長尾剛「広岡浅子 気高き生涯」を読む

文京区目白台 日本女子大学


 資本主義は自由競争を土台にしたシステムである。競争をすればかならず勝者と敗者がでる。ところが、競争をすることで社会全体が豊かになるのである。資本主義が社会主義に勝った理由はまさにここにある。近年、社会主義国家である中国が高度成長して豊かに成った理由は、逆説ながら、資本主義の原理を取り入れたからである。
 世界は過去(現在においても)、戦争を繰り返してきた。その大きな理由はとりもなおさず経済的要因である。太平洋戦争はアメリカの世界大恐慌から続く長い不況を救った。日本が満州を侵略し、やむにやまれず太平洋戦争に突入したのは、軍部の独裁は本質的なものではなく、経済的要因にあった。もし、日本が経済的に豊かであったら、あの戦争はなかったはずである。
 資本主義社会においては、競争を徹底させることによって社会が豊かになるはずであるが、生成された富が一部の人間に集中すると不公平になり、社会は不安定になる。共産主義イデオロギーが広く普及した理由は、資本主義社会においては富が一極集中するということである。そして、共産主義イデオロギーが主張するのは競争の否定である。
 資本主義社会がこれからも輝きを増していくためには、より公正な競争原理とより公正な富の分配であることは明らかである。
 豊かになった金持ちから税金という形で国が強制的に取り上げ、それを国民に分け与えるというのは公正な分配ではない。公正というのは自然な形で行われなければならないからである。
 公正な分配に深く影響するのは、事業に成功した実業家である。最近でも、戦前の大成功した大実業家のことを、国民から搾取したという経済学者がいる。しかし、幕末から近代化した日本を半世紀たらずで世界の一等国にした影の功労者は、まぎれもなく実業家たちである。彼らは、日本が豊かになるための土台を作り、そして自ら築いた莫大な富を国民に分配した。
 安田善次郎・浅野総一郎・大倉喜八郎などの大実業家が、どれだけの私財を投げ出して、国民に貢献したか。広岡浅子も多額の私財をなげうった実業家の一人である。

日本女子大学 成瀬仁蔵記念館


 長尾剛の「広岡浅子 気高き生涯」は、戦前の広岡財閥を築いた広岡浅子の生涯と彼女の理念について書かれたものである。
 この本を読んで、何よりも感銘を受けたのは、女だてらに男でも耐えるのが難しい艱難辛苦に耐えて大成功をおさめたということではなく、成功の後に多大な社会貢献をしたことである。
 大成功し大金持ちになった浅子がやったことは、女性の教育向上であり、貧しき人たちへの援助である。このことは、浅子が晩年にキリスト教に帰依したことと深い関係がありそうである。
 日本女子大学の創立者は成瀬仁蔵であるが、金銭的に多くの援助をしたのは広岡浅子である。彼女がいなければ日本女子大学は存在しなかったかもしれないのである。現代風にいえば、学長が成瀬仁蔵で、理事長が浅子といったところである。
 浅子は成功して得た富を多方面に寄付をしている。儲けたお金を貧しき人々に寄付をする。これこそ真の実業家ではなかろうか。
 キリストの教えの一つに「汝の持てるものすべてを貧しき人々に与えよ」というのがある。晩年のトルストイは、この教えを実践に移した。
 おそらく、晩年の浅子がキリスト教に帰依したのは、キリストの教えに深く共鳴したからであろう。

 資本主義社会では、実業家の役割はたいへん重要である。過去の日本には手本になる実業家がたくさんいた。彼らは利益を追求しながら、常に、国が豊かになることや国民の幸福を考えていた。

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 写真上は、文京区目白台にある日本女子大学です。
 写真下は、日本女子大学成瀬記念講堂です。案内板には次のように記されています。
< 日本女子大学の象徴的建物で、創立者・成瀬仁蔵の名を冠する。正門右手にある。
 明治39年(1906)、工学士・田辺淳吉の設計、清水組(現在の清水建設株式会社)の施工で竣工した。明治時代のわが国の斬新な洋風講堂建築である。
 その後、大正12年(1923)の関東大震災により外壁の煉瓦壁破損のため、今日みられる木造外壁に改築された。現在も残る基礎部分の煉瓦構造、ラテン十字型の平面、さらに二層の屋上小塔などに、創建当初の姿をみることができる。講堂の内部は、中央に演壇、両側にウィングと呼ばれる翼廊、二階桟敷などを設け、ステンドグラスを用いたゴシック風の大きな窓を配している。
 総体的に、西洋教会堂の基本形式をふまえながら、西洋中世貴族の舘の大ホール様式を加味した設計で、今に残る明治時代の学校建築として貴重である。>

