杉森久英「新渡戸稲造」を読む

多磨霊園に座っている新渡戸稲造像 1984年に、新渡戸稲造の肖像画が描かれた5000円札が発行されたとき、どれほどの人が新渡戸稲造のことを知っていたであろうか。私は、そのとき20代半ばであったが、恥ずかしながら新渡戸のことは知らなかった。私だけでなく、私と同世代の知人たちもほとんど新渡戸のことは知らなかった。学校で教わらなかったのが大きな原因であろう。
 何しろ、新渡戸は「武士道」という本を書いている。この本は英語で書かれ、欧米でベストセラーになったにもかかわらず、タイトルのせいか、学校で読むようにすすめられたことは一度もなかった。武士道は悪しき軍国主義につながるものとして、学校教育では扱われないのであろう。
 おそらく戦争反対といっている多くの教育者たちは新渡戸の「武士道」を読んだことがないのであろう。一度読めば、この本が軍国主義につながるとはまったく思わないはずである。教育現場もそろそろ本気で戦前は悪という偏見をなくす時期にきているのではないかと私は痛切に感じる。
 とにかく、新渡戸の肖像が描かれた新しい5000円札の出現は、新渡戸稲造という人間を知る上で非常によかった。私は新渡戸について知りたいと思った。
 私は「武士道」を読み、新渡戸について書かれた本を読むうちに、新渡戸稲造という人間が化け物と形容してもいいような偉大な教養人であることを知った。
 新渡戸の本職は教育者であるが多面的な顔をもっている。教育者としても多面的である。農学博士・法学博士ではあるが、ドイツ語・英語・文学・哲学・思想・歴史・経済学なども教える。どれも専門の教授以上のレベルである。札幌農学校教授・京都帝国大学教授・東京帝国大学教授そして第一高等学校の校長と東京女子大学校の校長を歴任している。 国際情勢についての知識は新渡戸の右に出るものはなく、新渡戸は国際連盟の事務次長も務めたし、各種の国際会議の議長も務めた。
 新渡戸の信念は太平洋の架け橋になることであった。

 杉森久英の「新渡戸稲造」は新渡戸の生涯を描いた自伝小説である。新渡戸を知るには最適の名著である。
 新渡戸稲造は1862(文久2)年、南部藩士の三男として生まれた。森鴎外と同じ年に生まれている。幼い頃、父親を亡くし、叔父の養子になった。すこぶる頭のよい子で、上京して東京英語学校(後の大学予備門でその後、第一高等学校になる)に入学し、卒業する。内村鑑三が同級生であった。卒業生の大半は東京大学に進学するのであるが、新渡戸は設立されたばかりの札幌農学校に進む。これからの日本の発展のためには、科学が必要との思いから農学を志したのだが、本当の理由は札幌農学校の生徒は官費生で、お金がかからなかったからである。
 新渡戸は札幌農学校の校風にすぐ馴染んだ。クラーク博士の影響で、農学校はキリスト教の学校で、教授陣は外人で、自由であった。新渡戸は図書館にある西洋の本を片っ端から読み漁った。新渡戸は洗礼を受けキリスト教徒になった。
 札幌農学校を卒業すると、規定によって、新渡戸は農業関係の仕事につくが、学問を続けたいと東京大学に入学する。しかし、東京大学の授業があまりにも低レベルなので、思い切ってアメリカに渡り、ジョンズ・ホプキンス大学に入学した。新渡戸は、そのアメリカの地で、クエーカー教徒のメリー・エルキントンと知り合い、彼女と結婚した。当時、日本人が白人のアメリカ人と結婚することは画期的なことであった。ましてや、メリーの父親は名士で富豪であった。
 新渡戸はアメリカからドイツへと渡り、学問を深めて、日本に帰ってきた。日本に帰った新渡戸は数々の教職につくが、特筆すべきは第一高等学校の校長になったことである。当時の第一高等学校といえば、超エリート校で、卒業後は各界の日本の指導者になることが半ば保障されていた。新渡戸が赴任したときの第一高等学校は江戸時代の名残りを残す昔気質の保守的な学校であった。生徒のほとんどはいわゆる硬派で、先輩は平気で後輩に暴力を振るった。新渡戸はこの校風を変えるべく、行動を起こした。新渡戸の教育理念は教養をベースにした博愛精神を育むことであった。
 新渡戸のやり方に反発するものもいたが、多くの学生は新渡戸を支持した。新渡戸の教え子からたくさんの有為な人間が輩出した。
 1920年に国際連盟が設立されると、新渡戸は事務次長に選ばれた。新渡戸は人種差別撤廃を提案したが、アメリカの反対に会い否決された。
 大正以降になると、アメリカにおいて排日運動が盛んになり日米関係は険悪のムードになった。新渡戸は何とか日本とアメリカの架け橋になって両国が友好関係になるよう尽力したが、夢破れて1933(昭和8)年に没した。

