宮本常一「家郷の訓(おしえ)」を読む

 現在ではさいたま市になっているが、まだ与野市とよばれていたとき、私は与野市のある町に数年間住んだことがある。その町は、畑・田んぼ・原野などを造成して住宅街にしたような土地であった。東京からわずかな時間でいけるところにあるのだが、いたるところ武蔵野の風情を漂わしていた。
 その町に神田なる名前の地域があった。私はその名前を当たり前のように「かんだ」と読んでしまったら、その土地の人から「じんで」と直された。私はその名前が強く印象に残っている。
 宮本常一の「家郷の訓」を読んでいたら、神田という名前の土地の話がでてきた。宮本の故郷の家が小作していたのは学校の近くの田であった。学校のあるあたりをジンデといい、神田と書くのであると説明しさらに、その土地は昔、氏神様の田であったと解説してくれている。私は神田とは神の田の意味で、神社の土地であったことを理解した。
 日本には同じ名前の土地がたくさんある。田町・大手町・瓦町などはどこの都市にでもあるような名前だ。それらの名前にはある意味があったに違いない。その意味を考えるのはたいへんおもしろい作業であろう。
 私は川を隔てた東京の隣の市に住んでいる。私はこの市で生まれ育った。いわゆる私のふるさとなのであるが、どこをみても住宅ばかりでふるさとというイメージとは程遠い。当然、昔の名残をとどめているものはほとんどない。ただ、土地の名前だけは昔のままである。おそらくその名前は江戸時代から続いているものに違いない。因みにバス停の名前を挙げてみると、下作延・上作延・日向(ひなた)・宮下・神木(しぼく)・八幡前などである。名前を聞いただけでその土地が昔どのような役割を荷っていたかがわかる。昔はのどかな田園地帯であったのだろうと想像できる。今では家が密集する住宅街になってしまったが、やはり私のよきふるさとである。

 宮本常一の「家郷の訓」は宮本が自身のふるさとについて書いた本である。宮本は民俗学者であるから、きっと、ふるさとの事物を材料として民俗学的考察を施したものであろうと思いたくなるような本である。私もそう思って読んでみた。ところが、この本は民俗学的な臭いのない本であった。民俗学というよりは、生まれ育った村での生活のことを細々と綴った回顧録みたいな感じである。私小説を読んでいる気がした。太宰治がふるさとの津軽を偲んだ文章を読んだときと同じような雰囲気を感じた。なめらかな文章で最高の文学書といってもよいかと思う。
 私は宮本の著作が好きである。その理由の1つが文章のうまさである。たいへん味わい深い文章である。宮本は一流の文学者の資質をもった人だとつくづく思う。
 宮本は山口県大島郡白木村に生まれ育った。「家郷の訓」は幼少期・少年期・青年期の初めまでのことをいろいろな角度から記述したものである。各章のタイトルをあげてみると次のようになる。

 私の家・女中奉公・年寄と孫・臍繰りの行方・母親の心・夫と妻・母親の躾・父親の躾・成育の祝い・子供の遊び・子供仲間・若者組と娘仲間・よき村人・私のふるさと

 当然のことながら私は宮本と同じ体験はしていない。ところが、いずれの内容もなつかしい感じがするのである。私はやはり、日本人は都会・田舎で育ったこととは関係なく同じ原風景をもっているのではないかと思った。
 「母親の躾」の章では、宮本は自分の母親のことを縷々と述べているのだが、それはとりもなおさず私の亡くなった母親の姿でもあった。日本の母親は程度の差はあるがだれでもが子供の幸福を心底願っているのである。母親が他郷に出た子供のために毎日氏神様にお祈りをする件(くだり)は感動的である。
 
 よく「村社会」という言葉が使われる。がいして悪い意味で使われることが多い。かくいう私もその意味で使っている。しかし、「家郷の訓」を読んで、村というものに対して考えを改めなければならないと思うようになった。村は因習的な慣習で村民をしばる窮屈な存在であるのは確かであるが、それは表面的なことで村の本質的な機能は村という共同体に住む人々の幸福をつねに追求しているシステムなのではないかと思えるのだ。
 宮本は「よき村人」の章で人間の幸福について次のように述べている。

<本来幸福とは単に産を成し名を成すことではなかった。祖先の祭祀をあつくし、祖先の意志を帯(たい)し、村民一同が同様の生活と感情に生きて、孤独を感じないことである。われわれの周囲には生活と感情を一にする多くの仲間がいるということの自覚は、その者をして何よりも心安からしめたのである。>

 村は私たち日本人のすべての心のふるさとであると、しみじみと感じた。

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