頼山陽「日本外史(上)(中)」を読む

皇居外苑 楠正成像 皇居前広場に、後ろ足で立ち、前足を高く掲げた馬に跨って、今にも合戦に出向こうとする勇壮な武将の銅像がある。この武将こそ楠木正成である。恥ずかしながら、私は長いこと、この銅像の主が楠木正成であることを知らなかった。なぜ、楠木正成の像が天皇家のお住まいの皇居にあるのか。少なくとも、学校では教わらなかった。
 私の住んでいるのは川崎市の田園都市であるが、多摩川を越えて、さほど遠くないところに分倍河原(ぶばいがわら)という土地がある。分倍河原は鎌倉時代末期、北条泰家率いる鎌倉幕府軍と新田義貞率いる反幕府軍が戦ったところである。歴史上、元弘の乱といわれている。総勢十万の兵を擁する幕府軍は初めは善戦するが、結果的には負け戦となり、幕府軍は鎌倉へと敗走する。
 この戦いが決めてになり、鎌倉幕府は滅亡に向かう。分倍河原には古戦場碑があるし、分倍河原の駅前広場には楠木正成の像と似たような勇猛な新田義貞の銅像が設置されてある。
 楠木正成と新田義貞。二人とも現代において立派な銅像になっている武将であるが、実のところ、ほとんどの人がこの二人のことを知らない。ただし、例外がある。戦前に教育を受けた高齢の方は、逆に、たいへんよく知っている。
 楠木正成と新田義貞を知っているか知らないかが、戦前に教育を受けたか、戦後に教育を受けたかの分かれ道になりそうである。
JR南武線分倍河原駅前 新田義貞像 戦国の武将のことを描いたテレビドラマ・映画は数多いが、楠木正成と新田義貞を描いたテレビドラマ・映画はあまりない。少なくとも私は見たことがない。私には、意図的に楠木・新田のことが避けられているように思えてならないのだ。
 楠木正成と新田義貞の逆の立場になった足利尊氏についても同じで、足利尊氏も人気がない。というより、ほとんど話題にならない。
 楠木・新田・足利尊氏は歴史上、南北朝といわれる時代の中心人物である。この時代、朝廷は二つあった。一つは京都にあり、もう一つは奈良の吉野にあった。京都を北朝、吉野を南朝という。南朝を立ち上げたのが、後醍醐天皇である。
 何しろ、朝廷が二つに分かれているのだから、国が二つに分かれているのと同じである。国は大いに乱れた。このとき、南朝側についたのが、楠木・新田であり、北朝の側についたのが、足利尊氏であった。
 楠木・新田が戦後、教育界から抹殺されたのは、どうやら、南朝側について、命を懸けて後醍醐天皇を守ったことにありそうである。
 明治時代になって、天皇の主権を確立させるために、政府は天皇を神格化するためにいろいろな手を打った。その一つが楠木・新田を英雄とすることであり、足利尊氏を否定することであった。
 楠木・新田は天皇家の忠臣であり、足利尊氏は天皇家に刃を向けた悪人だと教えたのである。楠木・新田は天皇を神格化する上で、たいへん都合のよい人間だったのだ。
東京府中 分倍河原古戦場跡の石碑 それでは、一体、誰が楠木・新田を英雄にしようと考えたのであろうか。明治になってぽっと楠木・新田が浮かび上がったのであろうか。実は、楠木・新田を英雄視する見方は江戸時代からあったのである。
 江戸時代も末期、武士の子弟が藩校などで学ぶ歴史の教科書には、頼山陽の「日本外史」が多く採用された。この「日本外史」が、楠木・新田を英雄にし、足利尊氏を悪人にしたのである。
 「日本外史」は江戸時代のベストセラーであると同時に、明治から終戦までの日本歴史の土台になった歴史書である。学校での日本史は、「日本外史」を踏まえて生徒たちに教えられた。生徒たちは否応なく、楠木・新田という武将を崇拝し、足利尊氏を蔑んだ。皇居前に楠木の銅像が建てられ、分倍河原の駅前広場に新田の銅像が建てられたのも納得できよう。

