今泉みね 金子光晴解説「名ごりの夢 蘭医桂川家に生れて」を読む

安政5年福沢諭吉この地に学塾を開く。  1860年、咸臨丸は江戸からサンフランシスコまで自力で航海した。たいへんな快挙だった。咸臨丸に乗る使節の代表は勝海舟だと思いきや、勝は船長であり、正真正銘の代表は軍艦奉行の木村摂津守である。勝は船酔いで航海中ほとんど寝ていたという。
 咸臨丸には若き福沢諭吉が乗っていた。考えてみれば福沢が乗っているのは不思議だ。咸臨丸は幕府の使節であるから、使節は幕臣で構成されるべきで、陪臣である福沢が使節の一員になったというのはどうしてか。
 西洋文明にいたく興味をもっていた福沢はぜひとも咸臨丸に乗ってアメリカに行き、自分の目で西洋文明を見たがった。木村が福沢を従者として連れていくことを決めたのである。このとき、福沢を木村に推薦したのが、幕府の奥医師である桂川甫周であった。木村は甫周の義兄であったのである。
 桂川家は代々続く奥医師の名門である。奥医師とは将軍の主治医のことで、桂川家は蘭医であった。江戸時代の蘭医とは蘭学を修めたもので、特に桂川家は日本一の蘭学の権威であった。そのため多くの蘭学を志す人間が桂川家に出入りした。そのうちの一人が福沢であった。福沢はとにかく学問好きの青年で、甫周から蘭学の講義をきいた。甫周は福沢をたいへんに評価しており、木村に紹介したのである。
 江戸時代、奥医師とはたいへん身分が高いもので、位は法眼(ほうげん)で、旗本たちも駕籠で出会えば、脇に寄らなければならなかった。家禄はそんなに高くはなかったが、築地に広大な屋敷を構え、多くの召使や書生を抱えていた。桂川甫周は7代目であった。
 
 今泉みね著「名ごりの夢」は桂川甫周の一人娘みねが80歳になって、幼少そして娘時代のことを振り返った語り物である。その話言葉は得も言われぬ美しさである。日本語とはかくも美しい言葉であると再認識した。私はこの本を読みながら感動のしっぱなしであった。そして郷愁にも似た気持ちが湧き起こるのを禁じえなかった。本当に江戸時代の風情を堪能した。
 みねは安政2(1855)年に生まれ、昭和12(1937)年に没している。母親はみねを生むとまもなくして他界した。みねは父の甫周から溢れんばかりの愛情を注がれて育ったのである。
 「名ごりの夢」にはみねが幼い頃に見た桂川家のことや、家の回りの風景などについて語られている。多く語られているのが、桂川家に出入りしていた人たちのことである。日本で始めて新聞を創刊したといわれる柳河春三、舎蜜(せいみ)学を化学と命名した日本近代化学の祖といわれる宇都宮三郎、そして福沢諭吉や成島柳北などである。
 柳河はおもしろい人で、柳河の回りには笑いが絶えなかったという。また、福沢は本が好きで、いつも懐は本でふくれていたという。ある寒い夜、福沢は夜なきそばを食べにいった。ところが、お金がなくて襦袢をそば代としておいてきた。仲間のものたちは本を置いてこなかったのはさすが福沢であると感心した。
 桂川の家は道を隔てて大川(墨田川)と面していた。その頃の大川は本当に美しかったという。水は透きとおるくらいにきれいだった。花見の頃には屋形船が浮かび、その船から三味線の音が流れてきた。たいへんのどかな風情を漂わしていたのである。
 みねは甫周に大事にされながら育ったが、桂川家は幕府の崩壊とともに没落していった。明治になると甫周とみねは六畳一間の長屋に住んだ。みねは幕府を倒した佐賀の人間と結婚したが、その結婚は幸福といえた。

 「名ごりの夢」を読むと、現代の日本という国家が江戸時代を土台としていることを痛切に感じる。江戸時代があったからこそ、私たちは世界に誇れる文化を持つことができたのだと心から思う。

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 写真は、東京築地に建っている慶応義塾発祥の地碑です。碑文は「安政5年福沢諭吉この地に学塾を開く。昭和33年慶応義塾これを建つ」と彫られています。今泉みねはこの近辺で激動の時代を過ごしました。

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