シュミット村木眞寿美編訳「クーデンホーフ光子の手記」を読む

 私は日本の歴史においては明治時代が一番興味が湧く。明治時代とは江戸時代と近代とがせめぎ合いながら渾然一体となった時代である。古いものを壊しそして残しながら新しいものが注入されていくダイナミックな時代であったのだ。
 明治になると、日本は急激に近代化に進み、明治22(1889)年には憲法の発布、そして翌年には国会が開設され、近代国家の仲間入りをはたした。
 日本は当然のことながら、世界にも目を向け、2つの大きな戦争を経験した。日清戦争と日露戦争である。日清戦争は1894年、日露戦争は1904年に起こった。この2つの戦争において日本は大国に戦いを挑んだのである。清は当時、眠れる獅子と恐れられていたし、ロシアは世界最強の陸軍を持っているといわれた。どちらも国運を決する戦いであったが、日本は2つの戦争ともに勝利した。これらの戦争を通して、日本は表向きは、世界の大国として認められたのである。
 国レベルでは日本は世界の大国へと突き進んでいったが、国民レベルでも外国との交流はさかんになった。明治4年の岩倉使節団を皮切りに、たくさんの日本人が海外へと渡った。政治家だけでなく、商人・軍人・学者たちが海を渡った。森鴎外も夏目漱石も留学した。
 たくさんの日本人がヨーロッパに行ったのだが、さすがにヨーロッパの国の貴族と結婚してヨーロッパに渡った人というのはクーデンホーフ光子ぐらいしかいないのではなかろうか。
 クーデンホーフ光子の日本人のときの名は青山みつといった。江戸が東京と名前を変えて間もない明治7(1874年)に銀座で商人の娘として生まれた。みつは明治25(1882)年にオーストリア・ハンガリー帝国の公使館の代理公使ハインリッヒ・クーデンホーフ伯爵と結婚した。商人の娘みつはクーデンホーフ光子すなわち伯爵夫人になったのである。

 シュミット村木眞寿美編訳「クーデンホーフ光子の手記」は光子が夫であるクーデンホーフ伯爵の思い出を綴った手記である。伯爵は光子が32歳のときに死んでいる。7人の子供のうち、5人の子供は幼なかったので父親のことはよく覚えていなかった。そこで母親の光子が彼らの父親について書き残したのである。
 私はこの手記を読んで感銘した。江戸情緒を残す江戸商人の娘がヨーロッパのハプスブルグ家の国の由緒ある貴族に嫁いでも、その精神性において貴族夫人として立派に振る舞ったことに私は大和撫子(なでしこ)の本性を見た思いがした。
 手記は3つの章から成り立っている。第1章は日本からヨーロッパへ帰る旅のこと、第2章は夫である伯爵のこと、第3章はヨーロッパでの生活のことである。
 この手記を読むと、ヨーロッパの貴族の生活がどのようなものであるかが大体わかって興味深い。クーデンホーフ伯爵は特別だったのかもしれないが、伯爵は気品があり、教養があり、そして慈愛に満ちた人であった。彼はカソリック教徒であり、光子もカソリック教徒になった。光子は仏教徒からカソリック教徒になったわけであるが、それに対して何ら違和感がない。人間のもつ気品・誠実さは宗教には関係ないのかもしれない。伯爵はたいへんな勉強家でヨーロッパのすべての言語、そして中国語・朝鮮語・日本語ができた。 明治25年伯爵夫妻は4年間の新婚生活を終えて、ヨーロッパへと向かった。この4年間の間に日本では日清戦争があった。日清戦争についても光子は言及している。当時の日本人の気持ちがわかっておもしろい。大きな犠牲を払って戦勝国となった日本はロシア・フランス・ドイツの3国干渉によって手に入れた中国の領土を返還した。それに対して国民は怒りまくり、東京においてはすべての西洋人が襲撃の対象になったそうである。
 伯爵は旅が大好きで、エゾ(北海道)や朝鮮も光子を伴って旅をしている。朝鮮では虎狩りをした。
 光子は自分の夫である伯爵について敬愛の気持ちを込めて綴っている。それは何があっても夫を信頼し、夫を立てる日本人の妻の姿である。

 光子がヨーロッパに渡り、夫を亡くしてから、ヨーロッパは激動の時代に突入した。ハプスブルグ家は没落し、そしてオーストリア・ハンガリー帝国もなくなった。光子は時代に翻弄されながらも、日本人の魂をもってヨーロッパの名門貴族夫人として気品に満ちた生涯を送ったのである。

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