については砂川幸雄の「大倉喜八郎の豪快な生涯」に書かれている。この本を読むと、巷間いわれ続けた大倉に対する誹謗中傷がまったくのデマであることがわかる。
 大倉喜八郎批判の急先鋒になったのが東大の経済学の学者たちであるが、これら学者の話はまったく根拠のないものである。
 私は著者砂川幸雄の明治の実業家についての著作は好きでよく読む。砂川の著作のすばらしいのは、砂川が現実のビジネスについてその本質をよく知っているからである。大倉を批判する学者たちは本当に大倉の会社が缶詰に石を詰めたと思っていたのであろうか。もしそうならその時点で、この学者はビジネスについて論じる資格がないことになる。
 ビジネスにおいて、もし揺るぎない法則というものがあるとすれば、その1つは<信用のない会社は潰れる>というものである。缶詰に石を詰めたらその会社は間違いなく潰れる。市場経済社会において成功するためには、まず信用を築くことである。信用がなくては企業は絶対に成長しない。
 大倉喜八郎はその人生において人を裏切らなかった。そしてお客や社員を大事にし、なによりも日本の国の行く末のことを思った。大倉喜八郎の人格の偉大さが大倉を大実業家にしたのである。

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<ゆかりの地を訪ねて>

ホテルオークラ本館 写真上は、ホテルオークラ本館大倉集古館に威風堂々と座っている大倉喜八郎像です。 
 写真左は、ホテルオークラ本館玄関を写しました。日本初の私立美術館である大倉集古館は本館玄関の真向いに位置しています。大倉集古館はホテルオークラが開業する前から現在の位置にあり、邸宅の跡地に戦後ホテルが開業しました。同じ敷地内には、喜八郎の晩年に東京経済大学の前身である大倉商業学校も開校しました。
 ホテルの玄関には、日章旗の他にも星条旗も掲げられており、なるほどアメリカ大使館はホテルに隣接していました。アメリカ大使館に赴任する外交官は、日本のことをよく知るために着任早々大倉集古館に足を運び、大倉喜八郎が全国津々浦々から蒐集した仏教美術品や陶器、書画らの文化財などを見学して日本人を理解する足掛かりにするそうです。
 日本がアメリカ占領下に置かれていた時期は、アメリカ大使館は閉鎖されたままでしたが、連合国軍最高司令官の公邸が置かれていました。日本の有力政治家が足繁く公邸詣でを行っていました。占領下のときの駐留経費は賠償金名目で日本側に負担させ、その額は日本の国家予算の三分の一にもなり、財政を圧迫していました。その駐留経費を軽減してもらおうと公邸に出向いた時の大蔵大臣石橋湛山は、二割の軽減を了承させましたが、その後公職追放の目に会いました。 
 推測するに占領下における日本の政治の中心地は、進駐軍に接収された大倉喜八郎邸宅と現在のアメリカ大使館だったのではないかと思います。旧第一生命ビルは、あくまでも連合国軍最高司令官総司令部の事務所です。日本の将来は現在のアメリカ大使館の中で話し合われていた方が自然な流れです。現在のアメリカ大使館は、サンフランシスコ講和条約締結後の昭和27(1952)年から隣接していた建物を購入して敷地を広くして再開しました。その建物はアメリカから見れば憎っき南満州鉄道が所有していたものです。
 今思えば、日露戦争後の処理の不味さが太平洋戦争を招きました。アメリカの意見を採り入れていれば、その後の歴史は大きく変わっていたのかもしれません。不幸中の幸いは後世に大倉集古館が残ったことです。大倉喜八郎の偉大さを色眼鏡で見ることなく再評価できます。

墨田区旧大倉別邸の案内板 写真左は、墨田区堤通り沿い、首都高速上り向島出口付近に建っている大倉喜八郎別邸跡の案内板です。案内板には次のように案内されています。
< この一角は、田沼意次にとり入り、養女を大奥に入れて権勢をほしいままにした中野碩翁(なかのせきおう)の別邸跡で、隅田川に面して贅をこらしていた。そこを明治の政商、大倉喜八郎が受け継ぎ、大倉別邸としていた。邸内の川に面して建てられていた「蔵春閣」は船橋の「ららぽーと」に移築されている。>
 中野碩翁の養女は、徳川第十一代将軍家斉の愛妾お美代の方です。お美代の方と家斉との間には、東京大学の赤門で有名になった溶姫(専行院)を授かり、溶姫15歳の時に十三代加賀藩主・前田斉泰の正室になりました。溶姫のおかげで幕末の前田家はどのような働きもしていませんでした。モノの本では溶姫や溶姫のお付きの女中は、前田家の家臣や女中に悪態をつき、贅沢三昧であったそうです。この辺りは磯田道史「武家の家計簿」に詳しく書かれています。

墨田区立露伴児童遊園に建っている幸田露伴の石碑 写真左は、大倉別邸によく顔を出していた近所に住んでいた文人幸田露伴の石碑です。幸田露伴は大倉喜八郎を「木に例えれば四千年の大樹」と称しています。石碑が建っている場所は、現在では墨田区立露伴児童遊園になっています。石碑には次のように彫られています。
< ここは文豪幸田露伴が明治四十一年から大正十三年まで蝸牛庵と名付けて親しんだ住居の跡です。露伴は明治二十六年冬に、この寺島町かいわいに来住し、それから約三十年最も力の溢れた時期をこの地ですごし、数々の名作をを書かれました。当時の露伴は門弟を相手に剣道、弓道、相撲などしてよく庭で遊んだそうです。・・・・>

