澤地久枝「妻たちの二・二六事件」を読む

麻布 賢崇寺 二士二士之墓 いつの間にか、日本では歴史を論ずるものは良し悪しを判定する審判になったようだ。 歴史的事実を前にして、これは悪だと判定することが歴史の直視に繋がるのであろうか。歴史学には、本来、歴史的事実の善悪の判定など必要はないはずだ。
 現在では、日本では売春は禁じられている。売春を禁ずるのは人権上の問題でもある。その人権上の問題を歴史上でも普遍化して、江戸時代の吉原は悪だという輩もいる。これが歴史を見る目なのか。
 安政の大獄を行った井伊直弼は歴史上、悪人のように扱われている。私は子供の頃、井伊直弼は悪人だと信じていた。ところがなぜ悪人なのであろうか。為政者が反対するものを殺して悪人になるならば、織田信長はさしずめ大悪人ではなかろうか。井伊直弼は日本の近代化を推し進めた人ではないのか。
 A級戦犯容疑者になって自殺した近衛文麿も評判が悪い。近衛は軍部に睨まれても必死になって日米講和の道を探った人ではないのか。
 歴史を論ずる人が審判になったとき、歴史は歴史でなくなる。私はこのことを、特に、2・26事件を考えるときに思う。
 2・26事件とは昭和11(1936)年2月26日に、陸軍の青年将校たちが起こした革命のことである。この革命は時の天皇(昭和天皇)を激怒させ、首謀者たちは半年後にはほとんど死刑になった。首謀者たちは年齢的に30歳に近く、彼らは処刑後、テロリストとして断罪され、歴史上葬られた。
 高杉晋作も伊藤博文もテロリストであった。しかし、高杉も伊藤も歴史上では英雄と評価されている。2・26事件の青年将校たちと高杉らの行動の違いは何であったのか。その違いを解明するのが歴史を見る目であって、単に青年将校たちを悪と決めつけることが歴史ではないはずだ。 
 現在では、2・26事件のことは触れられることはない。今年(2014年)の2月26日にもマスコミは一切報道しなかった。2・26事件は戦前の恥ずべき事件として永遠に語られることはないのであろう。
 青年将校たちは処刑されたが、残されたものたちがいた。彼らの妻そして子たちであった。青年将校たちはいずれも妻帯していたが、新婚ほやほやであった。残された妻たちは若くして未亡人となったのである。テロリストとして処刑された夫を持つ未亡人たちは、事件後どのような人生を歩んだのであろうか。

 澤地久枝の「妻たちの二・二六事件」は2・26事件で処刑された将校の妻たちの事件以後のことを綴ったノンフィクションである。執筆時期は、現在から40年以上前の昭和45年頃である。2・26事件からすでに30年以上の時が過ぎている。
 この本はルポルタージュともいわれるが、私にはさしずめ重厚な奥の深い私小説のように思えた。緊張感のある文章、そして事実を虚飾なく、感情を入れず冷徹に描く手法は、私には、芸術の粋に達していると思えた。出版されてから40年以上たっているのに、色あせたところは一つもない。もはやこの本は古典になった感がある。名著の中の名著であると思う。この本は13章で構成されている。おそらく、雑誌に掲載されたものを本にしたのであろう。
 第1章は「一九七一年夏」である。青年将校たちは事件後の1936年7月12日に大半が処刑された。彼らは軍法会議にかけられ問答無用に死刑宣告を受けたのである。青年将校たちの霊は麻布の賢崇寺に祀(まつ)られた。1971年7月12日に賢崇寺で法要が営まれた。35回目の命日である。青年将校たちの遺族たち30余人が集まり、故人を偲んだ。著者の澤地はこの後、数人の2・26事件の妻たちの事件以後を追ったのである。
 すべてといってよいほど、2・26の妻たちは夫のことは口に出さず、ひっそりそして強く生きてきた。彼女たちの辛さの一つは、同年輩の戦争未亡人が私の夫は戦地で死にましたといえるのに、自分たちはいえなかったことである。夫たちはテロリストとして死刑になったからだ。
 この本で心を打たれたのはテロリストとして断罪された2・26の夫たちが、妻を愛し、短い結婚生活でも妻にやさしかったことである。ほとんどの2・26の妻たちは夫の面影を胸にしまって独身を通した。彼女たちの生活は過酷で辛酸をなめた。
 最後の章では、民間人として事件に関与して処刑された水上源一の妻のことを扱っている。水上は湯河原の宿にいた牧野伸顕を襲ったのである。この2・26の妻は夫の遺骨を離さず守り続け、夫の故郷である北海道に住んでいる。彼女は紆余曲折を経て、小さな幸福を手に入れた。私はこれを読んで思わずうれしくなった。

