出町譲「九転十起 事業の鬼・浅野総一郎」を読む

江東区佐賀町に建っている浅野総一郎像 戦後の日本は製造業を中心とした経済復興をはたした。その製造業の拠点になったのは、京浜工業地帯・中京工業地帯・阪神工業地帯・北九州工業地帯のいわゆる4大工業地帯であった。
 小学校の社会の教科書では、4大工業地帯のことが強調されていたのをよく覚えている。中でも京浜工業地帯の規模は最も大きく、文字通り、日本経済発展の牽引車となったのである。
 京浜工業地帯というのは、東京から横浜までの海岸線のベルト地帯である。明治のある時期まで、京浜工業地帯の中心をなす川崎・鶴見の海岸線はのどかな遠浅の海であった。遠浅の海を埋め立てて、工業地帯を作ろうとしたのが浅野総一郎である。
 浅野は日本が少しでも欧米に追い付くには、産業力を高めることが重要だと思った。そのためには、大きな船が出入りできる港湾の整備が必要だと考えた。浅野は、乾坤一擲、川崎・鶴見の海岸線を埋め立てて、港湾を整備し、その周辺に工業地帯を造成しようと動いた。
 川崎・鶴見は浅野のおかげで、大きく成長した。いうなれば、京浜工業地帯の生みの親は浅野であり、ひいては日本経済を大きく成長させた大恩人の1人が浅野であった。
 短い距離ではあるが、鶴見と横浜・川崎市内を結ぶ鉄道にJR鶴見線がある。この鶴見線の駅に、浅野の名前に因んだ「浅野」駅がある。また、「安善」という駅もある。安善とは安田善次郎のことである。安田は安田財閥の総帥で、日本一の金持ちであった。安田は浅野に惚れ込み、浅野に巨額の援助をした。安田は浅野の強力な後ろ盾であった。工業地帯という、本来国がやるべき途方もない事業を、私人である一事業家の浅野が全うできたのは、安田がいたからである。
江東区佐賀町にあるセメント工業発祥の石碑 浅野は、三井・三菱・住友・安田に次ぐ財閥だといわれた浅野財閥の総帥であった。浅野と安田は同じ富山県の出身である。浅野も安田と同様に、想像を絶する苦労と努力によって、一代を築いたのである。

 出町譲の「九転十起 事業の鬼・浅野総一郎」は、浅野総一郎の全人生を描いた伝記である。筆者の浅野に対する思いが強く伝わってくる本である。経営者にぜひとも読んでほしい本である。
 経営の本というと、すぐ、マーケティングなどの理論を扱った本を思い浮かべるが、そのような類の本を100冊読んでも、浅野のような大実業家の自伝にはかなわないと私は思う。
 浅野は1848(嘉永元)年、富山県で生まれた。代々医者の家に生まれたが、医者は性に合わないとあきらめ、若くして商売人になることを決めた。
 いろいろな仕事に手をだすが、すべて失敗し、大きな借金だけが残った。母親の助けがあって、浅野は富山県から夜逃げをし、東京に向かった。
 東京にきたからといって何かするあてもなかったが、元手のかからない砂糖水を売ることから始めた。横浜に移り、竹の皮を売り、薪そして炭を売るようになった。
 炭を売ることによって力をつけた浅野は、深川のセメント工場の買収に乗り出した。この工場は官営であったが、多額の金を投じても赤字経営が続いていた。国は、将来セメントは日本の発展に不可欠のものと考え、このセメント工場を払い下げることにした。三井・三菱も手をあげたが、結局、浅野に払い下げられた。三井・三菱もセメント工場を継続して経営する気はなく、セメント工場を潰して跡地を利用しようとしたからだ。
 深川のセメント工場の経営が浅野の大実業家への第一歩となった。浅野はすさまじい情熱と努力と才覚とでもって、赤字続きの工場を黒字化した。セメントの需要は日本の近代化とともに、うなぎ上りになり、セメント工場はどんどん大きくなっていった。
 セメント事業が成功すると、浅野の事業欲はますます大きくなり、浅野は新しい事業に手をだした。浅野がセメントの次に力をいれたのが、海運業である。当時は、横浜とサンフランシスコを結ぶ航路はアメリカの船会社に独占されていた。浅野はこれに対抗して、横浜とサンフランシスコを結ぶ独自の航路を開こうと、東洋汽船という船会社を創立した。大型の船を建造するのに巨額の資金が必要であったが、渋沢栄一や安田善次郎らが協力してくれ、アメリカの旅客船より立派な船を就航させた。
 浅野の事業欲は82歳でこの世を去るまで衰えることはなかった。