常盤橋 渋沢栄一像


 写真上は、日本銀行前の常盤橋に建っている渋沢栄一像です。西の五代友厚に対して東の渋沢栄一です。渋沢栄一については<渋沢栄一「現代語訳 論語と算盤(そろばん)」を読む>を参照してください。

中央区兜町 国立第一銀行発祥地


 写真上は、渋沢栄一らが中心となって設立したわが国最初の国立第一銀行の発祥地です。現在はみずほ銀行兜町支店になっています。

中央区小網町 国立第三銀行発祥地


 写真上は、安田善次郎が設立した国立第三銀行発祥地です。国立第一銀行の川向うにありました。現在では、みずほ銀行小網支店になっています。安田善次郎については、<渡辺房男「儲けすぎた男 小説安田善次郎」を読む>lを参照してください。

中央区茅場町 日本銀行発祥地


 写真上は、中央区茅場町、永代橋付近に建っているわが国最初の日本銀行発祥地の石碑です。常盤橋に建っている渋沢栄一は、国立第一銀行、東京証券取引所、日本銀行、門前仲町の自邸方面を見つめています。

中央区日本橋 郵便発祥の看板


 写真上は、日本橋郵便局に設置されている郵便発祥の地の看板です。築地、日本橋、銀座にはわが国最初が多数あります。明治の世になり、海外から西洋の制度や物が大量に入り込み、世の中が一斉に変わり始めました。看板には次のように記されています。
< ここは、明治四年三月一日(1871年4月20日)わが国に新式郵便制度が発足したとき駅逓司と東京の郵便役所が置かれたところです。>

なお、広岡浅子が生まれ育った三井家については、<羽佐田直道「小説 三井高利」を読む>を参考にしてください。

<築地で近代日本を探訪する>

新橋停車場


 写真上は、わが国最初の新橋~横浜間の鉄道の始発駅である新橋停車場を復元したものです。案内板には次のように記されています。
< 1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。1936(昭和11)年に日本の鉄道発祥の地として0哩(ゼロマイル)標識と約3mの軌道を復元しました。1968(昭和33)年10月14日、旧国鉄によって「0哩標識」は鉄道記念物に指定され、1965(昭和40)年5月12日、「旧新橋横浜間鉄道創設起点跡」として国の指定史跡に認定されました。
 創業当時、枕木やレールの台座(チェアー)は小石や砂の混じった土を被せられ、レールの頭だけが地表に出ていました。レール断面は上下対照のI型で、双頭レールといいます。この復元軌道の半分は小石を被せて当時に近い状態を再現し、残りは枕木や台座が見えるようにしました。双頭レールは錬鉄製で、1873年にイギリスのダーリントンで作られ、官設鉄道で使われてあと、新潟県柏崎市の製油所で使われたもので、新日本石油株式会社、新日本石油加工株式会社の両社からご寄贈いただきました。>

築地居留地跡


 写真上は、築地居留地跡の案内板です。案内板には次のように記されています。
< 江戸幕府は安政五年(1858)に欧米五か国と修好通商条約を結び、横浜・神戸など五港の開港と江戸・大坂の開市を取り決めました。居留地は開港・開市の土地に設けられた条約締結国の外国人の居住や通商のための専用特別区でした。
 江戸(東京)の開市は明治元年(1868)、明治政府になってからで、この条約に基づいて現在の明石町地域を築地居留地と定めました。
 築地居留地は商館の多かった横浜や神戸などとは異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からの宣教師・医師・牧師などの知識人が居住し教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、築地居留地は日本の近代化に大きな影響を与えた一地域を形成していました。
 明治に描かれた築地居留地の銅版画からは、洋風建築が建ち並び異国情緒あふれる街の様子をうかがうことができます。>