 私は「日本外史」は名前は知っていたが、読んでみようという気にはならなかった。私が「日本外史」を読もうと思ったのは、森鴎外の「伊沢蘭軒」を読んだときだ。この史伝には、伊沢家と頼家は福山藩を通じて交流があり、蘭軒と山陽が友人であることが記されている。山陽は若い頃、破天荒な生き方をした人であり、蘭軒に少なからぬ影響を与えた人である。私は思わず「日本外史」を手に取った。
 「日本外史」は日本の古代からの歴史をまとめた通史ではなく、武士の時代の歴史を書いたものである。全二十二巻からなり、巻のタイトルは次の通りである。

巻之一 源氏前記  巻之二 源氏正記  巻之三 源氏正記  巻之四 源氏後記
巻之五 新田氏前記 巻之六 新田氏正記 巻之七 足利氏正記 巻之八 足利氏正記
巻之九 足利氏正記 巻之十 足利氏後記 巻之十一足利氏後記 巻之十二足利氏後記
巻之十三徳川氏前記 巻之十四徳川氏前記 巻之十五徳川氏前記 巻之十六徳川氏前記
巻之十七徳川氏前記 巻之十八徳川氏正記 巻之十九徳川氏正記 巻之二十徳川氏正記
巻之二十一徳川氏正記 巻之二十二徳川氏正記

 現在の時代区分では南北朝時代としているところを、新田時代としているのがたいへん興味深い。巻之五の新田氏前記では楠木正成を中心に、巻之六の新田氏正記では新田義貞を中心に描いている。
 「日本外史」はいわゆる現代の歴史書とは違って、第一次資料にあたり、現地調査などをして作られたものではない。膨大な過去の歴史書・文学書などをベースに書かれたものである。ただ、歴史文学とは違う。司馬遷の「史記」みたいなものである。事実と思われることが忠実に書かれているのだが、ときには、山陽の感情が移入される部分も見うけられる。
 もともと「日本外史」は漢文で書かれたものであり、岩波文庫の「日本外史」は漢文を読み下し文にしたものである。漢文だけあって、その文章は、簡潔で力強く、リズミカルである。ほとんどが、戦いの場面であるが、非常に緊張感がある。戦いを描くには漢文がうってつけだと発見した。
 「日本外史」は長い歴史の書であるが、平氏の勃興から徳川の時代までを通して、その底に流れている理念は、まさに皇国史観である。天皇を敬い大事にするものが善で、天皇を畏怖しないものが悪と言い切っている。
 楠木・新田軍は官軍であり、足利軍は賊軍である。織田信長・豊臣秀吉・徳川家康が天下の覇者になったのも天皇家を敬っていたからだという。
 皇国史観とはいえ、内容はかなり客観的で、歴史書としてかなり高度である。と同時に非常におもしろい。ときには、「平家物語」「太平記」を読んでいるようなわくわくした気持になった。

 江戸時代、天皇家は徳川家の影の存在のように思われたが、実は、この「日本外史」を読むと、江戸時代においても、天皇は徳川家よりはるかに偉い存在であったことがわかる。皇国史観とは明治に起こったものではないのである。

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<名所・旧跡を訪ねて!>
 写真下は、皇居前広場に建っている楠正成像です。
 写真中は、JR南武線分倍河原駅前に建っている新田義貞像です。写真下は、分倍河原古戦場の石碑です。案内板には次のように記されています。
< 文永(1274)、弘安(1281)の役を経験した頃、北条執権政治は根底からゆるぎ御家人救済の方法として徳政令を発布したが、これがかえって政権破滅の速度を早めた。元弘三年(1333)五月、新田義貞は執権北条高時を鎌倉に攻めるため、上野、武蔵、越後の兵を率いて上野国(こうずけのくに)新田庄(にったしょう)から一路南下し、所沢地方の小手指ヶ原で北条方の副将長長崎高重、桜田貞国を破り(五月十一日)、さらに、久米川の戦で優勢に立った。北条方は分倍に陣を敷き、北条泰家を総帥として新田勢は敗れて所沢方面に逃れたが、この時、武蔵国分寺は新田勢のために焼失させられたという。その夜(五月十五日)、新田勢に三浦義勝をはじめ相模の豪族が多く協力し、十六日未明再び分倍の北条勢を急襲し、これを破って一路鎌倉を攻め二十二日に鎌倉幕府は滅亡した。