 2・26の夫たちはみんな真面目で心底国の安泰を願っていた。私利私欲のために行動した人は一人もいなかった。そして、2・26の妻たちは口に出さずとも夫たちのことを死ぬまで思い続けたのである。

<名所・旧跡をめぐって>

 写真上は、麻布の賢崇寺に葬られている二・二六事件で刑死した青年将校の墓所です。「二十二士之墓」の墓石の板塔婆には、「二・ニ六事件 二十二士諸霊・・・」の文字が見えます。刑死した人間としては、賢崇寺に葬られとは破格の待遇だったのではないかと考えます。
 余談ですが、賢崇寺は由緒ある寺で肥前鍋島藩の菩提寺です。案内板には次のように記されています。
< 賢崇寺は、肥前佐賀藩主鍋島勝茂が、寛永十二年(1635)疱瘡で死んだ嗣子忠直の菩提を弔うために忠直を開基として創建したお寺で、忠直の戒名「興国院殿敬英賢崇第居士」より、興国賢崇寺と名付けられ、江戸における鍋島家の菩提寺となった。・・・>

東京青山高橋是清翁記念公園に座っている高橋是清像高橋是清旧宅、寝室、墓所 写真上は、青山の高橋是清翁記念公園に座っている高橋是清像です。案内板には次のように記されています。
< この公園は、日本の金融界における重鎮で大正から昭和初めにかけて首相、蔵相などをつとめた政治家「高橋是清」翁(1854年~1936年)の邸宅があったところです。
 翁は、昭和11年(1936年)2.26事件によりこの地において83歳で世を去りました。翁の没後、昭和13年(1938年)10月高橋是清翁記念事業会がこの地を東京市に寄附し、昭和16年(1941年)6月東京市が公園として開園しました。その後、昭和50年(1975年)港区に移管されたものです。第二次世界大戦の空襲により翁にゆかりのある建物は焼失してしまいましたが、母屋は故人の眠る多摩霊園へ移築されていたため難を免れ、現在は都立小金井公園にある東京たてもの園へ移されています。戦時中撤去されていた翁の銅像も昭和30年(1955年)に再建されました。・・・>
 写真左は、上から東京たてもの園に建っている高橋是清旧邸、即死した寝室、多磨霊園にある高橋是清墓所です。
 旧邸は、是清が、赤坂の丹波篠山藩青山家の中屋敷跡地を購入し、1902(明治35)年に屋敷を建てました。趣向を凝らし、複雑な屋根構成と当時はまだ珍しい高価な硝子障子を縁回りに多数設置していました。戦災で焼失する前までは母屋の他に、三階建ての土蔵や、離れ座敷があるたいそう豪勢な屋敷でした。
 寝室は、建物の二階に位置し、1936(昭和11)年2月26日早朝、兵士十数名が寝室になだれ込み、白の寝巻姿で蒲団に座っていた是清に銃弾を浴びせ、軍刀で切りつけました。即死でした。
 多磨霊園の高橋是清墓所の周りには、最後の元老西園寺公望や日露戦争において満州で指揮を執った陸軍大将児玉源太郎、第一師団長の陸軍大将黒木為楨や日本海海戦で指揮を執った元帥海軍大将東郷平八郎らの墓所があります。これらの人とは、面識があるかどうかはわかりませんが、日露戦争をともに戦った戦友であることには間違いはありません。