 教養がいかに大事か、「新渡戸稲造」を読んで、私はしみじみと感じた。

<名所・旧跡をめぐって>

写真上は、多磨霊園に座っている新渡戸稲造の像です。多磨霊園には、政治家、軍人、文人ら多くの著名な人の墓所があります。新渡戸稲造の墓所ももちろんありますが、なぜこの霊園に像があるのかは不明です。青山霊園と同じで、日露戦争で功績を上げた陸軍大将児玉源太郎、海軍元帥東郷平八郎、日露戦争に参戦し、その後海軍元帥の山本五十六ら将官クラスの墓や日露戦争を金融面で支えた高橋是清ら政治家の墓など随所に墓所がありました。
 青山霊園、染井霊園らはさくらの名所ですが、多磨霊園はツツジが咲く五月が華やかです。霊園の中を車で走行していると、桃色がかった赤いツツジが鮮やかです。

旧制第一高等学校の石碑 写真左は、東京大学農学部の敷地に建っている向陵碑です。旧制第一高等学校は、昭和八年に、東大農学部と校地交換で駒場に移るまでこの地にありました。新渡戸稲造はこの地で、現在の東京大学の礎を築きました。ちなみに、第一高等学校が移ってくる前は、小説家志賀直哉の祖父直道が関係した相馬事件の東京府癲狂院(その後東京府巣鴨病院)がありました。この相馬事件には、新渡戸が台湾総督の技師時代の上司である後藤新平が深く関わっていました。
 左の写真下は、東京大学駒場校舎に建っている一高石碑です。第二次世界大戦中には、旧制東京高等学校が、中野の校舎が戦火にあい、駒場に間借りしていたと作家の星新一が述べていました。
 向陵碑には次のように、< 我が第一高等学校は、初め東京英語学校と称し、神田一ツ橋に在り、明治八年に創立せらる。十年、大学予備門と称し、十九年、第一高等中学校と称し、二十二年、本郷向陵に遷る。二十三年、令の名に改めて、法学博士木下廣次先生校長に任ぜられる。此の時に当たり、欧米の綺麗の風、上下に弥漫し、殆ど将に国の礎を危くせんとす。先生これを憂へ、四大綱領を掲げ、自治寮の規制を制定し、以って天下に倡道す。是に於いて、全校学生、頓に面目を改め、・・・>と案内されています。
 一高といえば、日本三大寮歌の一つとされ、寮歌の中で最も人口に膾炙した歌の一つである「嗚呼玉杯に花うけて」(通称)があります。一番、二番の歌詞は次の通りです。
現在の東大生もこのくらいのエリート意識を持ってほしいものです。

嗚呼(ああ)玉杯に花うけて
緑酒(りょくしゅ)に月の影宿(やど)し
治安の夢に耽(ふけ)りたる
栄華(えいが)の巷(ちまた)低く見て
向ケ岡(むこうがおか)にそそり立つ
五寮の健児(けんじ)意気高し

芙蓉(ふよう)の雪の精をとり
芳野(よしの)の花の華(か)を奪い
清き心の益良雄(ますらお)が
剣(つるぎ)と筆とをとり持ちて
一たび起たば何事か
人世の偉業成らざらん