 九転十起とは、九回転んでも十回目に起き上がるという浅野の座右の銘である。七転び八起きのさらに上をいったのである。浅野はどんなに失敗しても挫けることはなかった。
 浅野には事業をする上での哲学があった。それは浅野が手掛ける事業が国のためになるということである。安田善次郎も同じ哲学を持っていた。この哲学が二人を結びつけた。
 それにしても、北陸からとてつもなく偉大な実業家が輩出するのはなぜだろうか。

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<名所・旧跡をめぐって>

 写真上は、江東区佐賀町に建っている日本セメント株式会社(元浅野セメント)の創設者である浅野総一郎像です。石碑には次のように記されています。
< 当地は日本で初めてのセメント工場があった場所です。明治8年、工部省が本格的なセメントの製造に成功しました。上図(次ページ参照)手前の隅田川、右側の仙台掘などの泥土を原料の一部として使い、試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産セメントを作り上げました。明治16年、当社創業者のひとりである浅野総一郎が払い下げを受け、その後民間のセメント工場として発展を遂げました。>

うみしばうら駅から撮影 筆者は、川崎で生まれ育ちました。生まれたのは朝鮮戦争の朝鮮特需で三白景気ともいわれた時期を過ぎた頃でした。三白景気の三白とは、セメント業、製紙業、製糖業を指し、朝鮮特需と敗戦後の復興事業とが重なって、すこぶる景気がいい業界でした。この時期に、大学を卒業した学生はこぞってそれらの企業に就職しました。
 その後、1964年東京オリンピック開催するために、地方から集団就職で金の卵が上京し、東京都内や近辺はインフラ整備が急ピッチで進められました。京浜工業地帯で生産される工業製品はそれらの担い手になりました。ここから日本の高度成長期が始まります。
 筆者が、小学校に通う頃になると、川崎は公害の町といわれて、京浜工業地帯の煙突からは黒い煙がモクモクと空に向かって吐き出していました。現在では煙突を見かけることもなく、工場や海の景観も、昔と違ってきれいになりました。
 写真左は、JR鶴見線の最終駅の「うみしばうら駅」から横浜港に向かって撮影したものです。
 
JR鶴見線 写真左は、JR鶴見線です。鶴見線は京浜工業地帯の中心を走っています。経験はないですが、数十年前の高度成長期の鶴見線の通勤ラッシュアワーは相当なものだと思います。始業時間が、どの工場も同じだから、工場に向かう勤労者はこれでもかこれでもかと溢れていたと思います。
 鶴見線には、京浜工業地帯に関係する人物にちなんだ駅名があります。その一つが、浅野総一郎にちなんだ浅野駅(写真下)、安田銀行・国立第三銀行創業者で、東京大学安田講堂にも名を残している安田善次郎にちなんだ安善駅、浅野総一郎の娘婿で、日本鋼管創業者の白石元治郎にちなんだ武蔵白石駅です。左の写真は、安善駅に到着する武蔵白石行の車両です。
JR鶴見線浅野駅


