寺田寅彦「科学と科学者のはなし」を読む

 戦前の理化学研究所では仁科芳雄・朝永振一郎など日本を代表する科学者が日夜研究に勤しんでいた。その科学者たちに混じって寺田寅彦もいた。
 寺田は物理学者で、研究するテーマが他の科学者たちとは一風変わっていた。最先端の量子力学を駆使しての原子の構造の解明をする研究などが多い中で、寺田の研究テーマは「線香花火の研究」「金平糖の角の発生」「墨流しの研究」などという奇妙なものであった。私はこのテーマを知って思わず笑ってしまったが、さすが寺田らしいと感心した。
 寺田寅彦は物理学者であると同時に優れた文学者でもあった。寺田の文学の師匠は夏目漱石である。寺田が熊本の第五高等学校の学生のとき、そこで英語を教えていたのが夏目漱石であった。また、第五高等学校には数学と物理学を教える田丸卓郎がいて、寺田は田丸の影響で物理学の道に進むことになる。
 寺田は科学者の目と文学者の目とをもっていた。寺田は文学特に俳句のことを漱石から教わり、自ら俳句をしたためている。逆に、漱石は寺田から科学全般のことを教わった。特に、寺田の最先端の科学の研究に漱石は強い興味を示した。
 漱石は寺田のことを自らの作品の登場人物のモデルにしている。「吾輩は猫である」では水島寒月、「三四郎」では野々宮として登場してくる。寒月は首吊りの力学の話などをするのだが、特に目をひくのは野々宮の研究である。その研究は光の圧力に関するものである。光に圧力があることは当時まだやっと解明されたばかりで、漱石がそのようなことを知っていたことに科学少年であった私はたいへん驚いたものである。光の圧力に関してはニュートン力学を超えて量子力学の世界の話になるが、漱石はその話を寺田から教わったのである。
 寺田の博士論文は「尺八(しゃくはち)の物理学的研究」である。寺田は身の回りのささいな現象を物理学的に解明する研究をよくしたが、最先端の量子力学の研究もした。寺田の研究した<ラウエ斑点のエックス線解析>はノーベル賞一歩手前の研究だといわれている。寺田は生涯に渡って他の科学者が思いつかないような幅広い研究をした。

 寺田は生前約300の随筆を書いた。それは寺田寅彦随筆集としてまとめられているが、その随筆の中から寺田の特徴が特ににじみ出ているおもしろいものを集めたのが「科学と科学者のはなし」<岩波少年文庫>である。タイトルが示すように科学に関する随筆が多いのだが、漱石のことや文化・伝統に関しての随筆もある。
 どの随筆も興味をそそられるものばかりである。さすがに文学者だけあって文章も味わい深いものである。金平糖や線香花火についての随筆もある。他に地震・波・音・天体・人魂などに関して、身辺の現象と絡ませて物理学的考察を行っている。生物に関しての物理学的考察をしたものもある。
 私が一番感銘した随筆は「科学者とあたま」である。寺田にいわせると、優秀な科学者になるためにはあたまがいいことは必要条件であり、十分条件ではないということである。あたまがいいことに加えてあたまが悪いことが優秀な科学者になるための必要十分条件だと寺田は力説する。読んでなるほどと思わせてくれる。あたまのいい人はとかく杓子定規に考えて本当に科学者として見なくてはならない現象を見失っていると寺田はいう。この論理は優秀な科学者だけでなく、優秀な政治家・実業家などに関してもあてはまると思う。
 「夏目漱石先生の追憶」という随筆もある。これを読むと寺田が心底から漱石を敬愛していたことがわかる。漱石はいい弟子をもったと思う。

 寺田の随筆を読むと、否応なく視野を広げてくれる。と同時に寺田のあの愛嬌のある顔が浮かんでくる。

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