重光葵「昭和の動乱 (上)(下)」を読む

巣鴨プリズン慰霊碑 中国・韓国からの太平洋戦争の日本の戦争責任に対する批判が喧しい。本来なら戦争責任の追及は日本が徹底的にやるべきではないか。
 日本の戦争責任は、戦後の極東軍事裁判で裁かれた。人道に対する罪という罪状で、戦争を主導したとされる軍人・政治家が断罪された。極東軍事裁判で決まったことが、その後の日本人の太平洋戦争史観を形作った。
 日本の戦争責任が裁かれただけでなく、戦後の世界は大戦に勝利した連合国によって秩序立てられた。国際連合は連合国に参加した国によって組織された。大戦に負けた日本・ドイツは当初は国際連合に加盟できなかった。加盟したあとでも、国際連合の規約では日本・ドイツは現在でも敵国と規定されている。
 戦後も間もなく70年になる。そろそろ極東裁判史観で太平洋戦争を見るのではなく、客観的・総合的・論理的に分析しなければならない時期にきているように思う。いつまでも「あの戦争は日本が悪い」だけでは何の教訓も得られないのではないか。
 昭和天皇は極東軍事裁判では、戦争責任は問われなかった。しかし、東大法学部が「天皇に戦争責任はない」という立場であるにもかかわらず、いまだに天皇に戦争責任があるという人たちが少なからずいる。私は学校時代、天皇に戦争責任があると教わった。
 死刑にならなかったA級戦犯は巣鴨プリズンに永らく収容された。その1人に重光葵がいた。重光は巣鴨プリズンから釈放されるまで、毎日手記を書いた。それは太平洋戦争がなぜ起こり、なぜ日本が無残な負け方をしたかの回想記であった。少なくとも重光は戦争をした側の当事者であった。この手記はその後、「昭和の動乱」として公になった。
 重光は戦争直後の東久邇内閣の外務大臣を務め、アメリカ軍のミズリー号で、日本の全権として降伏文書に署名をした人である。この署名から日本の戦後は始まったのである。
 私は「昭和の動乱」を読んで、天皇に全く戦争責任がないことを確信した。また、この本が戦前の昭和史を知る上での最高級の一級資料であると思った。

 「昭和の動乱」は満州事変からポツダム宣言を受諾して日本が正式に降伏したときまでを詳述している。この間、重光は外務省の人間として、大使・外務大臣などの要職に就き、つねに一線で活動してきた。自分の目で見、自分の肌で感じたことを、わかりやすく、かつ格調高い文章で述べている。
 重光の文章は冷静であるが、読み進むうちに、私は何度も軍部の横暴に腹が立った。戦前の昭和の時代は狂気そのものであるという風に私の目には映った。その狂気を演じたのは軍部であるが、協力したのは政党人という政治家である。軍部と政治家が自らの利権のために行動した結果が、米英との戦いであったのだ。
 なぜ軍部は暴走したのであろうか。政府は軍部の動きを止めることができなかったのであろうか。「昭和の動乱」はこの問いに対する明快な答えを示している。
 政府は軍事予算を決めることができるが、軍隊の統帥権はもっていなかった。軍部は統帥権を拡大解釈することで、軍部のすることに関して一切政府に文句をいわせなかった。明治憲法によると、統帥権は天皇がもっているから、天皇の命令は軍部はきくはずであった。 
 ところが、天皇は君臨すれど統治せずで、天皇自らが権力を行使することは慣例上できなかったのである。あくまでも天皇を輔弼する元老・大臣が代わって権力を行使するのである。天皇以外には統帥権をもたないから、結局、軍部はやりたい放題である。元老が元気なうちは、統帥権は問題なかったが、昭和になって元老がほとんどいなくなると、軍部を押さえるものがなくなったのである。
 例外的に、天皇が自ら統帥権を行使したことが2度あった。一度目は2・26事件のときで、二度目のときはポツダム宣言を受諾して降伏を決めたときである。
 重光は同じ外務省の吉田茂と同様に世界の情勢をよく知っていた。重光は何としても英米と協力して支那問題を解決したかった。重光は最後まで英米と干戈を交えることを阻止しようとしたが、すべて徒労に終わった。
 重光が東条内閣のときに外務大臣になったのは、重光の外交能力を東条が買ったからである。重光はいろいろと和平を模索した。
 
