小林秀雄「モオツァルト・無常という事」を読む

鎌倉天ぷら「ひろみ」
 鎌倉駅から小町通りに入って少し行った左手のビルの2階に天ぷら屋「ひろみ」がある。「ひろみ」はカウンター席と7つばかりのテーブル席のある普通の天ぷら屋であるが、知る人ぞ知る有名な天ぷら屋である。小林秀雄が定連であった店である。ただし、小林が通ったのは今の店ではなく今の店から近くにあった旧店である。小林が死んだあと、現在の店に移ったのである。現在のマスターは2代目で先代の息子である。先代の時代、小林は足繁く「ひろみ」に通ったのである。現在のマスターは子供時代、お客の小林に何度も会っている。
 私は鎌倉は何度も遊びにいったが、今回初めて「ひろみ」に行った。長い間、一度小林の行き付けの天ぷら屋へ行きたいと思っていた。私が「ひろみ」の存在に気が付いたのは江藤淳の随筆を読んだときである。江藤はアメリカの研究所に終戦直後に行われたGHQの検閲について調べに行く直前に、小林に挨拶に行った。小林は江藤の渡米の目的を聞いて江藤を元気付け、いつもの天ぷら屋に連れていった。江藤は何回もその天ぷら屋に連れて行ってもらったらしい。
 私はマスターに小林のことをきいているうちに、江藤淳のこともきいてみた。やはり江藤もよく小林に連れて来られ何回も見かけたことがあると言った。そして、小林に対する江藤はまさに校長先生に対する小学生みたいだとも言った。私はなんともいえない感動を覚えた。江藤はどんな権威にも屈しない豪腕な人だと思っていたからだ。江藤にとっては小林は師匠であり、父親みたいな人であったのかもしれない。
 「ひろみ」には小林丼という名の天丼がある。小林がよく好んで食べた天丼を小林丼と名づけたのである。小林は天丼の天ぷらを肴にしてお酒を飲んだそうである。私も天丼の天ぷらを肴にお酒を飲んだ。天ぷらはやはらかくたいへん美味であった。
 小林はたいへんな美食家であったらしい。食だけでなく小林は本業の文学以外に絵画・音楽・書・骨董などに造詣が深かった。こだわるものには徹底的にこだわったのである。特に、骨董にはこだわり、戦時中は骨董の売買で生計を立てていたとも言われた。食も小林のこだわりの1つであったに違いない。「ひろみ」は小林の眼鏡にかなった店であったのである。

 小林の文章は難解である。私は学生時代何度も小林の本は読んだが、よくわからなかった。だが、年齢を重ねていくうちに小林の作品が味わい深いものになっていった。絵画も骨董も時間を置いて何度も見ていくうちに味わい深くなるのと同じかもしれない。
 私は特に歴史に材を得た小林の文章が好きである。それらの文章は絶品である。小林の文章を読んだ後は歴史学者の書いた歴史の本を読むのが嫌になる。
 「モオツァルト・無常という事」(新潮文庫)には私の好きな随筆がたくさん収められている。「当麻」「徒然草」「無常といふ事」「西行」「実朝」「平家物語」は特に好きである。小林の筆になると歴史上の死んだ人間たちが生き生きと蘇ってくる。実朝・西行の孤独が直に伝わってくる。小林は死んだ人間を絶対的に信じているようだ。これは小林文学の核心をなすものかもしれない。晩年の「本居宣長」まで小林は過去の死んだ人たちのことを追いかけた。小林は次のように川端康成に語りかけている。

<生きている人間などというものは、どうも仕方のない代物だな。何を考えているのやら、何を言い出すのやら、仕出来すのやら、自分の事にせよ他人事にせよ、解った例があったのか。鑑賞にも観察にも堪えない。其処に行くと死んでしまった人間というのは大したものだ。何故、ああはっきりとしっかりとして来るんだろう。まさに人間の形をしているよ。してみると、生きている人間とは、人間になりつつある一種の動物かな>(無常という事)

 私は鎌倉にある天ぷら屋「ひろみ」のテーブル席でしばし、もう死んでしまった遠い昔の小林の姿を思い浮かべた。

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 写真は、鎌倉小町通り天ぷら「ひろみ」です。

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小林 秀雄

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Tag : モオツァルト・無常という事

COMMENTS

Re: Re: 反時代的覚悟

> > こんにちは。
> > 小生は、小林秀雄はこの時期のものが最も好きです。古典や音楽を論じながら、あの時代、彼の激しい「いかに行くべきか」の苦闘が顕れているからです。
> > 「実朝」における徹底的な反政治性、モーツアルトをリアリストと断言する異常な迫力に、小生強く動かされます。
>
> うたのすけさんへ
>  コメントありがとうございました。
>  小林秀雄は最後の文士のような気がします。文士とは反政治的なものです。文芸評論家として有名になるとすぐに政治的な発言をする人がいますが、私はこれらの人を文士とは思っていません。
>  小林が実朝や本居宣長のことを偲んだのがわかるような気がします。

反時代的覚悟

こんにちは。
小生は、小林秀雄はこの時期のものが最も好きです。古典や音楽を論じながら、あの時代、彼の激しい「いかに行くべきか」の苦闘が顕れているからです。
「実朝」における徹底的な反政治性、モーツアルトをリアリストと断言する異常な迫力に、小生強く動かされます。

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私は考えるヒントしか読んだ事がありません。こちらも読みたいですね。

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