築地 アメリカ公使館跡


 写真上は、旧築地居留地内にあったアメリカ公使館跡の案内板です。案内板については次のように記されています。
< 開港によって日本に駐在した初代アメリカ公使ハリスは、安政六年(1859)に現在の港区元麻布一ー六の善福寺に公使館を開設しました。ついで、明治八年(1875)十二月、築地居留地内のこの地に公館を新築し、はじめて形容を整えました。
 後にこれが手狭となり、同二十三年三月、赤坂の現在地(アメリカ大使館)に移転しました。
 この公使館跡には、五個の小松石の記念碑が残っています。大きさは、縦八六~一〇一センチメートル、横八四~一一八センチメートル、厚さ一八~三四センチメートル、うち、ニ個には当時のアメリカの国章である盾、一個には星と鷲と盾、ニ個には五稜の星が刻まれます。
 この記念碑は、築地の居留地時代を伝える貴重な遺品として、中央区民有形文化財に登録されています。>

築地 活字発祥の碑


 写真上は、築地一丁目に建っている活字発祥の碑です。
< 明治六年(1873)平野富二がここに長崎新塾出張活版製造所を興し後に株式会社東京築地活版製造所と改稱日本印刷文化の源泉となった。>
平野冨二は、石川島造船所(現IHI)創立者です。

築地 慶応義塾発祥地の石碑


 写真上は、旧築地居留地内に建っている慶応義塾発祥地の石碑です。この地は、江戸時代に中津藩の藩邸がありました。石碑の隣には杉田玄白、前野良沢が翻訳した解体新書の石碑があります。福沢諭吉に関しては<福沢諭吉「学問のすゝめ」を読む>を参考にしてください。

築地 海軍兵学校跡地の石碑


 写真上は、築地に建っている海軍兵学校跡地の石碑です。現在の築地魚市場は明治時代は大日本帝国海軍の軍用地でした。市場内には海軍の痕跡があります。勝鬨橋には海軍経理学校跡地の石碑があります。

 明治初期の、築地は現在とは違い政治の中心地でした。政府機関が設置され、政府要人が数多く住んでいました。後の総理大臣伊藤博文は、大隈重信と日本の将来について、口角泡を飛ばして激論していたそうです。新橋~横浜の鉄道敷設は激論の賜であります。また、立教大学、青山学院、明治学院、工学院、女子学院などの学校は築地居留地が発祥の地です。
 伊藤博文については<瀧井一博「伊藤博文 知の政治家」を読む>、女子学院については<三浦綾子「矢島楫子伝 われ弱ければ 」を読む>をそれぞれ参考にしてください。

 併せて読むと、日本の近代産業の成り立ちがよくわかります。
林洋海「<三越>をつくったサムライ 日比翁助」を読む
白崎秀雄「鈍翁・益田孝」を読む
出町譲「九転十起 事業の鬼・浅野総一郎」を読む
渡辺房男「儲けすぎた男 小説安田善次郎」を読む
渋沢栄一「現代語訳 論語と算盤(そろばん)」を読む
小林一三「私の行き方」を読む
宮田親平「『科学者の楽園』をつくった男」を読む
山嶋哲盛「日本科学の先駆者高峰譲吉」を読む
中村建治「メトロ誕生」を読む
中村建治「山手線誕生」を読む
青山淳平「明治の空 至誠の人 新田長次郎」を読む
嶋岡晨「小説 岩崎弥太郎 三菱を創った男」を読む
山田義雄「花は一色にあらず」を読む
松永安左エ門「電力の鬼 松永安左エ門自伝」を読む
砂川幸雄「森村市左衛門の無欲の生涯」を読む
砂川幸雄「大倉喜八郎の豪快な生涯」を読む

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 日本文学・世界文学の中からたいへん有名な名作の感想文を載せました。まず、感想文を読んでから、名作そのものを読むことをおすすめします。名作というのは長きに渡って読む継がれたもので、人類の財産といってもよいものです。名作を読むと教養が身に付くだけでなく、心を豊かにしてくれます。名作は未来永劫光り輝き続けます。この世に生をうけて、名作を読まないのは寂しいことです。
 「名作を読む」は今回が第一弾ですが、これからも継続していきます。

テーマ : 読書感想文 - ジャンル : 小説・文学

Tag : 日本女子大学 広岡浅子

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