鶴見総持寺 浅野総一郎夫妻墓所 写真左は、鶴見総持寺にある浅野総一郎夫婦を含めた浅野家の墓所です。今までいろいろな偉大な創業者・経営者の墓所をお参りしましたが、その中でも浅野総一郎の墓は敷地が広く、ゆったりした墓所です。さぞかしストレスを溜めずに永眠していることと思います。
 浅野総一郎は、富山県の出身ですが、総持寺は明治時代に能登半島から移設されたものです。移設に関して浅野総一郎も深く関与しており、この広大な敷地はなによりも、浅野総一郎の影響力を物語っています。写真下は、同じ総持寺に眠る三井物産創業者・三井の大番頭の益田孝の墓所と、総持寺を一般の人まで認知させた映画スターの石原裕次郎の墓所と仏殿です。
 寺内には、鶴見大学、鶴見大学付属中学校、高等学校も併設されています。
鶴見総持寺 益田孝墓所鶴見総持寺 石原裕次郎墓所
鶴見総持寺 仏殿


 浅野総一郎は、教育にも熱心で学校も設立しています。浅野中学校・高等学校は、京浜急行線の生麦駅と新子安駅の間にあり、県内有数の進学校です。戦時中は、陸軍に接収され、アメリカ軍の上陸に備えて高射砲陣地になりました。高射砲陣地の跡地はその後公園になり、浅野学園には返還されませんでした。題名の「九転十起」は浅野学園の校訓です。
 浅野学園の眼下には、キリンビールの工場があります。浅野学園の写真はありませんが、キリンビールの工場の変遷を下に掲載しました。キリンビールも横浜が発祥です。横浜が開港されて、外国居留地が設置されると、外国人技師を雇って、横浜の元町に創業したのが始まりです。関東大震災で、工場が壊滅状態なり、生麦の地に新しい工場を建て生産しました。
キリンビール創業時の写真
キリンビール生麦工場
キリンビール生麦工場


旧浅野造船所 大正12(1923)年の関東大震災は、京浜工業地帯に容赦なく襲いかかりました。海岸線にある工場は壊滅状態となり、津波、火災、建物倒壊などで数千人の人が亡くなりました。また当時、この地帯には朝鮮半島の出身者や沖縄県の出身者が大勢働いており、それらの人も多くの人が被害にあいました
 写真左は、関東大震災のときに、遺体が置かれた旧浅野造船所(現ユニバーサル造船)の門です。ちなみに、日本初の南極観測船の初代「しらせ」は、浅野造船所で建造されました。

平賀源内電気実験の地の石碑 上に掲載した浅野総一郎像が建っているセメント発祥地である江東区佐賀町一帯は、鉄道網が発達するまで、水運の中心地でした。倉庫が立ち並び、全国から集まる米の集積地で、現物取引を行っていました。
 発祥地の周りには、三菱総帥の別邸の清澄庭園、三井の大番頭で、国立第一銀行の実質オーナーである三野村利左エ門の邸宅、国立第一銀行設立者で経済界の重鎮である渋沢栄一が邸宅を構えていました。
 写真左は、土用の丑の日になると必ず名前が出る、平賀源内電気実験の地の石碑です。セメント発祥地の隣に建っています。
 写真下は、清澄公園の中に建っている、俳人松尾芭蕉の「古池の句」の石碑です。奥の細道は、この地から始まります。
清澄公園 古池の句の石碑


 併せて読むと、日本の近代産業の成り立ちがよくわかります。
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 資格試験を修得すればそれだけで事が進むということはありません。資格試験を賢く用いるためにはソフトスキルが必要です。ソフトスキルとは、コミュニケーション力、語学力などを指します。
 ソフトスキルを鍛えるためには、文章を書くことが必要です。文章が書けない人が人前で論理的に話すことはできません。文章を書く上での正しい形を覚えるにはやはりいい文章を読んでみることです。いい文章をたくさん読むと自然にいい文章の形が頭に残ります。
 古典といわれる「名作」ほど私たちにいい文章を提供してくれるものはありません。「名作」をじっくりと読み、そしてそれの読後感を書くことで、読解力、表現力、思考力が身に付いてきます。書くことにより、話すことばが洗練され大きく変化していることに実感することになります。


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 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。


テーマ : 歴史・時代小説 - ジャンル : 本・雑誌

Tag : 九転十起 事業の鬼浅野総一郎

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