東京国分寺 武蔵国分寺跡に建つ七重塔跡 写真左は、武蔵国分寺跡にある七重塔跡です。武蔵国分寺については以下のように案内されています。
< 天平十三年(741)の聖武天皇の詔(みことのり)により、鎮護国家を祈願して創建された武蔵国分寺は、昭和三十一年以来の発掘調査によって東西七二〇メートル南北(中軸線上五五〇メートルの寺地と、寺地中央北寄りの増寺寺域(三六〇~四二〇メートル四方)および寺地南西隅の尼寺寺域(推定一六〇メートル四方)が明らかになり、諸国国分寺中有数の規模であることが判りました。さらに、この中で寺地・寺域は数回の変遷があることが確認されています。
 また、増寺では諸国国分寺中最大規模の金堂をはじめ講堂・七重塔・鐘楼(しょうろう)・東僧坊・中門・塀・北方建物、尼寺では金堂(推定)・尼坊(にぼう)・中門(推定)などが調査されています。
 武蔵国の文化興隆の中心施設であった国分寺の終末は不明ですが、元弘三年(1333)の分倍河原の合戦で焼失したと伝えられています。>

山吹の花


東京新宿区 「山吹の里」石碑 写真上は、山吹の花です。都電荒川線面影橋駅近くに「山吹の里」の石碑(写真左)があります。案内板には次のように記されています。
< 新宿区山吹町から西方の甘泉園(かんせんえん)、面影橋の一帯は、通称「山吹の里」といわれています。これは、太田道灌が鷹狩りに出かけて雨にあい、農家の若い娘に蓑(みの)を借りようとした時、山吹を一枝差し出された故事にちなんでいます。後日、「七重八重 花は咲けども 山吹の みの(蓑)ひとつだに 無きぞ悲しき」(後拾遺集)の古歌に掛けたものだと教えられた道灌が、無学を恥じ、それ以来和歌の勉強に励んだという伝承で、『和漢三才図会』(正徳二・1712年)などの文献から、江戸時代中期の十八世紀前半には成立していたようです。
 「山吹の里」の場所については、この地以外にも荒川区町屋、横浜市金沢区六浦、埼玉県越生町などとする説があって定かではありません。ただ、神田川対岸の新宿区一帯は、昭和六十三年(1988)年の発掘調査で確認された中世遺跡(下戸塚遺跡)や、鎌倉街道の伝承地などが集中しており、中世の交通の要衝地であったことは注目されます。
 この碑は、神田川の改修工事が行われる以前は、面影橋のたもとにありましたが、碑面をよくみると、「山吹之碑」の文字の周辺に細かく文字が刻まれているのを確認でき、この碑が貞享三(1686)年に建立された供養塔を転用したものであることがわかります。>

ootadoukan.jpg 写真左は、有楽町東京国際フォーラムに建っている太田道灌像です。案内文には次のように記されています。
< 東京国際フォーラムが建つこの地には、江戸時代、土佐藩と阿波藩の上屋敷がありました。
 江戸の町は、徳川家康が1603(慶長8)年に江戸幕府を開いて以来、今日に至るまで日本の中心として栄えてきましたが、開幕から遡ること約150年前、1456(康正2)年に江戸城を初めて築いたのが、扇谷上杉家の家臣であった太田道灌(1432~1486)です。
 1957(昭和32)年、開都500年を記念して、旧丸の内第一本庁舎の鍛冶橋通り沿いに太田道灌像が設置されました。
 1991(平成3)年の新宿への都庁移転、1997(平成9)年の東京国際フォーラムの建設を経て、像は現在地に再び設置されました。
 太田道灌は今も、皇居(旧江戸城)の方角を望んで立っています。>


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 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。


テーマ : 読書感想文 - ジャンル : 小説・文学

Tag : 頼山陽 日本外史 楠正成 新田義貞

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