 重光は太平洋戦争を全面的に悪であると断罪しているわけでない。太平洋戦争のおかげでアジアの多くの植民地が独立したからである。特に、インドでは、現在でも、日本軍を救世主として崇めている。
 猪木正道の「評伝 吉田茂」を読んだときも違和感を覚えたのだが、今回「昭和の動乱」を読んでも違和感を覚えた。それは、張作霖を含めた清滅亡後の中国の軍閥のことである。当時は、中国北部は軍閥が割拠し、お互いに覇を競っていた。日露戦争後、日本は条約に則って満州に軍を置いた。その日本軍を軍閥とくに張作霖は騙すように利用した。中国のこの時代のことを偏見なく、分析することが今後必要なのではないか。

にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ


昭和の動乱〈上〉 (中公文庫BIBLIO20世紀)昭和の動乱〈上〉 (中公文庫BIBLIO20世紀)
(2001/10)
重光 葵

商品詳細を見る
昭和の動乱〈下〉 (中公文庫BIBLIO20世紀)昭和の動乱〈下〉 (中公文庫BIBLIO20世紀)
(2001/10)
重光 葵

商品詳細を見る
名作を読む一 日本を語れる日本人になる名作を読む一 日本を語れる日本人になる
(2013/03/12)
数学道場・作文道場

商品詳細を見る

<ゆかりの地を訪ねて>

湯河原重光葵旧別邸 写真上は、第二次世界大戦後に設置された戦争犯罪人(戦犯)の収容施設巣鴨プリズンがあった場所に建つ慰霊碑「平和の碑」です。現在は巣鴨プリズンの跡地はサンシャインシティとして再開発され、処刑場周辺は東池袋中央公園として整備されました。慰霊碑には「永遠の平和を願って」と彫られています。巣鴨プリズンで、極東国際軍事裁判により、1948年12月23日に死刑判決を受けた東条英機ら七名が死刑の執行が行われました。
 巣鴨プリズンは、もともと巣鴨監獄、巣鴨刑務所であり、関東大震災で被害を受けた刑務所は、府中に移転しました。第二次世界大戦中には、思想犯や反戦運動に関わった人が拘置されていました。ゾルゲ事件のゾルゲと尾崎秀美(ほつみ)は、この地で死刑の執行が行われました。
 1958年5月、最後の戦犯18名が釈放され閉鎖されました。なお、最も収容者数が多かったのは1950年1月で、1862名の戦犯が収容されていました。
 写真左は、湯河原にある重光葵の旧別邸です。現在は重光葵は、1956年12月国連加盟に際し、日本代表として国連総会「日本は東西の架け橋となる」と演説しました。1957年1月26日、ここ湯河原の別邸で急逝、享年69歳でした。

第三次鳩山一郎内閣の集合写真 写真左は、第三次鳩山一郎内閣の集合写真です。写真は文京区にある鳩山会館で撮影しました。重光葵は、副総理兼外務大臣として入閣しました。重光葵は、前列の右側に杖(ステッキ)を持って立っています。
 第三次鳩山一郎内閣は、1955(昭和30)年11月に発足しました。通商産業大臣には、その後に総理大臣なった石橋湛山、北海道開発庁長官には読売新聞社主の正力松太郎らがいます。この写真に写っている大臣のほとんどは、戦争終結後に公職追放や巣鴨プリズンに収容された人たちです。
 また、大蔵大臣に就任した一万田尚登は、日本銀行総裁として在任期間3115日という歴代最長の記録を持っています。日本銀行総裁に就任したのは、日本銀行でも高級官僚がすべて公職追放になり、能力の有無に関係なく棚から牡丹餅の就任だといわれました。在任中のエピソードとしては、終戦後、無謀と新聞にたたかれた川崎製鉄所の建設があります。千葉に川崎製鉄所の建設を通産省に請願書を提出したところ、資金源の日銀総裁一万田は、あからさまに反対して、「アメリカは技術も格段に優れ、安い鉄鉱石も原料炭もある。川鉄が勝てるはずもない。千葉の製鉄所は今にぺんぺん草が生えるぞ。」という後世に残る言葉を吐き、通産省からの認可が大幅に遅れました。その後朝鮮特需で、屑鉄の暴騰により、認可を待たずに川鉄は息を吹き返して、製鉄所を建設して世間を驚かせました。一万田は、権力欲が旺盛で「一万田天皇」と呼ばれていました。大蔵省事務次官、内閣総理大臣を歴任した池田勇人ぐらい能力があれば、もっと早くに日本は復興していたのではないかと思います。
 一万田は、重光と同じ大分県出身で、旧制第五高等学校(現熊本大学)から東京帝国大学法学部を卒業しています。