小田原共寿亭の入口 写真左は、小田原にある山月(共寿亭)の入口の写真です。晩夏の草木が当時の面影を残している感じがします。向かいには、総理大臣、陸軍元帥を歴任した山縣有朋の古稀庵があります。ここから数分歩いたところには、小田原三茶人の三井物産の益田孝(鈍翁)、電力の鬼の異名をとった松永安左エ門(耳庵)、日本経済新聞の前身である中外物価新報の編集を手がけて社長まで務めましたが、その後個人事業として中外物価新報の経営を立て直した野崎廣太(幻庵)の別邸がありました。
 山月(共寿亭)の案内板には次のように案内されています。
< 山月は、明治、大正期の実業家(男爵)大倉喜八郎が大正9年に建築した別荘で、当時は共寿亭と名付けられました。
 この建物は、外観は御殿風に見えますが、内は瀟洒な造りで、関東大震災でもほとんど被害がなかった堅固な別荘建築です。
 唐破風(からはふ)をのせた建築当時の玄関の前では狛犬2体が客を迎え、玄関ホールの床は、箱根細工様の桜と欅の寄せ木板張り、大広間は、雀と蝶の透彫りの鏡板を交互に使った格(ごう)天井、また応接間の天井は網代と杉柾の市松模様といずれも大変手が込んでいます。
 喜八郎が利用した2階の居間は、書院造り風で上段の間が付き、相模湾、箱根連山が一望できる素晴らしい眺望で、板戸には梅、水仙などの草木の花が彫金細工と岩絵具で描かれた絵で飾られています。・・・>

 下の写真は、大倉喜八郎が関わった建物で上から帝国ホテル、帝国劇場、箱根宮ノ下御用邸(現菊華荘)です。
帝国ホテル

帝国劇場

旧御用邸箱根宮ノ下菊華荘


護国寺大倉喜八郎夫妻墓所 写真左は、護国寺にある大倉喜八郎夫妻の墓所です。喜八郎は昭和3(1928)年に、92歳で死去しました。葬儀は赤坂本邸で行われ、政界からは、首相の田中義一をはじめ、浜口雄幸、若槻礼次郎らその後に首相を務める人たちをはじめ、政界の重鎮である床次竹次郎、清浦圭吾、財界からは三井高棟、岩崎小弥太、安田善三郎、馬越恭平、浅野総一郎らが弔旗、花輪を贈りました。また、中国大陸からは、張作霖、蒋介石らも弔旗を贈っています。
 護国寺には、山縣有朋、大隈重信、三条実美らと鹿鳴館の設計者である建築家ジョサイア・コンドルの墓所もあります。

上野彰義隊の墓 写真左は、上野公園にある彰義隊の墓です。墓の隣には彰義隊を破った西郷隆盛の像が建っています。彰義隊との商売は、大倉喜八郎が世に出るきっかけになり、「上野の戦争」という芝居や講談になりました。
 彰義隊から、官軍の味方し便宜を計らっていると疑いを掛けられていた鉄砲店大倉屋に、彰義隊の騎馬が大勢押しかけて、若き大倉喜八郎に言いがかりをつけ、御用召といわれ彰義隊の本営に同行させられ詰問を受けます。これに対して大倉喜八郎は毅然とした態度で「現金引換えで武器を仕入れている大倉屋は、代金を一文も貰えぬ彰義隊とは商売できぬ」と答え、観念したのか彰義隊から「現金で払うから三日以内に鉄砲三百挺を納めろ」との注文をいただきました。帰り道、上野寛永寺近辺は物騒なので、彰義隊の護衛の下、山を下ってきました。
 上野戦争は、午前9時に始まり、その日の正午には勝負がついていました。彰義隊は、予め官軍が逃げ道に用意した日暮里口の坂を駆け下り、遁走しました。官軍の大村益次郎が描いたシナリオ通りに事が運びました。

 ブログ「名著を読む」に大倉喜八郎と関係ある著作を以下の通り掲載しています。
浜口雄幸「随感録」
瀧井一博「伊藤博文 知の政治家」
村上文昭「ヘボン物語 明治文化のヘボン像」
中村建治「メトロ誕生」
白崎秀雄「鈍翁・益田孝」
渡辺房男「儲けすぎた男 小説安田善次郎」
渋沢栄一「現代語訳 論語と算盤」
小林一三「私の行き方」
松永安左エ門「電力の鬼 松永安左エ門自伝」
幸田文「みそっかす」

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 資格試験を修得すればそれだけで事が進むということはありません。資格試験を賢く用いるためにはソフトスキルが必要です。ソフトスキルとは、コミュニケーション力、語学力などを指します。
 ソフトスキルを鍛えるためには、文章を書くことが必要です。文章が書けない人が人前で論理的に話すことはできません。文章を書く上での正しい形を覚えるにはやはりいい文章を読んでみることです。いい文章をたくさん読むと自然にいい文章の形が頭に残ります。
 古典といわれる「名作」ほど私たちにいい文章を提供してくれるものはありません。「名作」をじっくりと読み、そしてそれの読後感を書くことで、読解力、表現力、思考力が身に付いてきます。書くことにより、話すことばが洗練され大きく変化していることに実感することになります。


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 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。



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Tag : 大倉喜八郎の豪快な生涯

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