小林秀雄・岡潔「人間の建設」を読む

北鎌倉東慶寺にある小林秀雄墓所
 私が数学者というものにすこぶる興味をもったのはカントールの集合論を勉強したときである。その内容は衝撃的であった。有理数と無理数の数を較べると、無理数の方が圧倒的に多く、実数はほとんど無理数からできているという事実には正直驚いた。さらにそのカントールが考え出した証明方法(対角線論法という)には思わず唸ってしまった。一体、どのような精神構造をもったらこんな証明方法を考え付くのだと唖然とした。カントールの集合論は当時のほとんどの数学者たちには受け入れられず、カントールは非難というよりも中傷された。そしてカントールは精神を病み、最後は精神病院で死んだ。私の脳裏には集合論というよりもカントールその人のことが長く残った。
 カントールを天才という一言で片付けるのは簡単であるが、天才という言葉には数学そのものの神秘性はない。数学というよりも数学者の神秘性といったほうがよいかもしれない。カントール以後、私は数々の数学者たちに興味をもった。アーベル・ガロア・ガウス・オイラー・リーマンなどである。特に、ガロア・リーマンについては私の興味は尽きない。彼らの業績を知るに及んで、数学者は私にとってはどこか神がかり的な人間に思われ始めた。
 数学はよく論理だと言われる。この見方に間違いはないであろう。ただ、これだけでは数学の本質を言い当てたことにはならないであろう。これだけだと数学者は論理力のある人になってしまう。論理力だけでなく、数学者にはもうひとつ何かが必要だと思う。それは直感力ではないだろうか。
 現代の数学はいくつかの公理から出発して論理でもって巨大に体系化されたものである。非論理のはいる隙はない。論理のみが体系の中を歩むことができる。だが、体系がさらに飛躍的に大きくなるときには論理よりも直感が必要なのではないか。
 論理と直感。私ははじめこの2つは同じものだと思っていた。論理力のない人に直感などありえないと思っていたからだ。しかし、カントール・ガロアなどの業績を知るに及んで、私は直感というのは選ばれた数学者のみが持ちえる詩的な魂みたいなものでないかと思うようになった。ずばり優れた数学者は詩人なのではないか。

 小林秀雄と岡潔の対談「人間の建設」を読んだとき、私はすがすがしい気持になった。普段思っていることを小林と岡がうまく言ってくれたように思ったからだ。2人とも数学者と詩人を同一のものと見ている。数学も詩も本質は直感と情熱であるともいっている。
 考えてみれば異色の組み合わせである。小林は日本を代表する文芸批評家であり、岡は世界的な数学者である。ただ、小林は回りが自分のことを批評家だといっているだけだといっている。小林はこよなく文章を愛した詩人だと私は思っている。
 最初どんな話題がでてくるかと恐る恐る読み進めたが、2人とも専門分野以外のこと、特に小林が物理と数学、岡が文学をよく知っていることにまず驚いた。小林はアインシュタインのことをよく知っていて、相対性理論のことまで言及している。対する岡はドストエフスキーをよく読んでいる。ドストエフスキーは小林が最も関心を示した作家である。小林のドストエフスキーとトルストイの違いの解説はおもしろい。
 片や大文学者、片や大数学者であり、話はいろいろと飛んでいくが、最後は情緒に行き着く。情緒とは人間独自の感情であり、この感情がすべてにまさって重要であることは2人の共通認識である。数学も最後は情緒であると岡は言う。私は数学の奥の奥を覗いた気になった。

 どんな仕事、学問でもそれが昇華すると最後は人間の問題に行き着く。文学は当たり前だが数学も最後は人間の問題になる。タイトルが「人間の建設」とはうまく言ったものである。

にほんブログ村 本ブログ おすすめ本へ


 写真は、北鎌倉東慶寺に眠る小林秀雄墓所です。

人間の建設 (新潮文庫)人間の建設 (新潮文庫)
(2010/02/26)
小林 秀雄岡 潔

商品詳細を見る

テーマ : 文明・文化&思想 - ジャンル : 学問・文化・芸術

Tag : 人間の建設

COMMENTS

COMMENT FORM

TRACKBACK


この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)