首相官邸と憲政記念館 写真左は、永田町にある首相官邸です。官邸も2.26事件の舞台になりました。1932(昭和7)年の五・一五事件のときも、武装した大日本帝国海軍の青年将校たちが官邸に乱入し、ときの内閣総理大臣である犬養毅を殺害しています。
 永田町は事件当日は青年将校に占拠され、官邸以外にも陸軍省、陸軍参謀本部が占拠されました。
 青年将校の襲撃目標は、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、牧野伸彰前内大臣、元老の西園寺公望を第一目標とし、財界人である三菱財閥当主岩崎小彌太、三井財閥当主三井高公、三井合名会社筆頭常務理事池田成彩らを第二目標としました。首相官邸にいた内閣総理大臣岡田啓介は、危機一髪で難を免れました。
 2.26事件では、表には出てきませんが、巡査や警護の人が多数亡くなっています。要人警護のために命を落とした人たちの残された妻たちは、その後の暮らしや保証はどのようなものだったのでしょうか。折角ですから、これらの人たちにも光を当ててほしいものです。
 写真左下は、事件当時に陸軍省、陸軍参謀本部があった三宅坂に建っている憲政会館です。会館の池には護憲運動で有名な憲政の神様の異名をとる尾崎行雄の像が建っています。
 血盟団事件を皮切りに、その後要人の暗殺事件が多く発生しました。西園寺公望や牧野伸彰らは天皇陛下の側近として、その度に標的になりました。

湯河原 伊藤旅館 別館光風荘 写真左は、湯河原に建っている2.26事件の現場となった光風荘です。案内板には次のように案内されています。
< 昭和十一年(1936)二月二十六日首都東京で、首相をはじめ政府高官の官邸、私邸が、国家改造を求める陸軍青年将校らの率いる兵一四〇〇余名の部隊に襲われ、斎藤内大臣、高橋大蔵大臣、渡辺教育総監、松尾陸軍大佐らは即死、鈴木侍従長は重傷、護衛の巡査数名死傷という大事件が起こった。
 これと同時に、遠く離れたこの湯河原でも、青年将校の一人河野大尉の率いる別働隊七名が、元内大臣牧野伸彰伯爵を、静養中のこの場所伊藤屋旅館の元別館光風荘に襲い、銃撃、放火。 
 急を知り駆けつけた地元消防団員の救出活動により、牧野伯爵とその家族は辛くも難を逃れたが、付添の森看護婦は銃殺、護衛の皆川巡査は銃弾に倒れ、後に焼死体で発見されるという事態に到った。
 また、牧野伯爵を助け出した前第五分団長(現温泉場分団)岩本亀三は銃創、消火に当たった消防団員も負傷するなどのほか、銃剣をも恐れぬ地元消防団員らの勇敢な救出消火活動があった。
 これらの事実は、湯河原の歴史の一こまとして湯河原町民の心意気と共に後世に永く語り伝うべきものである。>

近衛文麿 荻窪 荻外荘 写真左は、荻窪にある近衛文麿の別邸「荻外荘」です。近衛文麿は2.26事件で辞職した岡田啓介の後継として、西園寺公望から推薦され大命降下されましたが、健康問題を理由に辞退しました。
 荻窪の地でも、他の襲撃現場より遅れて、陸軍教育総監(陸軍大将)の渡辺錠太郎が青年将校の襲撃にあいました。襲撃の情報が渡辺錠太郎の耳には届かず、無防備ともいえる状態で即死しました。
 渡辺錠太郎邸は、荻外荘から徒歩二十分もかからないところにありました。事件当時近衛文麿は荻外荘におり、もしかしたら銃声が聞こえたのかもしれません。現在の荻窪は閑静な住宅街ですが、当時は平屋が目立つ新興住宅地で田や畑が多くありました。荻窪は、近衛文麿の荻外荘で有名になった土地です。

 ブログ「名著を読む」には、二・二六事件と関係深い感想文を以下のように掲載しています。是非とも併せて読むと時代の背景が理解できます。
・ 牧野伸顕「回顧録(かいころく)」を読む
・ 高橋是清「高橋是清自伝」を読む
・ 半藤一利「昭和史 1926→1945」を読む
・ 猪瀬直樹「昭和16年夏の敗戦」を読む
・ 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読む
・ 重光葵「昭和の動乱 (上)(下)」を読む
・ 杉森久英「近衛文麿(上)(下)」を読む

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 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。


テーマ : 歴史・時代小説 - ジャンル : 本・雑誌

Tag : 澤地久枝 妻たちの二・二六事件

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