山田済斎「西郷南洲遺訓」を読む

庄内藩の人たちはどんな仕打ちがなされるのかと戦々恐々としていたが、お咎めはほとんどないに等しかった。それは西郷隆盛の意向であった。
戊辰の役の後、東北の多くの人たちは薩摩・長州藩を恨んだが、意外にも西郷隆盛を悪くいう人は少なかった。その理由が上にあげた庄内藩に対する寛大な処置にあるのは明らかであろう。
西郷南洲はとてつもなく度量の大きな人であった。西郷の度量の大きさは何も庄内藩だけに示したものでなく、他にもいろいろな状況・場面で示している。ただ、その度量の大きさが仇(あだ)になって、賊軍という汚名を着て、鹿児島の城山で果てるのは何とも惜しいことである。
西郷南洲とはどんな人間であったのか。西郷ほどわかっているようでわからない人もいないのではないか。西郷は何を考えそしてどこへ向かおうとしていたのか。西郷の行動原理は未だにわからないことが多い。そもそも西南戦争とは何のための戦争だったのか。
明治10年の西南戦争後、西郷は当然のごとく陸軍大将という官位は剥奪され、国賊となった。明治22年に大日本帝国憲法が発布されると、俄かに西郷の名誉挽回の運動が起こり、結局、西郷の名誉は復活し、西郷は上野の山で銅像となった。西郷の名誉を挽回しよううとしたとき、西郷の生前の言行録がまとめられた。この言行録は、維新になって鹿児島に下野した西郷を訪ねた庄内藩の藩士が西郷から聞いた話が中心になっている。この言行録が「西郷南洲遺訓」である。
「西郷南洲遺訓」は西郷の話したことをまとめたものであって、西郷自ら書き残したものではない。それでも西郷の生の声を聞くようであり、そして西郷がふだん何を考えていたのかがよくわかる。
西郷の思想の中心は何といっても私利私欲の全くないことである。<児孫のために美田を求めず>は西郷の考えを端的に表す代表的な言葉である。いたるところ、西郷の無欲さが語られる。
西郷には私欲はなかったが、使命はあった。その使命とは天を敬いそして人を愛することである。すなわち<敬天愛人>である。この4文字がどうやら西郷の行動原理であったらしい。
西郷のすごさというのは、やはり小にこだわらず、大局的にものを見ることができることであろう。西郷の大きさをすぐに見抜いたのが、勝海舟であり、その弟子坂本龍馬であった。西郷の大局的にものを見る目がなかったら、薩長同盟もなかったし、江戸は火の海となっていたかもしれない。
「西郷南洲遺訓」には論語臭さが漂うが、それはとりもなおさず西郷が陽明学者であったとう証明にもなろう。義のために行動する。それは西郷その人の姿だと思う。
「西郷南洲遺訓」全編に漂うのが、西郷が全く死を恐れていないことである。西郷の偉大さはとりもなおさず死をも恐れないということを今さらながら気付かされた。西郷南洲という人は死をも超えていた人なのかもしれない。
西郷はどんな思いでこの世を去っていったのであろうか。



写真は、鹿児島県鹿児島市にある西郷隆盛生誕地の碑です。この土地から、明治の元勲が多数輩出しています。ちなみに、西郷の弟である西郷従道と従兄弟の大山巌は元勲でしたが、尊敬する兄と兄と慕う従道と巌は西南の役の件で総理大臣職を辞退しています。
この「名著を読む」には、以前にも内村鑑三「代表的日本人」、江藤淳「南洲残影」で西郷隆盛を取り上げています。西郷周辺関連では、アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」、勝海舟「氷川清話」などをお読みいただければ幕末~西南の役までの背景がそれなりにわかると思います。是非合わせてお読みください。
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★西郷隆盛:内村鑑三「代表的日本人」、江藤淳「南洲残影」が、西郷隆盛を取り上げています。西郷の周辺関連から、アーネスト・サトウ「一外交官の見た明治維新」、勝海舟「氷川清話」などをみても、大塩平八郎の檄文を読んだ西郷が、公義の不正義を断罪し正義を貫き抜いた大塩の奮戦・死闘から天の声を聴いたように簡明を受け、人格・形成のキー・ポイントを伽藍胴に欠き抜き理解の体をなさない欠陥を、炙ります。大塩平八郎を無視・黙殺・黙過する半端・志向は、彼らの文士・失格を明らかにし、歴史を心に準備しない文士たちに結ばれる嘘の合理は、深刻な闇の陰を山岳・列島に投じます。内村鑑三の唐突・陶酔は、心に描く図式のカタチを捩(もじ)ったもので、その思考・形式はレベルの低いもので、信仰のレベルに至らないお粗末なものです。太字の文
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