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江藤淳「南洲残影(なんしゅうざんえい)」を読む

>上野 西郷隆盛像


 1877年の西南戦争は哀しい戦争であった。なぜ哀しいのか。この戦争はやる前から勝敗がわかっていたからである。戦費・戦力において西郷隆盛率いる薩軍は官軍とは較べものにならないくらいに劣っていた。それでも薩軍は挙兵し、そして熊本へと向かった。それは滅亡への行軍であった。
 江藤淳の「南洲残影」は西郷隆盛への痛切なる鎮魂の書である。江藤は負けるとわかっていてもやらなければならない戦争があるといっている。日露戦争しかり太平洋戦争しかりである。西郷も負けるとわかっていても立ち上がらなければならなかったのである。西郷は自ら亡びることによって何かを訴えたかった。その何かを江藤は執拗に追い求めている。

熊本 田原坂

鹿児島市 南洲墓地 西郷隆盛墓所


  「南洲残影」の中で、西南戦争を通して、江藤は西郷への思いを綴っている。西郷が死へと赴く状況が哀しい調べでもって描かれている。私は何度も何度も胸を打たれた。はたして西郷は何のために死のうとしていたのかと私自身も何度も心の中で問うた。
 この書を哀愁に満ちたものにしている1つの理由はいくつかの音楽が合わせもって語られているからである。その音楽とは、勝海舟が作ったといわれる薩摩琵琶の伴奏で歌われる「城山」、落合直文作詞「孝女白菊の歌」、外山正一作詞「抜刀隊」、そして西郷隆盛を偲んだ童唄などである。これらの音楽が基調をなして薩軍の姿を哀しく髣髴とさせる。
 薩軍が鹿児島を出立するのが2月15日である。そのときの軍資金が25万円であった。対する官軍のそれは4000万円近くあった。兵士の数、軍艦の数などを考慮すると戦力はまさに段違いであった。
 「南洲残影」は『西南記伝』に則って、薩軍の挙兵から、田原坂での敗退、それからの鹿児島までの退却、そして城山での西郷の死を時系列にたどっている。
 薩軍が鹿児島にもどったときには当初の兵士3万人が300人近くまで減っていた。9月24日未明、官軍は薩軍のこもる城山に一斉攻撃をしかける。嵐のように弾が飛んできた。西郷は流れ弾が股と腹に当たったとき自らの最後を悟った。
 西郷はその場に跪坐(きざ)し、そして東天を拝した。西郷は「賊」として追討を命じた天子に、最後の衷情(ちゅうじょう)を尽くしたのである。その後、別府晋介の一刀のもと西郷の首は落ちた。

 西郷は挙兵する前に<今般政府へ尋問の廉有之(これあり)>で始まる照会書を熊本鎮台に送っている。西郷の挙兵の表向きの理由は政府に対して諫言することであった。薩軍は九州を横断し、小倉に向かいそして東京へと向かおうとした。官軍より少ない戦力で挙兵に踏み切ったのにはそれなりの勝算があったのかもしれない。西郷が立つということで、全国の不平士族が薩軍に連座することを期待したのか。
 西郷とともに江戸城無血開城を成し遂げた勝海舟は、西郷が挙兵するや旧幕臣たちに西郷に与(くみ)するなと動きまわった。勝はこの戦争の無謀さを知っていたのである。だが、勝は後年、「城山」で西郷を偲んでいる。西郷の気持は勝だけが知っていたのかもしれない。

 西郷は自ら亡ぶことで、行く末、日本も亡ぶということを暗示していると江藤は見る。実際それから68年後日本は亡びた。
 西南戦争におけるある少女を歌った「孝女白菊の歌」が愛誦された明治20・30年代の日本人は「西郷とともに何ものか大きなものが亡びた」ことを知っていた。
 江藤淳は西郷とともに亡びたものの存在を私たち日本人に知らしめようとして「南洲残影」を書いたのかもしれない。

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 写真上から、上野に建立されている西郷隆盛像、西南戦争の激戦地だった熊本の田原坂、鹿児島市南洲墓地です。南洲墓地には、勝海舟の歌碑が次のように詠まれています。
<ぬれぎぬを 干そうともせず 子供らが なすがまにまに 果てし君かな>
逆に、本所の勝海舟の生誕地や洗足池の勝海舟の墓地には、西郷隆盛の石碑が建立されています。親交の深さがわかります。

鹿児島市加治屋町 西郷隆盛誕生地の石碑

 写真上は、鹿児島市加治屋町にある西郷隆盛誕生地の石碑です。

港区田町 西郷・勝会見の石碑

港区三田 薩摩屋敷跡の石碑

中央区蠣殻町 西郷隆盛屋敷跡の案内板

 写真上から、港区田町に建っている西郷南洲・勝海舟会見之地です。石碑の裏には次のように書かれています。
< 此地薩摩邸に於て 西郷 勝兩雄會見し江戸開城の圓満解決を図り百萬の民を戰火より救ひたるは其の功誠に大なり
平和を愛する吾町民深く感銘し以て之を奉賛す
昭和二十九年四月三日
本芝町會
本芝町會十五周年記念建之 >
 写真中は、会見の地より、近くにあった薩摩屋敷の石碑です。写真下は、中央区蠣殻町に建っている西郷隆盛屋敷跡の案内板です。案内板には次のように案内されています。
< 明治初め、この地域には明治維新の元勲西郷隆盛(一八ニ七~一八七七)の屋敷がありました。
 明治六年(一八七三)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町一丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に一五人ほどの書生を住まわせ、下男を七人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
 維新後、西郷は郷里鹿児島にいましたが、明治四年に新政府から請われて上京し、参謀に就任、同年十月に岩倉具視を特命全権大使とし、大久保利通、木戸孝允 等を副使とする使節団が米欧へ派遣された後には、筆頭参謀として留守政府首班となり、学制・徴兵制度・地租改正などの重要政策を実現しました。
 明治六年になって、朝鮮との国交問題が緊迫し、武力出兵を主張するいわゆる征韓論が高まりを見せるなか、西郷は自らが朝鮮に渡って交渉することにより、問題の解決にあたろうとしました。閣議でもいったんは西郷の使節派遣が決定されましたが、海外の視察から帰国した大久保等の猛烈な反対により使節派遣は中止となります。この決定を受けて、西郷をはじめ、板垣退助 や後藤象二郎 等が参議を辞して下野しました(明治六年の政変)。
 下野後、西郷はこの地にあった屋敷を引払い、鹿児島に帰郷します。鹿児島では、士族子弟の教育のために私学校をつくり、また農耕と狩猟に悠々自適の生活を送っていましたが、明治十年に西南戦争を起こし自害しました。 >
 ちなみに、時間は重なっていませんが、この屋敷跡の隣で文豪の谷崎潤一郎が生誕しています。

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テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 南洲残影

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