新渡戸稲造旧居跡の案内板 写真左は、文京区小日向に建っている新渡戸稲造旧居の案内板です。案内板には次のように案内されています。
< 新渡戸稲造(1862~1933)は、農学者、教育者、国際人、南部藩士の子として盛岡に生まれ、幼くして上京した。明治10年札幌農学校第2期生として内村鑑三らと共に学んだ。さらに、東京帝国大学に学び、またアメリカやドイツに留学して農政経済学や農学統計学などを学んだ。
 明治24年、メアリー夫人(アメリカ人)と結婚して帰国、札幌農学校で教えた。後、京都帝国大学教授を経て、明治39年第一高等学校校長となり、学生に深い影響を与えた。その後東京帝国大学教授、東京女子大学初代校長となった。また、地元拓殖大学の学監(学長)も務めた。
 「太平洋の橋」になることを若い時から考え、国際的にも活躍し、わが国の思想や文化を西洋に、また西洋のそれをわが国に紹介することに努めた。大正9年には国際連盟事務次長となり、"連盟の良心"といわれた。昭和2年帰国して、太平洋問題調査会理事長となり、きびしい国際情勢のなか平和を求めて国際会議に出席してカナダで亡くなった。
 ここは、明治37年から昭和8年まで住み、内外の訪問客を迎え、ニトベ・ハウスと呼ばれた旧居跡である。>

文京区切支丹屋敷跡の石碑 写真左は、新渡戸稲造旧居跡の傍に、作家遠藤周作が乏しい資料で、想像逞しく書いた「沈黙」にも描かれている切支丹屋敷の石碑です。新渡戸は札幌農学校出身なので、キリスト教信者です。同じキリスト教という縁続きで、江戸時代のキリスト教徒はどのように扱われていたのか、案内板に少し説明されていますので記します。
< キリシタン屋敷は正保三年(1646)に宗門改役井上筑後守政重下屋敷に建てられた転びバテレンの収容所です。江戸幕府はキリスト教を禁止し、多くのキリシタンを処刑していましたが、島原の乱をへて、転ばせたバテレンを収容し閉じ込める施設として新しく造ったものです。牢屋と長屋があり、この中では一応無事な生活が許されていました。幕府がバテレンの知識を吸収する場にも利用されました。
 最後の潜入バテレンとなるシドッティ(シドッチ)もここに収容され新井白石の尋問を受けています。シドッティ後は収監者も無く、享保九年(1724)焼失し、以後再建されず、寛政四年(1792)に屋敷は廃止されました。>

 以下の写真は、多磨霊園で写した、新渡戸稲造,内村鑑三、児玉源太郎の墓所です。
多磨霊園新渡戸稲造の墓所
多磨霊園内村鑑三の墓所
多磨霊園陸軍大将児玉源太郎の墓所


拓殖大学に建っている桂太郎像 写真左は、新渡戸稲造も学監も務めた拓殖大学に建っている拓殖大学創立者で、元総理大臣桂太郎像です。拓殖大学第三代総長には後藤新平がいます。桂太郎、児玉源太郎、後藤新平は、政友会を設立したメンバーで、政友会の初代会長は伊藤博文です。
< 拓殖大学の前身台湾協会学校の創立者で、初代校長をつとめた公爵桂太郎先生(1848年~1913年)の銅像である。
 桂太郎公は弘化四年山口県萩に生れる。
 長州藩士として幕末緒戦に参加、維新後、ベルリンに留学、プロシアの兵制を学ぶ。山県有朋、大山巌を輔けて軍政の改革を図り、参謀本部の独立、鎮台の師団改編等を行い、明治陸軍建設に大きな役割を果たし、陸軍大将に累進した。
 第二次台湾総督、陸相の後、明治三十四年初めて組閣の大命を拝し、第一次桂内閣首相として翌年日英同盟を締結、さらに同三十七年、日露戦争勃発するや挙国一致これに対処してよく戦勝に導き、しかも戦争の終結を深謀、外相小村寿太郎を全権として講和条約を結ばせた功績は史上に著しい。
 明治三十三年(1900年)、台湾協会会頭として台湾協会学校を創立して初代校長に就任、以後十二間にわたり本学の基礎をつくった。また医学会でも初代癌研究所会長に就任し、医療の発展に貢献した。
 大正二年(1913年)十月十日急逝。享年六十七歳。
 この銅像は大正三年六月に完成したもので、設計・鋳造は武石弘三郎の作である。>

 ブログ「名著を読む」には、新渡戸稲造自身の著作や新渡戸稲造と関係が深い人物の作品があります。「新渡戸稲造」とあわせて読んでください。新渡戸稲造の考え方や時代背景がわかります。
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テーマ : 歴史・時代小説 - ジャンル : 本・雑誌

Tag : 新渡戸稲造

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