日ソ共同宣言の写真 鳩山一郎内閣の大仕事は、日本とソビエト社会主義連邦の国交回復と国際連合加盟でした。重光は日ソ国交回復に奔走しました。写真左は、1956年12月モスクワで、日ソ共同宣言を署名する鳩山一郎内閣総理大臣です。この写真も、鳩山会館で撮影しました。日ソ共同宣言の条約で日本は国際連合に加盟することができました。しかし、未だに日ロの平和条約は締結されていません。日ロの会談になると北方領土問題が話の中心となって、話が前に進みません。来年で第二次世界大戦終結から70年です。終戦当時とは世界情勢は大きく変わりました。日本の安全保障を考える上で、平和条約締結は必須だと思います。
 重光は、1956年12月8日に、加盟76か国の全会一致で国際連合加盟の承認を得ました。重光は、加盟受諾演説を行い、国連本部前庭に自ら手で日章旗を高々と掲げました。
 翌年1月に狭心症でこの世を去りました。

霞が関外務省 写真左は、霞が関の外務省です。写真は経済産業省から撮りました。国会議事堂が現在の場所に移る前は、現在の経済産業省あたりに、国会議事堂がありました。
 現在では、霞が関に省庁官庁が集まっていますが、明治時代から戦前までは、各省が散らばっていました。ちなみに、外務省は明治3年に銀座から現在の地に移ってきました。内務省や文部省は、大手町(現三井物産本社付近)にありました。
 外務省の地は、江戸時代は福岡黒田藩の上屋敷でした。明治維新後に維新の三傑である大久保利通の邸宅になり、明治3年からは旧黒田藩の屋敷を明治10年の焼失まで外務省の官舎として使用されました。


 ブログ「名著を読む」には、猪木正道「評伝 吉田茂」鳩山春子「我が自叙伝 鳩山春子」の読書感想文も掲載しています。ぜひとも読んでください。

<数学道場・作文道場からのお知らせ>

作文添削指導 4回10,500円 送料無料

 社会で成功する法則はありませんが、失敗する法則はあります。人と上手に交わることこそチャンスに巡り会うことが出来ます。成功の鍵はコミュニケーション力であり、伝える言葉であり、相手の意見に耳を傾けることです。コミュニケーションとは要領よく立ち居振る舞いすることとは全く違います。話す言葉で相手はあなたの力量をはかり判断します。
 資格試験を修得すればそれだけで事が進むということはありません。資格試験を賢く用いるためにはソフトスキルが必要です。ソフトスキルとは、コミュニケーション力、語学力などを指します。
 ソフトスキルを鍛えるためには、文章を書くことが必要です。文章が書けない人が人前で論理的に話すことはできません。文章を書く上での正しい形を覚えるにはやはりいい文章を読んでみることです。いい文章をたくさん読むと自然にいい文章の形が頭に残ります。
 古典といわれる「名作」ほど私たちにいい文章を提供してくれるものはありません。「名作」をじっくりと読み、そしてそれの読後感を書くことで、読解力、表現力、思考力が身に付いてきます。書くことにより、話すことばが洗練され大きく変化していることに実感することになります。


名作を読むiOSアプリ名作を読むiOSアプリ
 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。


テーマ : 読書感想文 - ジャンル : 小説・文学

Tag : 昭和の動乱

COMMENTS

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)